第一話 聞こえない耳
最初に聞こえたのは、女の声だった。
「やめて」
その一言で、真帆は目を覚ました。
部屋は暗かった。
カーテンの隙間から、向かいのマンションの外灯が細く差し込んでいる。枕元のスマートフォンに手を伸ばすと、午前二時十七分だった。
夢だったのだろう。
そう思って、真帆はスマートフォンを伏せた。
目を閉じる。
冷蔵庫のコンプレッサーが低く唸っている。遠くを走る車の音がする。
どちらも左側から聞こえた。
それはいつものことだった。
三年前、真帆は右耳の聴力を失った。
朝起きたら、聞こえなくなっていた。
文字にしてしまえば、それだけのことだった。
前日まで普通に聞こえていた右耳が、突然、役に立たなくなった。耳の中に水が詰まったような違和感があり、その日のうちに耳鼻科へ行った。
突発性難聴。
治療はした。
入院もした。
けれど、戻らなかった。
最初の半年ほどは不便で仕方がなかったが、三年も経てば慣れる。人と歩くときは相手を左側に置く。飲食店では壁を右側にする。道路を渡るときには意識して右を見る。
だから――
「お願い……」
真帆は目を開けた。
聞こえた。
はっきりと。
女の声。
しかも、
右耳から。
真帆は起き上がった。
右耳を手で覆う。
「……何?」
返事はない。
壁の向こうだろうか。
隣の部屋から聞こえた声が、骨や壁を伝って妙な聞こえ方をしたのかもしれない。
そう考えてから、自分でもおかしいと思った。
右耳は聞こえない。
壁の向こうだろうが、耳元だろうが同じことだ。
真帆はベッドから降りた。
裸足でフローリングを歩き、玄関へ向かう。
耳を澄ます。
何も聞こえない。
ドアスコープを覗いた。
誰もいなかった。
廊下の照明だけが白々と点いている。
真帆は鍵を確認してから寝室へ戻った。
やっぱり夢だったのだ。
半分眠っていたせいで、夢と現実を混同した。
そういうことにした。
ベッドへ戻り、布団を引き上げる。
そのときだった。
右耳の奥で、
ドン。
何かが鳴った。
真帆の身体が跳ねた。
続いて、女の短い悲鳴。
「いやっ!」
ドン。
「やめ――」
ドッ。
声が途切れた。
真帆は動けなかった。
耳鳴りではない。
少なくとも、自分が知っている耳鳴りとは違う。
聞こえている。
すぐ近くで。
いや。
近いのか遠いのか、それすら分からない。
男の息遣いがした。
荒い。
興奮しているような呼吸だった。
ハァ。
ハァ。
ハァ。
そして何かを引きずる音。
女が泣いている。
「返して……」
男は答えない。
「お願い……返して……」
ゴッ。
鈍い音がした。
女の泣き声が止まった。
真帆は布団の中で口元を押さえた。
聞きたくない。
右耳を掌で塞いだ。
それでも聞こえた。
塞いでも意味がなかった。
音は外から入ってきているのではない。
もっと直接、頭の中へ流れ込んできているようだった。
やがて、女の呼吸がおかしくなった。
「ひゅ……」
息を吸おうとしている。
「ごぼっ……」
液体の音。
「ひゅ……ごぼ……っ」
真帆は吐きそうになった。
何の音なのか、考えたくなかった。
だが想像してしまった。
血だ。
この女は、血で呼吸ができなくなっている。
そして――
音が止まった。
真帆はしばらく動けなかった。
暗い部屋の中で、自分の心臓だけが激しく鳴っていた。
左耳には、それが聞こえている。
右耳には何もない。
いつもの右耳に戻っていた。
翌朝、真帆は仕事を休んだ。
ほとんど眠れなかった。
午前中に耳鼻科へ行った。
何年も診てもらっている医師に昨夜のことを話したが、検査結果は以前と変わらなかった。
「耳鳴りの可能性はあります」
医師はそう言った。
「でも、声が聞こえたんです」
「耳鳴りで人の声のような音を感じることも、ないわけではありません」
「女の人が喋ってました」
医師は少し困った顔をした。
「かなり具体的に?」
「はい」
「今も聞こえますか?」
「今は何も」
真帆は防音室の中で、右耳に装着されたヘッドホンを見た。
検査では、相変わらずほとんど聞こえなかった。
あれほど鮮明だった女の悲鳴が嘘のようだった。
診察室を出るころには、真帆自身も昨夜の出来事を疑い始めていた。
疲れていたのかもしれない。
仕事で残業が続いていた。
睡眠不足もあった。
幻聴。
その言葉は嫌だったが、殺人らしき音が本当に右耳から聞こえたと考えるより、まだ現実的だった。
病院を出たところで、スマートフォンが鳴った。
母からだった。
「もしもし」
『真帆? 仕事中じゃなかった?』
「今日休んだ」
『具合悪いの?』
「ちょっと耳が変で」
母の声を聞きながら歩く。
左手でスマートフォンを持つのも、もう完全な癖になっていた。
『また右?』
「うん。でも大丈夫」
横断歩道の信号が青になる。
真帆が歩き出した。
その瞬間だった。
「いや!」
真帆は立ち止まった。
『真帆?』
右耳。
「お願い……!」
昨夜の女だった。
『どうしたの?』
「ちょっと待って」
信号が点滅し始めていた。
真帆は慌てて道路を渡った。
右耳から音が続いている。
女が泣いている。
何かが倒れる。
男の荒い呼吸。
そして、
「返して……」
真帆は歩道の端で立ち尽くした。
『真帆?』
「……ごめん。あとでかけ直す」
電話を切った。
偶然ではない。
夢でもない。
同じ声。
同じ女だ。
昨夜とは違う部分が聞こえている。
男が何か言った。
真帆は息を止めた。
低い声だった。
しかし言葉までは聞き取れない。
直後に女が叫び、音が途切れた。
街の雑踏が左耳へ戻ってくる。
真帆はその場からしばらく動けなかった。
警察へ行こうと思ったのは、その日の夕方だった。
何度もやめようと思った。
何と説明すればいいのか分からない。
聞こえない耳から殺人事件のような音が聞こえました。
自分が警察官なら、そんな相談をされたらどう思うだろう。
それでも、もし。
本当に誰かが殺されていたら。
何もしなかったことを後悔する気がした。
警察署の受付で事情を説明すると、案の定、奇妙な顔をされた。
「つまり……音を聞いた、と?」
「はい」
「場所は?」
「分かりません」
「いつですか?」
「それも……」
若い警察官は明らかに困っていた。
「右耳が聞こえないんです。でも、その右耳から聞こえて」
「はあ……」
「女の人が襲われてるみたいでした」
自分で説明していて恥ずかしくなってきた。
「すみません。やっぱりいいです」
立ち上がろうとしたときだった。
「ちょっと待ってください」
男の声がした。
振り向く。
三十代後半くらいだろうか。
制服姿の警察官が立っていた。
「私が聞きます」
穏やかな声だった。
別室へ通された。
机を挟んで向かい合う。
「最初から話してもらえますか」
男は手帳を開いた。
真帆は昨夜からのことを説明した。
右耳のこと。
女の悲鳴。
何かで殴られているような音。
男の呼吸。
そして、女が最後には呼吸できなくなったこと。
警察官は途中で笑うことも、遮ることもしなかった。
「男の声は?」
「少し聞こえました。でも何を言ったのかは分かりません」
「他には?」
「……そうですね」
真帆は昨夜の音を思い出した。
「女の人が何度か同じことを言ってました」
「何と?」
「返して、って」
警察官のペンが止まった。
本当に一瞬だった。
真帆が気づいたときには、もう動いていた。
「『返して』ですか」
「はい」
「何を返してほしいのかは?」
「分かりません」
「そうですか」
警察官は手帳に何かを書いた。
「分かりました。念のため確認してみます」
「こんな話、本当に調べてもらえるんですか?」
「何もなければ、それが一番でしょう」
男は笑った。
優しそうな笑顔だった。
「今日はもう帰って休んでください」
「ありがとうございます」
真帆は頭を下げた。
その夜。
真帆は久しぶりに湯船に浸かった。
医師にも疲労を指摘された。
今日は早く寝よう。
警察にも話した。
自分にできることはもうない。
そう思った。
風呂から上がり、髪を乾かしている途中だった。
右耳から音がした。
真帆はドライヤーを止めた。
また女の声が聞こえると思った。
違った。
ざわざわと、人が話している。
電話の呼び出し音。
キーボードを叩く音。
紙をめくる音。
遠くで無線らしき声。
真帆は眉をひそめた。
知らない音ではなかった。
つい数時間前までいた場所。
警察署。
どうして?
右耳から、男の声が聞こえた。
『最初から話してもらえますか』
今日の警察官だ。
続いて女の声。
『最初は昨日の夜です』
真帆はドライヤーを床に落とした。
自分の声だった。
『右耳が聞こえないんです。でも、その右耳から聞こえて……』
間違いない。
今日、自分が警察署で話した会話。
しかし。
おかしい。
自分の声が聞こえる位置がおかしい。
少し離れている。
机の向こう側から聞こえてくる。
まるで――
誰かが座って、自分の話を聞いている。
その人間の耳で聞いているような。
真帆は立ち尽くした。
右耳から、自分の声が続く。
『女の人が何度か同じことを言ってました』
男の声。
『何と?』
そして自分が答える。
『返して、って』
そこで音が途切れた。
数秒の沈黙。
真帆は右耳を押さえた。
やがて、新しい音が始まった。
車のドアが閉まる。
エンジンがかかる。
しばらく走行音が続いた。
どこかへ移動している。
やがて車が止まった。
エンジンが切れる。
静寂。
男の呼吸だけが聞こえる。
ハァ。
ハァ。
昼間の穏やかな警察官からは想像できない、ひどく荒い息だった。
そして男が、小さな声で呟いた。
『……どこまで聞いた』
真帆は息を止めた。
右耳から、もう一度。
『どこまで聞いたんだ、あの女』
その声には、昼間にはなかったものがあった。
はっきりとした敵意だった。




