第13話 増えるお忍び
その日は、朝から妙に落ち着かなかった。
「……多くない?」
ルシエルが湯気の向こうを覗き込む。
縁側に、見慣れない白いローブが一人。
囲いの影に、黒い外套が一人。
そして石段の下にも、もう一人。
「多いわね」
セリスが淡々と言う。
「偶然?」
「偶然で羽が三枚も来る?」
「数えないで」
白いローブの天使が、いかにも“さりげなく”立っている。
だがどう見ても様子をうかがっている。
黒い外套の悪魔は、腕を組みながら湯を睨んでいる。
ルシエルが小声で言う。
「……あれ、エリシアの知り合いかな」
「観測班でしょうね」
「魔界のほうは?」
「監査」
「なにそれ」
「面倒なやつ」
セリスの声は平坦だが、目は少しだけ険しい。
そのとき、白いローブの一人が咳払いをした。
「巡回確認だ」
「どうぞー」
ルシエルが明るく返す。
黒い外套も負けじと口を開く。
「業務監査だ」
「どうぞー」
「軽いな」
「湯は重いよ」
意味不明だ。
観測天使と監査悪魔は、互いにちらりと視線を交わす。
明らかに牽制している。
だが。
「……入る」
天使が言う。
「……入る」
悪魔も言う。
「順番守ってね」
セリスがぴしゃりと言った。
二人は無言で従う。
数分後。
湯の中。
白と黒が、一定の距離を保ちながら肩まで浸かっている。
背筋は伸びている。目は閉じない。理性を保っている。
……はずだった。
「……ふ」
白いローブの肩が、ほんの少し下がる。
「……」
黒い外套の眉間の皺が消える。
数分後。
「……ああ」
「……む」
背筋が緩み、肩の力が抜け、視線が空を見上げる。
観測も監査も、どこかへ消えている。
囲いの外で、ルシエルがにやりと笑う。
「また増えそうだね」
「勘弁してほしいわ」
セリスは腕を組み直した。
「羽と角隠し、足りなくなるわよ」
「作る?」
「誰が」
「俺?」
「却下」
湯気がふわりと立ちのぼる。
観測天使と監査悪魔は、完全にとろけた顔で空を見上げていた。
任務は、まだ始まってもいない。
囲いの中。
白と黒は、ぎこちない距離を保ったまま湯に浸かっている。
最初は背筋を伸ばし、視線も鋭かった。
だが。
「……湯温は、安定しているな」
観測天使が、いかにも報告用の声で言う。
「成分に異常は感じられない」
監査悪魔も、業務的に続ける。
「揺らぎは……」
言葉が、少しだけ途切れる。
観測天使の肩が、ふっと落ちた。
「……心地よいな」
「否定はしない」
監査悪魔の声も、わずかに柔らぐ。
背中が縁に預けられる。
緊張で固まっていた指先が、水面をなぞる。
「報告は」
「後でまとめればよい」
「そうだな……後で……」
囲いの外で、セリスが冷ややかに言う。
「任務中じゃなかったの?」
「任務だ」
観測天使は答えるが、声に張りがない。
「業務だ」
監査悪魔も同様だ。
だが、二人とも目を閉じている。
数分後。
囲炉裏の前に、二人は並んで座っていた。
先ほどまで牽制しあっていたとは思えないほど、静かだ。
「……悪くない」
観測天使がぽつりと呟く。
「否定はしない」
監査悪魔がうなずく。
「否定しない多いね」
ルシエルが笑う。
「記録は」
観測天使が慌てて姿勢を正す。
「……後で書く」
「後で、な」
監査悪魔も同意する。
セリスは腕を組みながら、湯気を見上げた。
「これだから増えるのよ」
「繁盛ってこと?」
「監視よ」
「どっちも来るなら中立だね」
「中立って便利な言葉ね」
そのとき、石段のほうから足音がした。
また白い影。また黒い影。
リオンが小声で叫ぶ。
「また来た!」
ルシエルは笑う。
「今日はにぎやかだ」
セリスは深くため息をついた。
「羽と角隠し、追加で作るわよ」
「俺が?」
「あなたが」
「あれー?」
囲炉裏の前で、観測天使と監査悪魔はすっかり頬をゆるめている。
誰も戦わない。
誰も怒らない。
ただ、湯がある。
その様子を、少し離れた位置からエリシアが見ていた。
腕を組み、静かに言う。
「……問題はない」
その隣で、ヴァルクスも頷く。
「当面はな」
かくり宿は、今日も騒がしく。
そして穏やかだった。
夕方には、縁側が埋まっていた。
白いローブが二人。
黒い外套が三人。
その間に、普通の村人が一人。
「狭い」
セリスがぴしゃりと言う。
「順番」
観測天使たちは素直に頷き、監査悪魔たちも文句を言わない。
全員、どこか穏やかな顔をしている。
湯のせいだ。
囲いの中では、羽を隠した者と角を隠した者が、互いに目を逸らしながらも同じ湯に浸かっている。
数日前なら、あり得なかった光景だ。
「……報告書が長くなるな」
観測天使が呟く。
「短くてよい」
監査悪魔が返す。
「“異常なし”で」
「それで済むか?」
「済ませる」
どこか投げやりだ。
囲炉裏の前では、ルシエルが湯呑みを並べている。
「忙しい?」
エリシアが聞く。
「楽しいよ」
即答だった。
エリシアは少しだけ目を細める。
「……増えすぎだ」
「困る?」
「私は困らない」
その視線が、背後の観測天使たちに向く。
「彼らが困る」
ヴァルクスも低く言う。
「監査部が騒ぎ始めている」
「騒いでるの、あそこじゃん」
ルシエルは囲炉裏の向こうで団子を分け合っている監査悪魔たちを指さした。
楽しそうだ。
「……上が、だ」
ヴァルクスが静かに訂正する。
その言葉に、セリスの手が止まる。
「上?」
「正式な議題になりつつある」
「何が」
「この宿の扱いが」
湯気が、ふわりと揺れた。
だが囲いの中では、また一人が深く息を吐いている。
「……心地よい」
「否定はしない」
さっきと同じやりとり。
セリスは小さく息を吐く。
「放っておけばいいのに」
「そうはいかない」
エリシアが言う。
「放っておけない立場がある」
ルシエルは首をかしげる。
「でも、何も起きてないよ?」
「それが問題なのだ」
ヴァルクスの声は、わずかに重い。
何も起きていないのに、秩序が揺らいでいる。
誰も戦っていないのに、境界が曖昧になっている。
それが、“上”には厄介だ。
だが。
囲炉裏の火がぱちりと鳴る。
団子を頬張る観測天使が言う。
「……明日、もう一度来る」
「任務?」
「確認だ」
「確認多いね」
ルシエルは笑う。
セリスは腕を組んだまま、湯を見つめる。
「増えるわよ、これ」
「繁盛だね」
「監視よ」
夜が降りる。白も黒も、静かに帰っていく。
石段の下で、観測天使と監査悪魔が小声で言い合う。
「上にどう報告する」
「事実を述べる」
「“問題なし”か?」
「それ以外に何がある」
困るのは、きっと自分たちではない。
隠れ湯庵ゆらぎは、いつも通り湯気を上げている。
だが、どこか遠くで。
“議題”という言葉が、静かに持ち上がり始めていた。
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