第11話 黒翼の再来
朝の空気が、わずかに重い。
雪は止んでいるのに、湯面の揺らぎがいつもより深い。
風もないのに、ゆらり、と小さな波紋が広がっていく。
縁側に立つセリスが、静かに目を細めた。
「……来るわね」
その声は落ち着いているが、確信があった。
ルシエルは湯桶を持ったまま首をかしげる。
「その台詞、前にも聞いた気がするけど」
「今回は観測じゃない」
湯を見つめたまま、セリスは続ける。
「意志がある」
次の瞬間、空気がわずかに震えた。
黒い羽が、静かに舞い降りる。
雪を払うように広がり、ゆっくりと畳まれる。
ヴァルクスだった。
背筋は伸び、視線は冷静。
以前と変わらぬ整った姿勢で、湯庵を見渡す。
「再訪だ」
淡々とした声。
「任務?」
セリスが問う。
「……半分は」
わずかな間が落ちる。
ルシエルはにっと笑った。
「いらっしゃいませ。隠れ湯庵ゆらぎへ」
その調子に、ヴァルクスの視線がわずかに動く。
囲いも縁側も整い、屋根の雪止めも増えている。
初めて訪れたときより、確実に“場所”としての形ができていた。
「拡張したな」
「少しずつね」
セリスが答える。
視線が交わる。
かつて同じ組織で並んで立っていた時間の名残が、わずかに空気を揺らす。
「湯を借りる」
それ以上の説明はない。
ヴァルクスは囲いへ向かい、外套を脱ぐ。
黒い羽をきちんと畳み、湯へと足を入れた。
温かさが、ゆっくりと伝わる。
前回も感じた感触だ。
だが今日は、違う。
肩まで沈んだ瞬間、湯の揺らぎが一段深くなる。
ただの温もりではない。
包み込むような、静かな圧。
魔界の魔力を削ぐでも、否定するでもなく、ただ均す。
その奥に、かすかな気配が混ざっている。
村人の笑い声。
囲炉裏の火の匂い。
雪の夜を越えた静かな時間。
積み重ねた日々の記憶が、湯の中に溶け込んでいる。
ヴァルクスの呼吸が、わずかに緩む。
肩の力が抜ける。
目尻が、ほんの少し下がる。
理性がほどける、その一瞬。
完全に、無防備な顔になる。
へにゃ、と。
ほんの数秒。
セリスの目が見開かれ、ルシエルは言葉を失う。
湯気の向こうで、黒翼の悪魔は完全に力を抜いていた。
だが次の瞬間、はっと目を開く。
姿勢を正し、表情を整える。
「……湯温は適切だ」
何事もなかったような声。
ルシエルは真顔で言う。
「今、へにゃってなったよね」
「なっていない」
「なった」
「なっていない」
即答。
セリスは顔を背ける。
だが肩がわずかに震えている。
「……理性悪魔」
「黙れ」
頬が、ほんのり赤い。
湯は静かに、深く揺れている。
湯から上がったヴァルクスは、すでにいつもの顔に戻っていた。
濡れた黒髪を軽く払う仕草も、外套を羽織る動きも、無駄がない。
背筋はまっすぐで、視線は静かに周囲を測っている。
だが。
耳の先だけが、わずかに赤い。
ルシエルは気づいているが、あえて触れない。
触れたら、きっと否定が三倍返しで来る。
「観測は終了だ」
囲炉裏の前に腰を下ろしながら、ヴァルクスが言う。
「早くない?」
「十分だ」
短い返答。
火がぱちりと鳴る。
しばらく沈黙が落ちるが、それは居心地の悪いものではない。
囲炉裏の火と湯気の音が、自然に間を埋めている。
やがてヴァルクスは、低く続けた。
「……ここは、非効率だ」
「え?」
ルシエルが素直に反応する。
「収益は少ない。防衛は薄い。構造も脆弱。拡張の余地はあるが、計画性は甘い」
「ひどい」
だがその言い方は、ただの批判ではなかった。
現状を正確に測る、癖のようなものだ。
ヴァルクスは一瞬だけ視線を湯へ向ける。
「だが、安定している」
その言葉は、評価だった。
セリスのまなざしが、わずかに揺れる。
「魔界に戻る気はないのか」
問いは静かだ。
責める響きはない。ただ、確認するように。
「ない」
セリスは即答する。
「私はここを選んだ」
迷いはない。
囲炉裏の火が揺れ、三人の影を壁に映す。
ヴァルクスは視線を落とし、わずかに息を吐いた。
「……そうか」
その声には、かすかな感情が混じっている。
合理だけでは割り切れない、個人的な何か。
「ならば」
顔を上げる。
「私は観測を続ける」
「監視?」
ルシエルが首をかしげる。
「違う。支障が出ないよう、調整する」
言葉は淡々としているが、意味ははっきりしている。
セリスは小さく息をつく。
「相変わらず回りくどい」
「合理的だろう」
ヴァルクスは否定しない。
組織の立場を守りながら、個人としての線も引く。
そのやり方は昔と変わらない。
ルシエルは二人を見比べる。
過去を共有している空気。
言葉にしなくても通じる間。
胸の奥が、わずかにざわつく。
「でもさ」
ルシエルは火を見つめたまま言う。
「ここは、俺たちが守るよ」
まっすぐな声。
ヴァルクスの目が細められる。
「当然だ」
否定はしない。
むしろ、それを前提にしたうえでの“調整”なのだと、静かに伝えてくる。
火が揺れ、湯気が立ちのぼる。
三人の間に、対立ではなく、奇妙な均衡が生まれていた。
ゆらぎは、拒まない。
黒翼もまた、その中に溶けつつある。
夜になると、湯庵は一段と静かになる。
村人たちは帰り、湯気だけが淡く夜空へ溶けていく。
囲炉裏の火も小さくなり、部屋の隅に長い影を落としていた。
ヴァルクスは立ち上がらず、しばらく火を見つめている。
「……帰らないの?」
ルシエルが湯呑みを置きながら尋ねる。
「帰る」
即答。だが、動かない。
セリスが静かに言う。
「未練?」
「ない」
「即答ね」
「ない」
言葉は固いが、視線は揺れる。
火がぱちりと鳴った。
ヴァルクスはゆっくりと口を開く。
「……私は」
その先を選ぶように、わずかに間が落ちる。
「お前の失格を、合理的だと判断した」
空気がわずかに張る。
セリスの表情は変わらない。
「組織としては、正しい判断だった」
「ええ」
淡々とした返事。
「だから私は署名した」
静かな告白。囲炉裏の火が小さく揺れる。
「だが」
ヴァルクスは視線を上げる。
「個人としては、止めたかった」
言葉はそれだけ。
それ以上は説明しない。
言い訳も、後悔も、付け足さない。
セリスはしばらく何も言わず、湯のほうを見る。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「止められていたら、ここはなかった」
その声は穏やかだ。
「私は選べなかった。きっと、あのまま続けてた」
囲炉裏の火が、彼女の横顔を照らす。
「だから、今は悪くない」
それは過去を許す言葉ではない。
だが、否定もしない。
ヴァルクスの目が、ほんの少しだけ柔らぐ。
「……そうか」
短い肯定。
ルシエルは黙って聞いている。
口を挟まない。
過去の時間に、無理に入り込まない。
だが、逃げもしない。
「ヴァルクス」
「なんだ」
「また来てよ」
まっすぐな声。
計算も牽制もない。
ヴァルクスは一瞬、言葉を失う。
「……任務があれば」
「便利だね、その言葉」
セリスが小さく笑う。
ヴァルクスは立ち上がる。
黒い羽がゆっくりと広がる。
戸口へ向かう前、ほんの一瞬だけ立ち止まる。
セリスを見る。
「……守れ」
「当然」
迷いのない返答。
「不足があれば、調整する」
それは援助の宣言。
だが遠回しだ。ヴァルクスらしい。
黒翼が夜空へ舞い上がる。
静寂が戻る。
湯が、ゆらりと揺れる。
「……なんかさ」
ルシエルがぽつりと言う。
「なに」
「セリス、選ばれてるね」
「は?」
「天界と魔界から」
セリスは眉をひそめる。
「選ばれてるのは、あんたもでしょ」
「俺?」
「自覚ないの?」
少しだけ視線が絡む。
火が揺れ、湯気がゆらぐ。
そしてセリスは、静かに言った。
「……私は、ここを選んでる」
宣言でもあり、確認でもある。
ルシエルはうなずく。
「うん」
囲炉裏の火が、そっと消える。
外の世界はまだ大きく動いていない。
だが、確実に変わっている。
守る者は、少しずつ増えている。
隠れ湯庵ゆらぎは、静かに揺れている。
面白ければ、ブックマーク、評価をいただけると励みになります




