第17話 困る世界
天界の会議室は、静まり返っていた。
白い柱。白い床。白い光。
円卓を囲むのは、上位天使たち。
「報告を」
淡々とした声。
観測担当の天使が一歩前に出る。
「中立域と称される地上施設について」
空気がわずかに張る。
「戦闘行為なし。敵対行動なし。直接的な秩序破壊なし」
「だが?」
短い問い。
「監視対象が増加しています」
「理由は」
「湯です」
一瞬、沈黙。
「……湯?」
「精神安定効果が顕著です」
「異常ではないのか」
「異常ではありません」
「だが?」
「継続的に滞在したがる傾向があります」
円卓の一角で、別の天使が言う。
「帰還報告が遅延している」
「任務効率の低下も確認」
静かなざわめき。
「敵性は」
「確認されていません」
「危険性は」
「現時点では、なし」
沈黙が長くなる。
「……では、何が問題だ」
その問いに、誰も即答できない。
やがて、低い声が言う。
「境界が曖昧になります」
別の天使が続ける。
「敵対を前提とする構造に、例外が生まれます」
「例外は秩序を乱す」
「ですが、乱れてはいません」
「……」
矛盾が、静かに積み上がる。
「正式に認めるか」
誰かが言う。
「認めれば、管理下に置く必要がある」
「管理すれば、性質が変わる可能性」
「排除は」
「理由がない」
また沈黙。
白い会議室に、答えは落ちない。
♢♢♢
同じ頃。
魔界の会議室は、暗く重い空気に包まれていた。
黒い石壁に低い灯火。
「監査報告を」
低く響く声。
監査悪魔が前に出る。
「戦闘なし。損失なし。干渉なし」
「だが」
「監査対象が“滞在希望”を示しています」
ざわりと空気が動く。
「怠慢か」
「違います」
「ならば何だ」
「……心地よい、と」
沈黙。
「心地よい?」
「湯が」
「湯だと?」
「否定はできません」
円卓の奥で、重い声が言う。
「排除するか」
「排除理由がありません」
「放置は」
「管理不能の拡大」
黒い空間にも、答えはない。
敵ではない。
味方でもない。
だが、放置しづらい。
天界と魔界。
別々の場所で、同じ結論にたどり着きつつあった。
――困る。
魔界の会議室は、低い灯火だけが揺れていた。
黒石の円卓を囲むのは、上位悪魔たち。
「監査報告」
重い声が響く。
ヴァルクスではない。
さらに上の階層の者が前に出る。
「地上の温泉施設について」
「名称」
「隠れ湯庵ゆらぎ」
空気がわずかに動く。
「戦闘は」
「なし」
「損失は」
「なし」
「干渉は」
「確認されず」
「……では、何が問題だ」
一拍。
「滞在時間の延長が顕著です」
「理由は」
「湯です」
低いざわめき。
「精神的緊張の緩和が確認されています」
「悪いことか」
「悪くはありません」
「ならば」
「監査効率が低下しています」
別の悪魔が口を挟む。
「監査員が、“また来たい”と発言」
「何だと」
「帰還後も話題に上がっています」
「……流行か」
「否定はできません」
円卓の奥から、さらに低い声。
「排除すればよい」
「理由がありません」
「作れ」
「正当性を欠きます」
沈黙。
黒い灯火が揺れる。
「正式に管理下に置くか」
「管理下に置けば、性質が変質する可能性」
「変質?」
「中立性が崩れます」
その言葉で、全員がわずかに顔をしかめる。
敵ではない。
味方でもない。
だが、敵対構造の外側にある。
「……天界も同様に困っているはずだ」
「確認済みです」
「合同協議を」
短い言葉。
全員が頷く。
困っているのは、自分たちだけではない。
それが、さらに厄介だった。
黒い会議室の灯火が、静かに揺れる。
結論は出ない。
だが決めなければならない。
白と黒。
それぞれの会議は、結論を出せないまま時間だけが過ぎていた。
天界。
「敵ではない」
「味方でもない」
「排除理由はない」
「だが秩序は揺らぐ」
魔界。
「脅威ではない」
「利益でもない」
「管理不能」
「だが干渉できぬ」
同じ壁にぶつかっている。
やがて、両陣営に同じ提案が上がる。
「合同で協議する」
個別では判断がつかない。
ならば、境界をまたいで決めるしかない。
♦︎♦︎♦︎
数日後。天界と魔界の中間域。
どちらにも属さぬ、静かな空間。
白と黒の代表が向かい合う。
「議題は一つ」
天界側が言う。
「地上の温泉施設」
魔界側が頷く。
「通称、隠れ湯庵ゆらぎ」
その名が、初めて正式な場で発せられる。
「危険性はない」
「だが例外である」
「例外は秩序を乱す」
「だが乱れてはいない」
言葉が行き交う。
しかし結論は出ない。
「正式に認可するか」
「排除するか」
「放置は不安定」
「管理は変質を招く」
どの選択も、決定打に欠ける。
沈黙が落ちる。
白も黒も、動けない。
やがて天界の代表が低く言う。
「……上位判断を仰ぐか」
魔界の代表も、重く頷く。
「最上位に」
その言葉が落ちた瞬間。
空気が、ほんのわずかに変わった。
誰もが、無意識に背筋を伸ばす。
呼ぶべきか。
呼ばざるべきか。
しかし決断はなされた。
「創世位へ上申する」
白も黒も、同時に。
決定は、彼らの手を離れた。
♢♦︎♢♦︎♢♦︎
同じ頃。かくり宿では。
「今日は静かだね」
ルシエルが湯をかき混ぜる。
「嵐の前かもよ」
セリスが言う。
「嵐?」
「知らないけど」
囲炉裏の火が、ぱちりと鳴る。
ゆらぎ湯は、今日も変わらず揺れている。
誰も知らない。
その存在が、世界の最上位へと届けられたことを。
面白ければ、ブックマーク、評価をいただけると励みになります




