第12話 ぼろ布の陽気なおじさん
その男を最初に見つけたのは、リオンだった。
「……あの人、怪しくないか?」
かくり宿の入り口から少し離れた石段の下。
ぼろぼろの外套を羽織り、杖をついた老人が立っている。
草履は擦り切れ、帽子はくたびれ、なぜか腰には団子の串がぶら下がっている。
「不審者?」
セリスが腕を組む。
「どう見ても」
「お腹空いてるだけかもよ」
ルシエルはあっさりと言って、暖簾を整えた。
老人はにかっと笑う。
「よい宿じゃな」
「まだ仮営業みたいなもんだけどね」
「湯があるのだろう?」
「ありますよ」
ルシエルはいつもの調子で頷いた。
セリスが小声で言う。
「警戒しなさい」
「払うものは払うぞ!」
老人が突然胸を張る。
外套の中から、きちんとした布袋を取り出した。
「金はある! 偉いからな!」
「偉い?」
リオンが首をかしげる。
老人は杖を地面に打ちつける。
「うむ。わしは偉い」
「へえ」
誰も信じていない。
「名はロロじゃ」
老人は満足げに言った。
「ロロと呼べ」
「呼ばない」
セリスが即答する。
「冷たいのう!」
ロロは大げさに肩を落とす。
「ロロでよいのに」
「お客さまって呼ぶよ」
ルシエルがにこやかに言う。
「それはそれで偉そうだな?」
「偉いんでしょ?」
「うむ!」
胸を張る。
ぼろ布なのに、妙に堂々としている。
リオンがひそひそ声で言う。
「……変な人だな」
「変な人ね」
セリスも同意する。
ロロは気にせず、暖簾をくぐった。
「湯はどこじゃ!」
「こっちだよ」
ルシエルが案内する。
湯気の向こう、ゆらぎ湯が静かに揺れている。
ロロはそれを見て、目を細めた。
「ほう」
それだけ言って、満足げに頷く。
「気に入った」
「まだ入ってないよ?」
「雰囲気でわかる」
「すごい自信だね」
「偉いからな!」
セリスが額を押さえる。
「早く入りなさい」
「言われなくても入る」
ロロは外套を脱ぎながら、振り返った。
「ロロと呼ぶなら、団子を分けてやろう」
「いらない」
「冷たいのう!」
笑い声が、湯気に溶ける。
変な客。ただの陽気なおじさん。
ロロは湯の縁に立つと、しばらく腕を組んで眺めていた。
「……どうしたの?」
ルシエルが聞く。
「作法があるかと思ってな」
「特にないよ」
「ないのか」
「ないね」
「よい」
満足げにうなずくと、ロロは片足をそっと湯に入れた。
「おお」
もう片方も入れる。
そして、ゆっくりと肩まで沈んだ。
次の瞬間。
全身の力が、するりと抜けた。
背筋がほどけ、杖のように固かった肩が落ちる。
口元がゆるみ、目尻が下がりきる。
「……はあああ」
とろけるような声。
「よい……これはよい……」
さっきまで偉そうに胸を張っていた男とは思えない。
湯の中で、だらりと体を預けている。
ルシエルが小声で言う。
「すごい脱力してるね」
「ただの温泉好きよ」
セリスは腕を組んだまま、じっと観察している。
ロロは湯を両手ですくい、頭からかぶった。
「生き返るのう……」
「さっきまで死にかけてたみたいな言い方だね」
「日々は戦いじゃ」
「どこと戦ってるの」
「いろいろじゃ」
曖昧すぎる。
しばらくして、ロロはすっかり湯に溶けきったような顔で天を仰いだ。
「……若いの」
「なに?」
ルシエルが湯桶を持ったまま振り向く。
「ここは何も問わぬのか」
「なにを?」
「素性とか、立場とか」
ルシエルはきょとんとする。
「湯に入る人はみんな同じでしょ」
「払うもの払えばね」
セリスが淡々と付け足す。
「うむ」
ロロは深くうなずいた。
「単純でよい」
「褒めてる?」
「半分はな」
半分。また曖昧だ。
湯から上がる頃には、ロロは完全に別人だった。
顔はふにゃりとゆるみ、足取りも軽い。
「団子、焼いてよいか?」
「勝手に持ち込んだの?」
「用意周到じゃ」
「偉いから?」
「うむ」
囲炉裏の前に陣取ると、ロロは勝手に団子を炙りはじめた。
香ばしい匂いが広がる。
リオンが近づいてくる。
「……もらっていい?」
「よいぞ!」
太っ腹だ。
団子を分け与えながら、ロロは上機嫌で言う。
「よい宿じゃ」
「まだ小屋だけどね」
「小さいのがよい」
セリスがじろりと見る。
「なんでも褒めればいいと思ってない?」
「思っておる」
「正直ね」
ロロは団子を頬張りながら、ルシエルとセリスを交互に見る。
「んー? お主ら」
「なに」
「くっつく気はないのか?」
静止。
リオンがむせる。
セリスが即座に言う。
「黙れ」
「若いのう!」
「若いって言うな」
ルシエルは団子をかじりながら首をかしげる。
「なんでそうなるの」
「雰囲気じゃ」
「どんな」
「ふわっとした雰囲気じゃ」
説明が雑すぎる。
セリスは額を押さえた。
「やっぱり変な人ね」
「変な人ではない、偉いのじゃ」
「はいはい」
誰も信じていない。
囲炉裏の火が揺れ、団子の匂いが広がる。
ロロはすっかり満足した顔で、背もたれもない板壁にもたれた。
「よいのう……」
その姿は、どこにでもいる陽気な旅人そのものだった。
団子を三本平らげたロロは、満足げに腹をさすった。
「よい湯、よい団子、よい火」
「団子は持ち込みだけどね」
「持参は準備のうちじゃ」
理屈が雑だ。
リオンが笑いながら言う。
「また来るの?」
「来る」
即答だった。
「呼ばれずとも来る」
「呼ばないけどね」
セリスが淡々と返す。
「冷たいのう!」
ロロは大げさに肩を落とすが、まったく気にしていない様子だ。
囲炉裏の火を眺めながら、ふとルシエルに言う。
「若いの」
「なに?」
「ここは、ずっとこうしておるのか」
「うん」
「何も変わらず?」
「ちょっとずつは変わるよ。増築したり、客が増えたり」
「ほう」
ロロは頷く。
「だが、湯は湯のままか」
「そうだね」
「それでよい」
短い言葉。それ以上は続かない。
しばらくして、ロロは立ち上がった。
「さて」
外套を羽織り、杖を手に取る。
「もう行くの?」
「腹も満ちた。湯も満ちた」
「変な言い方」
「偉いからな」
まだ言う。
暖簾の前で振り返る。
「若いの」
「うん?」
「団子、次はもっと持ってくる」
「そこ?」
「そこじゃ」
セリスがため息をつく。
「好きにしなさい」
「うむ」
ロロはにかっと笑った。
「また来る」
「勝手にどうぞ」
「呼ばずとも来るぞ」
「だから呼ばないって」
軽いやりとり。
ロロはそのまま石段を下りていく。
ぼろ布の背中が、ゆらゆらと遠ざかる。
リオンがぽつりと呟く。
「……なんだったんだ、あの人」
「変な人」
セリスが即答する。
ルシエルは暖簾を直しながら笑った。
「でも楽しそうだったね」
「湯がよかっただけでしょ」
「それならいいじゃん」
湯気が立ちのぼる。
ゆらぎ湯は、いつも通り静かに揺れている。
ただの陽気なおじさんが来て、ただ満足して帰った。
それだけの一日。
隠れ湯庵ゆらぎは、今日も変わらずそこにあった。
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