第二話 聞いていた人
真帆は、その夜ほとんど眠れなかった。
ベッドに入って目を閉じても、右耳から聞こえた男の声が離れなかった。
『どこまで聞いたんだ、あの女』
警察官の声だった。
そう思った。
だが、本当にそうだろうか。
声は似ていた。
少なくとも真帆にはそう聞こえた。
しかし人間の記憶など曖昧なものだ。まして、片方の耳を失って三年になる自分が、ほんの数十分話しただけの男の声を正確に聞き分けられるのか。
それに、もっと大きな問題がある。
どうして警察署での会話が、自宅に帰ってから右耳に聞こえたのか。
真帆は布団の中で何度も考えた。
音が場所に残っている。
最初はそう思っていた。
だが、それなら警察署の音が自宅で聞こえるはずがない。
しかも、あのとき聞こえた自分の声は奇妙だった。
自分自身が聞いた声ではない。
少し離れていた。
机を挟んだ向こう側から聞こえていた。
まるで――
あの警察官の席に座って、自分の声を聞いているような。
考えすぎだ。
真帆は寝返りを打った。
時計を見る。
午前三時四十二分。
目を閉じた。
その瞬間。
右耳から雨音が聞こえた。
真帆は目を開けた。
窓を見る。
雨など降っていない。
静かな夜だった。
だが右耳では、激しい雨が何かを叩いている。
車の屋根だ。
そう思った。
狭い空間に反響する雨音。
ワイパーが一定の間隔で動いている。
キュッ。
ザッ。
キュッ。
ザッ。
エンジン音。
そして男の呼吸。
真帆は身体を起こした。
まただ。
車が走っている。
ラジオはついていない。
男は何も喋らない。
ただ運転している。
やがて方向指示器の音がした。
カッチ。
カッチ。
カッチ。
車が曲がる。
少し走る。
停車。
エンジンが切れる。
ドアが開いた。
雨音が一気に大きくなる。
男が歩き始める。
水溜まりを踏む。
足音が止まる。
金属の擦れる音。
鍵。
扉が開く。
そこで音が途切れた。
真帆は暗い部屋の中で右耳を押さえていた。
知らない音だった。
少なくとも、昨日自分が経験したことではない。
だが――
誰かが経験したことだ。
真帆は枕元のスマートフォンを取った。
メモを開く。
これまで聞いた音を、一つずつ書き始めた。
翌朝、ニュースを検索した。
殺人。
女性。
暴行。
「返して」という言葉。
思いつく単語を組み合わせて検索したが、それらしい事件は見つからなかった。
それでも諦めきれず、昼近くまで調べ続けた。
そして、一件の記事に目が止まった。
二か月前。
市内の河川敷で、二十二歳の女性の遺体が発見されていた。
死因について詳しいことは公表されていない。
犯人は捕まっていない。
所持品の一部がなくなっていた。
それだけだった。
真帆は記事を読み返した。
所持品。
『返して』
偶然かもしれない。
そう思いながら、関連する記事を探す。
被害者の写真が出てきた。
若い女性だった。
笑っている。
真帆は画面を閉じた。
見ていられなかった。
右耳の中で聞いた声と、この女性を結びつけたくなかった。
午後一時過ぎ。
知らない番号から電話が来た。
「はい」
『昨日はどうも』
真帆の背筋が固くなった。
あの警察官だった。
『体調はいかがですか』
「……大丈夫です」
『そうですか。それならよかった』
昨日と同じ穏やかな声。
『少し確認したいことがあるんですが、今、大丈夫ですか』
「はい」
『昨日聞いたという音について、何かほかに思い出したことはありませんか』
真帆は答えなかった。
『もしもし?』
「……ないです」
嘘をついた。
『本当に?』
その一言だけ、声が低くなった気がした。
「はい」
沈黙。
ほんの二秒ほどだった。
『分かりました』
また優しい声に戻った。
『何か思い出したら、私に直接連絡してください』
「分かりました」
『くれぐれも、自分で調べたりしないように』
「……はい」
電話が切れた。
真帆はスマートフォンを耳から離した。
どうして自分の電話番号を知っているのか。
警察なのだから当然だ。
そう考えた。
だが、別のことが引っかかった。
――私に直接。
なぜ。
普通なら担当部署ではないのか。
それとも、そういうものなのだろうか。
真帆には分からなかった。
夕方。
買い物へ出た。
一人で部屋にいる方が怖かった。
スーパーで夕食の材料を買い、人通りの多い道を選んで帰った。
何度も後ろを振り返った。
誰もついてきてはいない。
馬鹿馬鹿しい。
警察官を疑ってどうする。
あの人は自分の話を聞いてくれただけだ。
そう自分に言い聞かせながら、交差点で信号を待った。
右耳から音がした。
真帆は動きを止めた。
コンビニの入店音。
『いらっしゃいませ』
レジ袋。
硬貨。
男が歩いている。
自動ドアが開く。
外へ出る。
車のドア。
エンジン。
そして――
『……面倒なことになったな』
男の声。
真帆は唇を噛んだ。
間違いない。
昨日の警察官だ。
声だけではない。
その直後、警察無線らしき音が聞こえた。
短い雑音。
誰かの声。
内容までは聞き取れない。
真帆は青になった信号にも気づかず立ち尽くしていた。
後ろの人が避けていく。
右耳の音は続いた。
車内。
男が何かを取り出す。
ビニールのような音。
金属が触れ合う。
そして、
『あれさえ見つからなければ……』
そこで途切れた。
真帆は昨日の会話を思い出した。
『返して』
被害者が何度も言っていた。
何かを奪われた。
犯人は、それをまだ持っている?
真帆は震える手でスマートフォンを取り出した。
昨日の記事をもう一度開く。
所持品の一部がなくなっていた。
何がなくなったのかは書かれていない。
そのとき、肩を叩かれた。
「真帆さん」
悲鳴が出そうになった。
振り向く。
あの警察官が立っていた。
「すみません。驚かせましたね」
「あ……」
制服ではなかった。
シャツに黒いパンツ。
どこにでもいる会社員のように見える。
「どうして……」
「たまたま見かけたので」
男は笑った。
「顔色が悪いですよ」
「大丈夫です」
「また聞こえました?」
真帆はスマートフォンを握りしめた。
「……いいえ」
「そうですか」
男は真帆の手元を見た。
画面には、殺人事件の記事が表示されたままだった。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
男の目から笑みが消えた。
真帆は慌てて画面を消した。
「自分で調べない方がいいですよ」
「どうしてですか」
「どうしてって」
男は少し笑った。
「昨日も言ったでしょう。危ないですから」
信号が変わった。
人々が二人の横を通り過ぎていく。
真帆は人の流れに入りたかった。
だが男が目の前に立っている。
「送りますよ」
「いえ、大丈夫です」
「遠慮しなくても」
「本当に大丈夫です」
少し強く言った。
男は黙った。
その瞬間。
右耳から女の声が聞こえた。
『お願い……』
真帆の呼吸が止まった。
違う。
今までより鮮明だった。
『返して……』
雨の音。
男の荒い呼吸。
女が泣いている。
『それ、お母さんからもらったの……』
真帆は目の前の男を見る。
男は怪訝そうに眉を寄せた。
「どうしました?」
右耳。
『返して……お願い……』
何かが地面に落ちる。
女が叫ぶ。
男の声。
『静かにしろ』
真帆の身体から血の気が引いた。
目の前の男が言った。
「真帆さん?」
同じ声だった。
右耳から聞こえる、過去の声。
『静かにしろ』
左耳から聞こえる、現在の声。
「大丈夫ですか?」
同じ男。
間違えようがなかった。
真帆は一歩下がった。
男の表情が変わった。
「……何が聞こえたんです?」
「何も」
「嘘ですね」
初めてだった。
男の声から、あの柔らかさが消えた。
真帆はさらに下がった。
周囲には人がいる。
ここなら何もできない。
そう思った。
男は追ってこなかった。
ただ真帆を見ていた。
「帰った方がいいですよ」
静かに言った。
「今日はもう」
真帆は答えず、人混みの中へ入った。
振り返らなかった。
駅まで歩き、改札を抜け、ホームへ下りた。
人の多い車両を選んで電車に乗った。
ドアが閉まる。
電車が動き始める。
ようやく真帆は息を吐いた。
震えが止まらなかった。
警察に言わなければ。
別の警察官に。
あの男ではない誰かに。
スマートフォンを取り出した。
そのとき。
右耳から音がした。
駅の雑踏。
改札機。
発車メロディ。
真帆は顔を上げた。
これは――
ついさっき自分が聞いた音。
いや。
違う。
聞こえ方が違う。
少し離れたところから聞こえる。
誰かが改札を通る。
足音。
階段を下りる。
ホームへ出る。
そして。
電車のドアが閉まる直前。
駆け込む足音。
真帆はゆっくりと車内を見回した。
会社員。
学生。
買い物袋を持った老人。
スマートフォンを見る女。
誰もこちらを見ていない。
右耳から、男の荒い呼吸が聞こえる。
そして、小さな声。
『逃がすかよ』
真帆は立ち上がった。
電車は次の駅へ向かって走っている。
逃げ場はなかった。




