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第9話 羽と角の噂

 昼下がりの光が、縁側をやわらかく照らしていた。


湯気は穏やかに立ちのぼり、雪解けの水が岩の隙間を流れていく。

隠れ湯庵ゆらぎは、村の風景のひとつになりつつあった。


縁側に腰を下ろしたリオンが、足をぶらぶらさせながら言う。


「なあ、ルシエル」

「なに?」


薪を割りながら、ルシエルは顔を上げる。


「この前の白い人、やっぱ天使だよな?」


その問いに、ルシエルは少しだけ笑った。


「そうかもね」

「黒い人もいたし」


横で腕を組んでいたガルドが、低く鼻を鳴らす。

「羽と角の湯、だな」


ハナエがくすくすと笑う。


「でもね、不思議なんだよ」


「何が?」

「怖くないんだ」


その言葉に、空気がふっとやわらぐ。


確かに、村人たちは最初こそ戸惑った。

白い羽も、黒い羽も、見慣れたものではない。


だが――


「天使も悪魔も、湯に入ったら同じ顔してた」


リオンが思い出したように笑う。


「へにゃって」

「言うな」


即座にセリスが縁側の奥から声を飛ばす。


笑いが広がる。


ガルドが腕を組んだまま、ゆっくりと言った。

「あそこは、そういう場所だ」


視線は湯へ向いている。


「羽も角も、関係ねえ」


ルシエルは、その言葉を胸の奥で受け止める。


まだ小さな湯庵。名も広まっていない。

だが村の中では、すでに“特別な場所”になり始めている。


誰が来ても、同じように湯気が包む。

誰が浸かっても、同じように力が抜ける。


ゆらぎは、拒まない。


縁側から立ち上がったリオンが、湯をのぞき込む。


「なあ、セリス」

「なに」


「ほんとに羽と角、隠してる人いるのか?」


セリスは一瞬だけ目を細め、それから湯面を見つめた。


「いるわよ」


「見たことない」

「見せないだけ」


その声音は淡々としているが、どこかやさしい。


隠しているのは、羽や角だけではない。

立場や過去や、選べなかったもの。

全部、湯気の中で少しずつほどけていく。


ルシエルは薪を割り終え、斧を立てかける。


「まあ、羽と角の湯でもいいじゃない」


「隠れ湯庵なのに?」


ハナエが笑う。


「隠れてるのは、羽と角だけでしょ」


セリスが言う。


「中身は隠してない」


その言葉に、ガルドがゆっくりとうなずいた。


湯気がふわりと立ちのぼる。


ゆらぎは今日も、変わらずそこにある。



 夜になると、湯庵は昼とは違う顔を見せる。


客が帰ったあとの静けさ。

囲炉裏の火が小さくはぜ、湯気がゆらりと天井へ溶けていく。


「……羽と角の湯、だって」


湯呑みを手に、ルシエルがくすりと笑う。


「隠れ湯庵がいいのに……いつの間にか名前変えられそう」


「隠れてるのは羽と角だけでしょ」


セリスは湯の様子を確かめながら答える。


「中身は隠してない」

「そうだね」


火がぱちりと鳴る。


少しの沈黙。


その揺らぎの中で、ルシエルは何気ない声を装って言った。

「ヴァルクスってさ」


セリスの手が、ほんのわずかに止まる。

「なに」


「すごい人なんでしょ?」


視線は湯面へ向けたまま。


「……優秀だった」


「だった?」

「今もよ」


淡々とした返答。けれど、その声音は少し遠い。


「止められなかったけど」


「……」


「処分のとき」


囲炉裏の火が、静かに揺れる。


ルシエルの胸の奥が、わずかにざわついた。

自分でも理由がはっきりしない感覚。


「尊敬してた?」

「してた」


迷いのない即答。

それが妙に引っかかる。


「やっぱり、好きだったの?」


軽く言ったつもりだった。

だが、声は思ったより硬い。


セリスは一瞬だけ目を見開き、それから視線を落とした。


「違う」


「ほんと?」

「ほんと」


火の明かりに照らされた横顔は、読み取りづらい。


沈黙が落ちる。


湯面が、ゆらりと揺れる。


ルシエルはその揺れを見つめる。

胸の奥も、同じように波立っている。


なぜ気になるのか。

答えはまだはっきりしない。


「……へにゃってなってたけどね」

「だから言うな」


セリスが軽く睨む。

その仕草が妙にかわいく見えて、余計に落ち着かない。


火が揺れる。

湯が揺れる。


そして、セリスが静かに問い返す。

「エリシアは?」


ルシエルが瞬きをする。


「天界で、ずっと一緒だったんでしょ」


「……うん」


「好きだったの?」


今度はルシエルが言葉に詰まる。


エリシアの真面目な横顔。

訓練の日々。並んで戦った時間。


けれど。


「仲間だよ」

そう答える。


「それだけ?」

「それだけ」


セリスは目を細める。


火の明かりが、二人の間を揺らす。


言葉にしていない何かが、そこにある。



 囲炉裏の火が、小さく爆ぜた。

湯気が天井に溶け、部屋の中をやわらかく満たしている。


しばらく、どちらも何も言わなかった。


けれど沈黙は重くない。

ただ、揺れている。


ルシエルはようやく気づく。

さっき胸の奥に生まれた感覚。


ヴァルクスの名前を出したとき。

セリスが「尊敬してた」と即答したとき。


あの、もやりとしたもの。


それは――


独占欲に近い。


まだ小さくて、形もはっきりしない。


けれど確かに、ある。


「……まあ、いいや」


ルシエルは笑う。


自分の感情を深く追わないまま、逃がすように。


「今はここだし」


その言葉は、確認でもあった。


セリスは湯を見つめたまま、静かに頷く。

「そうね」


短い返事。だが、その声はやわらかい。


少し間を置いて、セリスがぽつりと続ける。

「過去は、消えないわ」


ルシエルは顔を上げる。

「でも、戻らない」


火の明かりが横顔を照らす。


「私は、ここを選んだ」


はっきりとした声。


誰に向けた宣言でもない。

自分自身への確認。


ルシエルの胸の奥が、じわりと熱を持つ。

「……うん」


それ以上の言葉は出てこない。

けれど十分だった。


湯面が、ゆらりと揺れる。

その揺れは、昼間よりも深い。


羽も角も、立場も過去も。

全部を抱えたまま、それでもここにいる。


囲炉裏の火が、静かに小さくなる。


セリスが立ち上がり、戸を少し開ける。


夜気が入り、湯気が揺らぐ。


「冷えるわよ」


「うん」


ルシエルも立ち上がり、二人で湯を見下ろす。


同じ景色。

同じ揺らぎ。


その距離は、ほんの少しだけ近い。


言葉にしないまま。


けれど確かに、ゆらぎは、今日も深くなっている。

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