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第14話 湯気の向こうの距離

 その日は、朝から忙しかった。

観測天使が二人。監査悪魔が三人。

羽と角を隠す布が足りない。


「こっち先!」

「順番!」


セリスが仕切る。


ルシエルは桶を運びながら、笑っている。

「大丈夫大丈夫、湯は逃げないよ」


そのとき。


白いローブが静かに近づいた。


「手伝おう」

エリシアだ。自然な動きで、ルシエルの隣に立つ。


桶を受け取り、湯を運ぶ。

呼吸が揃う。


昔からそうだった。


「助かる」

ルシエルが言う。


「任務の一環だ」

エリシアは淡々としているが、距離は近い。


近すぎる。


セリスの手が、ぴたりと止まる。


視線を上げる。その少し向こうで、黒い外套が動く。


「セリス」

ヴァルクスだ。


「湯温が上がっている」

「把握してる」


「補助しよう」

「必要ない」


即答。


だがヴァルクスは構わず湯の縁へ行き、水を足す。


的確だ。


「……ありがとう」

小さく礼を言う。それが、妙に自然だ。


ルシエルの視線が、無意識にそちらへ向く。


セリスとヴァルクス。

並ぶ姿。落ち着いたやりとり。


胸の奥が、少しだけざわつく。


「……」


ルシエルは桶を持つ手に力を込める。


湯気が、ふわりと揺れる。


「忙しいね」

エリシアが言う。


「楽しいよ」

ルシエルは答える。


だが視線は、セリスの背中に向いている。


ヴァルクスが何かを言い、セリスが短く返す。


その距離。その空気。

知らない時間が、そこにある気がした。


「気になるのか」

エリシアが小さく言う。


「なにが」

「視線」


ルシエルは一瞬、言葉を失う。


「別に」

「そうか」


淡々とした返事。

だが、ほんの少しだけ、距離が詰まる。


セリスの目が、こちらを捉える。


エリシアと並ぶルシエル。

呼吸の合った動き。


胸の奥が、きゅっとする。


「……」


誰も何も言わない。

でも、空気が少しだけ変わった。


湯は変わらず、やわらかく揺れている。



 夜。客は帰り、囲炉裏の火だけが残っている。


昼の騒がしさが嘘のようだ。


ルシエルは薪をくべながら、ちらりとセリスを見る。

セリスは湯の様子を確かめ、無言で桶を置く。


いつも通り。

――の、はずなのに。


「……疲れた?」

ルシエルが聞く。


「別に」

短い返事。


「今日、助かったね」


「誰に」


「エリシアとか」


その名前に、セリスの手が止まる。


「そう」


声が、ほんの少しだけ冷たい。


「昔から呼吸合ってるよね」

「そうね」


視線が合わない。


沈黙。


火がぱちりと鳴る。


ルシエルの胸の奥が、ざわつく。


「……ヴァルクスも」

今度はルシエルの番だ。


「何」

「手伝ってくれてた」


「任務でしょ」

「仲良さそうだった」


言ってから、少し後悔する。

子どもみたいだ。


セリスはゆっくり振り向く。


「あなたは?」


「え」


「エリシアと仲良さそうだった」


まっすぐな視線。

逃げ場がない。


「仲間だよ」

「そう」


またその“そう”。

柔らかくもない。怒ってもいない。


ただ、少し遠い。


ルシエルは立ち上がる。


「ヴァルクスのこと、まだ気になる?」


セリスの目がわずかに揺れる。


「……だったら何」


強くもない。

でも、逃げない。


「あなたは?」


問い返される。


ルシエルは言葉を探す。


「エリシアは仲間だ」

「そう」


今度は、はっきり冷たい。


「……でも」


続きが出てこない。


火が揺れる。

湯が揺れる。


セリスは視線を落とす。

「任務の人たちと、仲良くしてればいいじゃない」


「そんなこと」

「私は忙しいから」


淡々とした声。

でも、わずかに震えている。


ルシエルは一歩近づく。


「怒ってる?」

「怒ってない」


「嘘」


セリスの眉がぴくりと動く。

「……わからないの?」


小さな声。

その一言に、ルシエルの胸がきゅっと締まる。


「何が」


問い返してしまう。


最悪だ。


セリスは一瞬だけ目を閉じる。


「……いい」


背を向ける。


「今日はもう寝る」


そのまま奥へ消える。

囲炉裏の火だけが残る。


ルシエルは立ち尽くす。


わからない。

でも、何かを間違えたのは確かだ。


湯気が、静かに揺れている。



 囲炉裏の火が、ひとつ、ぱちりと弾けた。


ルシエルはその場に立ったまま、しばらく動けなかった。


わからない。

でも、わからないままでいたくない。


奥の戸を、そっと叩く。


「……セリス」

返事はない。


「寝てないだろ」


静寂。


少し間があって、戸が開く。

セリスはいつもの顔をしている。


怒っていない顔。

泣いてもいない顔。


だからこそ、距離がある。


「何」

「さっきの」


「もういいって言った」

「よくない」


即答だった。

セリスの眉がわずかに動く。


「俺、鈍いかもしれないけど」


「知ってる」


「でも、逃げたくない」


真っ直ぐな声。


セリスは視線を逸らさない。


「……取られる気がしたの」


ぽつり、と落ちる。


「え」


「エリシアに」


ルシエルの胸が強く鳴る。


「そんなこと」


「あなたは昔から、あの人と並んでた」


言葉が、静かに続く。


「私は、途中から」


初めて聞く本音だった。


セリスは強い。

仕事もできる。誰より冷静。


でも今は、少しだけ不安が滲んでいる。


「ヴァルクスは?」


ルシエルが聞く。


セリスは小さく息を吐く。


「昔の話」


「まだ好き?」


「……わからない」


正直だ。


「でも」


視線が揺れる。


「あなたが、他の人と並ぶのは嫌」


はっきり言った。


逃げない。


ルシエルの胸が締めつけられる。


「俺も」


言葉が出る。


「ヴァルクスと話してるの、嫌だった」


セリスが目を見開く。


「なんで」

「知らない時間があるみたいで」


沈黙。


湯気がゆらりと揺れる。


「……馬鹿」

でも、その声はやわらかい。


ルシエルは一歩近づく。

「俺、ちゃんと考える」


「何を」

「自分の気持ち」


セリスは少しだけ視線を落とす。


「考えて」

「逃げない」


短い約束。それだけ。

まだ答えは出ない。


でも、距離は戻った。


セリスは戸を閉める前に、小さく言う。


「明日、忙しいわよ」

「知ってる」


「遅れないで」

「はいはい」


戸が閉まる。


ルシエルは湯を見に行く。

水面が、静かに揺れている。


まだ、はっきりしない。


でも。


逃げないと決めた。


それだけで、少しだけ前に進んだ気がした。

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