第7話 天界のさざめき
天界の朝は、音がない。
雲の回廊に、淡い光が流れている。
観測殿の中央、水晶盤が微かに震えた。
「……揺れた」
記録天使の声。
盤面に、ひとつの光点が浮かぶ。
地上。山間部。弱いが、消えない波動。
「祝福波形……一致」
「異質成分混入」
「制御系の反応を検知」
ざわめきが走る。
祝福と制御。
本来、混ざらぬはずの性質。
「記録を照合」
光が走る。名が浮かぶ。
「落第天使、ルシエル」
「単独ではない」
盤面に、もうひとつの揺れ。
魔界由来の残滓。
「失格悪魔、セリス」
空気がわずかに冷える。
「接触か」
「融合か」
「中立域の形成の可能性」
中立域。
天界でも魔界でもない領域。
理論上は存在する。
だが、実例はない。
「監視を送る」
その声は、低く静かだった。
観測殿の奥から、一人の天使が歩み出る。
白銀の羽。澄んだ青の瞳。
「エリシア」
「は」
名を呼ばれ、跪く。
「落第天使ルシエルの所在を確認せよ」
ほんの一瞬だけ、呼吸が止まる。だが顔は上げない。
「接触の可否は現地判断」
「危険因子と判断した場合は報告」
排除とは言わない。
まだ、そこまでではない。
水晶盤に映る小さな光。
静かに揺れている。
攻撃的でも、歪でもない。
ただ、ゆらいでいる。
エリシアの胸の奥が、かすかに波打つ。
落第。
その裁定の日を、彼女は覚えている。
剣を下ろしたルシエルの横顔。
迷いではなく、決意の目だった。
「……了解しました」
立ち上がり、羽を広げる。
任務だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
雲の回廊を抜け、光が地上へ落ちる。
天界は、まだ静かだ。
だが。
小さな湯の揺れは、確かに観測された。
♢♢♢
光は、音もなく降りた。
山間の空気が、わずかに揺れる。
白銀の羽が、雪の上に影を落とした。
エリシアは地に足をつける。
冷たい風。
天界とは違う、重みのある空気。
視線を上げる。
あれは山の奥。
淡い波動が、確かにある。
「……あそこ」
歩き出す。雪を踏む音が、やけに大きい。
近づくにつれ、波ははっきりする。
強くはない。
攻撃的でもない。
だが、混ざっている。
祝福と、制御。
理論上あり得ぬ揺らぎ。
やがて、小さな囲いが見えた。
湯気が立ちのぼっている。
質素な看板。
――隠れ湯庵ゆらぎ。
エリシアは一瞬だけ目を細め、暖簾をくぐる。
「いらっしゃいませ! ……あれ?」
明るい声。ルシエルだ。
変わらない笑顔。
変わらない声音。
一瞬、時が巻き戻ったような錯覚。
だがエリシアは表情を崩さない。
「湯を借りる」
簡潔に言う。
ルシエルはにこりと頷く。
「どうぞ」
その横に立つ黒髪の悪魔が、じっと見ている。
この子が、セリス。視線が鋭い。
「……珍しい客ね」
「通りすがりだ」
嘘ではない。
任務は告げない。
脱衣所は簡素。
羽を畳む。
湯気が揺れる。
囲いの中へ足を踏み入れた瞬間、波動がはっきりと触れた。
これが混ざり合う力。
だが、歪みはない。
警戒を解かぬまま、湯に足を入れる。
温かい。
なんだ? 予想以上に。
肩まで沈む。その瞬間。
ふ、と力が抜けた。
緊張がほどけ、呼吸が深くなる。
表情が。
――へにゃ。
……。
ほんの一瞬だけ、完全に緩んだ。
そう、ほんの一瞬だけ。あれ、まだ……。
自覚のない顔。
目尻が落ち、口元がやわらぐ。
数秒。
そのまま。
セリスの眉が跳ねる。
ルシエルが瞬きをする。
「……」
エリシアは、はっとして目を開く。
瞬時に表情を戻す。
「……悪くない」
さっきまでのへにゃり顔は、平静を装っていた。
だが頬が、ほんのわずかに赤い。
湯面が、深く揺れる。
ゆらぎ湯は、静かに彼女を包んでいた。
湯から上がったエリシアは、いつも通りの顔に戻っていた。
背筋を伸ばし、余計な感情は一切見せない。
けれど。
頬の赤みは、まだ完全には引いていない。
「どうでした?」
ルシエルが自然に尋ねる。
「……悪くない」
短い答え。
「それだけ?」
「十分だろう」
セリスが横からじっと見る。
観察するような目。
「通りすがり、にしては」
「なに」
「波が合いすぎる」
一瞬、空気が止まる。
エリシアはセリスを見る。
「意味がわからない」
「……そう」
セリスはそれ以上追わない。
だが警戒は解かない。
囲炉裏の前に、三人が並ぶ。
火がぱちりと鳴る。
ルシエルは湯呑みを差し出した。
「温まりますよ」
「……」
一瞬迷い、受け取る。
天界の規律では、地上の供物を安易に受け取らない。
だが、ここは任務中。
それに、断る理由もない。
茶をひと口。
肩が、また少しだけ緩む。
「……ここは」
無意識に、言葉がこぼれる。
「なに?」
ルシエルが身を乗り出す。
エリシアは一瞬黙る。
「……静かだな」
それだけ。
だが、それだけで十分だった。
セリスがふっと笑う。
「そうね」
少し、柔らかい声。
沈黙。
火の音。湯気。立場も役割も語らない空気。
エリシアは気づく。
ここでは、誰も名を問わない。
出自も、階級も、過去も。
ただ、湯に入る。
ただ、あたたまる。
視線が、ルシエルに向く。
変わっていない。
むしろ、以前より穏やかだ。
天界で見た横顔より、今の方が自然だ。
「……滞在は?」
セリスが問いかける。
「日帰りだ」
即答。
少しだけ間があったのを、ルシエルは聞き逃さなかった。
「また来てくださいね」
「……任務があれば」
「任務?」
……。しまった、という顔はしない。
エリシアは平静を保つ。
「地上巡回の任務だ」
「そっか」
ルシエルはあっさり頷く。疑わない。
それが、逆に胸を刺す。
立ち上がり、羽を整える。
囲いの外へ出る前、ほんの一瞬だけ振り返る。
湯気が揺れる。
火が揺れる。
セリスが立っている。
ルシエルが笑っている。
言葉にはしない。
任務は、観測。危険性の判断。
だが。
水晶盤に映る波動は、攻撃ではなかった。歪みでもなかった。
“揺れ”だった。
「……報告は後日」
小さく呟き、空へ舞い上がる。
雪が舞った。
残された二人。
セリスがぽつりと呟く。
「……あの子、天界ね」
「まあ、そうですね」
「やっぱり、気づいてたよね?」
「見たことあるなぁとは」
セリスは額を押さえる。
「危機感」
「悪い人じゃないよ」
「今じゃそれが一番危ないのよ」
湯面を見つめる。
ゆらぎは穏やかだ。
「……まあ、へにゃってなってたし」
セリスが小さく言う。
「え?」
「なんでもない」
ルシエルは首を傾げる。
火が揺れる。
湯が揺れる。
♢♢♢
天界に戻ったエリシアは、水晶盤を前に立つ。
報告書は、まだ白紙。
筆を取る。止まる。
小さな湯の揺れを思い出す。
へにゃ、と緩んだ自分の顔も。
「……経過観測」
それだけを書いた。
排除も、警戒も、記さない。
天界はまだ、静かだ。
だが。
揺れは、確実に広がっている。
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