あの日の思い出
駅の改札で待つ瞳の心には複雑な思いが渦巻いていた。
プロの手にかかった今朝の雪緒はとても可愛かった。伊達メガネとネクタイなんて、あれは反則だ。あんなに知的で健康的なかわいい姿を朝から見せつけたら、日本中の独身女が彼のことを好きになってしまうではないか。お天気キャスターなんだから、あんなに可愛くする必要ないのではないか?テレビ局側の思惑が見え見えだ。
そんな、どこにぶつけたらよいかわからない不満を心の中で反芻していたら、携帯に連絡が入る。もうすぐ駅に着くという、彼からのメールだ。だめだ。私は再び自分勝手なわがままで雪緒を縛り付けようとしている。あれほど反省したのだ。今度こそ、彼の可能性をつぶすようなことはしてはいけない。
瞳は大きく息を吐いて気持ちを入れ替える。きっと彼は初出演で疲れているはず。ちゃんとねぎらいの言葉をかけてあげないと。
しばらくすると、雪緒が小走りでやって来るのがわかる。とびきりの笑顔だ。瞳の葛藤など知る由もないのだろう。朝早くから働いた疲れなど感じさせないほどのスッキリとした笑顔は、瞳の中の靄のような感情を振り払ってくれた。
「雪緒、お疲れ。放送見たわよ」
「ありがとう、瞳ちゃん。やっぱり難しかったよ。アドリブで何か言われちゃうと、一瞬、頭が真っ白になっちゃうから」
「戸惑うところも可愛かったから、きっと好印象だったと思うわ。でも、眉毛なんて整えて、すっかり垢抜けちゃったわね」
少しだけ、意地悪く突っ込んでしまう。雪緒は初デビューのせいか少し興奮気味のようだ。
「うう、まさか伊達メガネまで出してくるなんて思わなかったよ。恥ずかしくてさ」
「ふふふ。大丈夫よ。よく似合っていたから。ちょっと、コスプレっぽいけど」
「あー!やっぱり!言われると思ったよ。もう勘弁して」
楽しそうに話しながら駅を出て雪緒の家に向かい歩き出す二人。周囲を歩く学生やサラリーウーマン風の女性たちは雪緒の姿を見ると立ち止まり、頬を赤らめて彼の一挙手一投足を凝視し始める。
以前の彼なら、そんな周りの視線にいたたまれなくなり下を向いて座り込んでしまったかもしれない。でも今の彼はすっかり変わった。周囲の女性からの視線を気にするどころか、無防備に極上の笑顔で瞳に語り掛けてくる。そこには警戒心の欠片もない。瞳は彼の無防備さが心配になってくる。よく途中で襲われずに、ここまで無事に帰ってこれたものだ。瞳は明日からは局の最寄り駅まで迎えに行くことを考え始める。
「そうだ、瞳ちゃん。今日、ちょっと、僕の家に寄って行かない?渡したいものがあるんだ。お昼ご飯、食べた?」
「まだ食べてないけど、明日の準備もあるし、忙しいでしょ?」
「大丈夫、一緒にお昼食べよ」
以前はよく雪緒の様子を見にお邪魔したお宅。でも、今日は、彼の家族は外出しているはず。
「カレーが準備してあるって、姉さんからメールがあったし。一緒に食べよ」
瞳は普段通りの態度を装い、カレーをご馳走になることにする。雪緒は知らないだろうが、彼が倒れて以来、彼の家族がいないときにお宅にお邪魔することは避けていた。あの部屋は、瞳にとって大切な思い出の場所だ。家族がいないときに二人きりでその場所にいることで、自分がどうなるか、自信がなかった。
でも今日は一緒にお昼を食べるのだから、リビングにお邪魔するだけで済むだろう。そう、自分に言い聞かす。瞳の心の不安など知りもせずに、雪緒は少し興奮気味に今日の撮影の話をしてくる。彼の家が近づく。
「さ、上がって、瞳ちゃん。カレー食べよう」
「お邪魔します」
リビングに瞳を通して手洗いを済ませた雪緒は手早く二人の昼食を用意する。彼の姉の泪さんが、帰宅してすぐに昼食がとれるように作り置きしてくれていたようだ。冷蔵庫には二人分のサラダも用意してある。瞳が来ることを予期していたのだろうか?
<どうぞ、いらっしゃい、瞳君!>
そう、サラダがから泪さんの声が聞こえてきそうだ。あの人にはかなわないな。
「じゃあ食べようか。いただきます」
「いただきます」
カレーは彼の好みの中辛で昔ながらの味だ。おいしそうに食べる雪緒を見ていると、何故か泪さんの自慢そうな顔が思い浮かぶ。本当によくできたお姉さんだ。
二人きりのリビングでカレー皿にあたるスプーンの小さな音が響く。ほとんど無言でカレーを食べきる。
「ご馳走様。おいしかった。瞳ちゃん、お替りする?」
「ううん。ご馳走様」
二人でお皿を片づける。瞳の心をなんとも言えない緊張感が満たし始め、徐々に口数が少なくなる。
雪緒は相変わらず機嫌がよさそうにお皿を洗う。当然だろう、初めての仕事がうまくいったのだから。
そんな様子を見ていた瞳は、次に二人の間で起こることが不安になる。私に渡したいものって何?今ここで受け取ればよいの?
「さてと、お皿も片付いたね。じゃあ、僕の部屋に行こうか?」
警戒していた誘いだ。人の気も知らないで、こんな笑顔で・・・・ずるい・・・・
「渡すものなら、今ここで受け取るけど・・・」
「え?でも、なんとなくここだと渡しづらいし、僕の部屋に行こう?」
あどけない笑顔で女を自分の部屋に誘う雪緒。
いけない。今は二人きりなのよ?あなたは忘れてしまったの?この前、私が部屋に入ったときに、私があなたに何をしたか。
雪緒は上機嫌で瞳の手を引いて自分の部屋に向かう。部屋の前で瞳はわずかに逡巡する。
あれは1年ちょっと前のことだ。瞳は昨日のことのように覚えている。だけど、雪緒の無邪気な笑顔はその思い出を遠い日の出来事のように思わせる。どうしてそんなに無防備でいられるの?私を女と思っていないの?
「瞳ちゃん、ここに座って」
雪緒は瞳をベッドに座らせ、自分の机に向かう。その後ろ姿からは警戒感のかけらも感じられない。部屋には懐かしいにおいがする。あの日と同じ、雪緒のにおいだ。瞳の脳を直接刺激する、危険な香り。もはや瞳はしゃべることもできない。
机の引き出しから小さな包みを取り出した雪緒は瞳の隣に腰掛ける。
あの日と同じ場所に。彼が笑顔で瞳に何かを語りかけようとしたその時、我慢できずに瞳から口を開く。
「雪緒、この前私がこの部屋に入ったのはいつか覚えてる?」
突然の瞳の問いに、雪緒は一瞬、言葉に詰まり、少し考える。
「うーん。そういえば、この部屋に瞳ちゃんが来るのって、ないよね?これが初めてじゃない?」
笑顔で答える雪緒。その一言は、抑え込んでいた瞳の心の枷を外す。
瞳はゆっくりと力強く彼をベッドに押し倒し、彼の両手を抑え込みながら、顔を近づける。雪緒はようやく瞳の思いつめた表情に気づき、驚いたような顔で口を開く。
「瞳ちゃん?どうしたの?」
「あなた、本当に忘れたの?私たちにここで何があったのか」
大切なあの思い出をなかったことにするなんて、それはあまりに残酷だ。瞳の視界がぼやける。苦しそうな瞳の表情を見ていた雪緒が柔らかい笑顔でささやく。
「いいよ」
「え?」
「大丈夫。何も無かったことにはしないから」
「・・・」
「だから教えてくれる?前に君が部屋に来た時、僕たちはどうなったの?」
こらえきれず涙を流す瞳。もう限界だった。彼の笑顔が、彼のやさしさが。そして自分の小ささが。雪緒の腕を拘束していた手を放した瞳は彼の胸に顔をうずめる。雪緒は彼女を抱き締め優しく語り掛ける。
「ごめんね。でも、瞳ちゃん。これからは以前の分を取り戻すぐらい、また一緒に思い出を作ろうって約束したよね?だから大丈夫。何があったとしても僕は受け入れるよ?」
瞳の顔に両手を当て彼女の顔をわずかに起こした雪緒は自ら口づけをする。啄むような優しいそれは、忘れようとしても忘れることができなかった大切なあの日の思い出を鮮明に瞳の中に呼び覚ます。
二人は再び見つめあう。雪緒は笑顔でささやく。
「こんな感じかな?違ったらごめんね?」
「・・・・」
彼の笑顔を眺めていた瞳は気づく。彼が微かに震えていることに。彼も必死なのだ。彼なりにできる限りのことで瞳の気持ちに応えようとしているのだ。そんな雪緒の様子は瞳本来の優しい気持ちを彼女の中に呼び覚ます。そうだ。私は誓ったではないか。もう卑怯な真似はしないと。
瞳は雪緒の耳元で優しく囁く。
「雪緒、誰もいない家に女を部屋に連れ込むなんて、それがどれだけ危険なことか分ってる?」
「・・・でも、瞳ちゃんだから」
彼の言葉が心に響く。今度は瞳のほうから軽く口づけし優しくお互いの体を抱きしめ合う。
「雪緒、ごめんなさい。きっと私、貴方がテレビに出てるのを見て、不安だったんだと思う。雪緒が私から離れて、どこか遠くに行ってしまうような気がしていたんだと思う」
「大丈夫、僕はどこにも行かないよ。ちゃんと分かっているから。僕にとっての瞳ちゃんは、これまでも、そしてこれからも、ずっと大切な存在だよ」
瞳は彼の体と自分の体を一緒に引き起こし、耳元で優しく囁く。
「今日はここまでよ。明日も早いんでしょ?さ、渡したいものって何?」
「あ、これだよ。開けてみて」
雪緒は小さな包みを渡す。中には少し長めのネックレスにきれいなリングがつながっている。
「実はね、僕、昨日まではJWN社の試用社員だったんだ。今日、七月一日付けで正式な社員として雇用され、同時にキャスターとしてのデビュー日でもあるんだよ」
「うん。おめでとう。あなたの夢がかなったのよね?よかったわね」
「ありがとう。それでね、決めてたんだ。夢がかなったら瞳ちゃんに感謝の気持ちとしてこれを渡そうって。同じものを二つ買ったんだよ。僕と瞳ちゃんだけの秘密。本当は指にはめるリングも考えたけど、さすがにちょっと早いかなって。あと、サイズもよくわからなかったから」
瞳はしばらくそのリングを見つめた後、優しく雪緒を抱きしめながら彼の耳元に囁く。
「ありがとう。うれしい」
二人は再び見つめあう。
もう一度口づけを交わそうとしたその時、帰宅した姉の泪が玄関の鍵を開く音に気づく。
「ただいま!雪緒!いるかい?今日は良かったね!最高だったよ。雪緒?」
二人は笑顔で見つめあいながら部屋を出てリビングに行くことにする。瞳は服の下に隠れたネックレスと指輪の感触を楽しみながら階段を降りる。
リビングに入ると姉の泪と目が合う。瞳は笑顔で声をかける。
「お姉さん、お帰りなさい」<お早いお帰りで>
泪は、とびきりな笑顔で返す。
「ただいま。やっぱり来てたね。瞳君」<抜け駆け、厳禁!>
ようやくデビューひと段落。




