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右耳  作者: かべさん
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第三話 聞かれた音

 真帆は立ったまま、車内を見回した。


 誰だ。


 どこにいる。


 右耳からは電車の走行音が聞こえていた。


 レールの継ぎ目を踏む規則的な振動。車内放送。乗客の咳払い。吊革の軋む音。


 すべて、ほんの少し前にこの車内で鳴っていた音だ。


 けれど、それを聞いていたのは真帆ではない。


 あの男だ。


 どこかにいる。


 同じ車両なのか。


 隣の車両なのか。


 分からない。


 真帆は左耳だけで現在の音を聞きながら、右耳で過去を聞いていた。


 電車が減速する。


 次の駅だった。


 真帆はドアの前へ移動した。


 走ってはいけない。


 男がこちらを見ているかもしれない。


 平静を装った。


 ドアが開く。


 降りる。


 ホームにはまだ人が多い。


 真帆は階段へ向かった。


 右耳から、


 ピンポーン。


 ドアが閉まる警告音。


 続いて足音。


 誰かが電車を降りた。


 真帆は振り返らない。


 右耳に聞こえる音が、少しずつ現在に近づいている。


 足音。


 階段。


 改札機。


 真帆は改札を抜けた。


 スマートフォンを取り出す。


 警察。


 だが、誰に言えばいい。


 あの男が警察官なら、自分の言葉がどこまで信用されるのか分からない。


 それでも通報するしかなかった。


 110を押そうとして――


 右耳から自分の声が聞こえた。


『警察に言わなければ』


 真帆は指を止めた。


 電車の中で、自分が小さく呟いた言葉だった。


 聞かれていた。


 すぐ近くで。


 真帆はスマートフォンをポケットへ戻した。


 駅前へ出る。


 明るい大通りへ行こう。


 コンビニでもいい。


 人のいる場所から通報する。


 そう決めた。


 だが、背後から声がした。


「真帆さん」


 左耳だった。


 近い。


 真帆は走った。


 駅前の人混みを抜ける。


 信号は赤だった。


 車が流れている。


 右へ。


 商店街。


 ほとんどの店が閉まっている。


 選択を間違えたと思った。


 明るい場所へ行くつもりだったのに、人通りが急に減った。


「待ってください!」


 後ろから声がする。


「話をするだけです!」


 真帆は振り返らない。


 走る。


 右耳からも音が流れ込んでくる。


 自分の足音。


 自分の呼吸。


 店先の看板に肩をぶつけた音。


 すべて、少し遅れて聞こえてくる。


 奇妙だった。


 自分が逃げた痕跡を、追ってくる男の耳から聞いている。


 角を曲がった。


 古い雑居ビルがあった。


 一階のシャッターは閉まっている。


 脇に非常階段へ続く扉。


 真帆はそこへ飛び込んだ。


 暗い。


 階段を駆け上がる。


 二階。


 三階。


 四階。


 息が続かない。


 踊り場で立ち止まった。


 しまった。


 上へ逃げてどうする。


 自分で逃げ道をなくしている。


 下から扉の開く音がした。


 左耳に聞こえた。


 男が入ってきた。


 真帆は四階の廊下へ出た。


 事務所らしい扉が並んでいる。


 どれも閉まっている。


 一番奥に清掃用具入れがあった。


 扉を開ける。


 モップ。


 バケツ。


 洗剤。


 身体一つなら入れる。


 真帆は中へ滑り込み、ゆっくり扉を閉めた。


 暗闇。


 自分の呼吸がうるさい。


 口を押さえる。


 左耳を澄ます。


 何も聞こえない。


 右耳から、自分が階段を駆け上がる音がした。


 過去だ。


 男が今、それを追っている。


 三階。


 四階。


 右耳の中で足音が止まった。


 真帆は息を殺した。


 聞かれてはいけない。


 ここからは一瞬でも音を立てれば終わる。


 男が廊下へ入ってきた。


 その足音は左耳にだけ聞こえる。


 ゆっくり。


 一歩。


 また一歩。


 真帆は右耳を扉へ向けた。


 意味がない。


 右耳には現実の音が聞こえない。


 男が右側へ回れば、気づけない。


 汗が頬を伝った。


 鼻がむず痒い。


 くしゃみが出そうになった。


 真帆は鼻を押さえた。


 足音が止まる。


 静寂。


 長い。


 どこにいる?


 真帆には分からない。


 右耳から、突然、


 カツン。


 音がした。


 真帆はびくりとした。


 自分が階段で何かを蹴った音。


 少し前の音だ。


 男がそれを聞いている。


 続いて自分の荒い呼吸。


 そして――


 右耳の中で、音の質が変わった。


 反響が小さくなる。


 男が廊下へ入ったのだ。


 近い。


 真帆はポケットの中でスマートフォンを握った。


 画面を点けない。


 音も出せない。


 指先だけで操作する。


 緊急通報。


 できる。


 しかし話せない。


 位置情報だけでも届くのか。


 迷っている間に、左耳から小さな音がした。


 キィ。


 扉。


 男がどこかの部屋を開けた。


 閉める。


 また次。


 一つずつ調べている。


 いずれここへ来る。


 真帆は周囲を手探りした。


 バケツ。


 モップ。


 洗剤。


 何か使えないか。


 指が金属に触れた。


 清掃用具入れの奥に、小さな空き缶が落ちている。


 真帆はそれを握った。


 左耳。


 足音。


 近い。


 あと二つ。


 あと一つ。


 真帆はスマートフォンを取り出した。


 空き缶を床へ置く。


 そしてスマートフォンを、その中へそっと入れた。


 タイマーを設定する。


 三十秒。


 音量を最大にする。


 扉をほんの少し開けた。


 男の姿は見えない。


 真帆は缶を廊下へ滑らせた。


 カラ……。


 小さな音。


 まずい。


 足音が止まった。


 真帆は扉を閉める。


 十秒。


 二十秒。


 長い。


 そして廊下の向こうで、スマートフォンのアラームが鳴った。


 けたたましい電子音。


 男が走った。


 左耳で聞こえる。


 遠ざかる。


 真帆はまだ動かなかった。


 待つ。


 右耳から、


 カラ……。


 缶が床を滑る音。


 男が聞いた音だ。


 続いてアラーム。


 右耳いっぱいに電子音が鳴る。


 そして男の声。


『何だ?』


 遠い。


 男はスマートフォンのところまで行った。


 今だ。


 真帆は扉を開けた。


 階段へ走る。


 三階。


 二階。


 一階。


 背後で男が叫んだ。


「待て!」


 真帆は非常口を押した。


 開かない。


 鍵。


 嘘。


 さっきはここから入った。


 違う。


 別の扉だ。


 パニックで方向を間違えた。


 足音が近づいてくる。


 真帆は壁沿いに走った。


 暗闇の中、別の扉を見つける。


 押す。


 開いた。


 外。


 真帆は転がるように路地へ出た。


「助けて!」


 初めて声を上げた。


「誰か!」


 大通りへ走る。


 人がいる。


 振り返る。


 男は出てこなかった。


 真帆はコンビニへ駆け込んだ。


 店員が驚いている。


「警察を呼んでください」


「え?」


「警察官に追われています」


 自分でも滅茶苦茶な言葉だと思った。


「お願いします。あの人じゃない警察を」


 店員は戸惑いながら電話を取った。


 真帆は床に座り込んだ。


 身体の震えが止まらなかった。


 数分後。


 パトカーが二台来た。


 真帆は何度も確認した。


 あの男はいない。


 別の警察官だった。


 今度は全部話した。


 信じてもらえるかどうかは、もうどうでもよかった。


 殺された女性のこと。


 「返して」という言葉。


 男が何かを持っているらしいこと。


 そして、あの警察官の名前。


 最初は半信半疑だった警察官たちの表情が、少しずつ変わっていった。


「その言葉は、どこで知りました?」


「だから……聞こえたんです」


「『返して』という言葉です」


「何度も聞きました」


 警察官たちは顔を見合わせた。


 真帆には、その意味が分からなかった。


 後になって知った。


 被害者から奪われていたのは、母親の形見だった。


 小さなペンダント。


 その事実は、公表されていなかった。


 男が逮捕されたのは翌朝だった。


 自宅から、ペンダントが見つかった。


 それだけではなかった。


 被害者の血痕が付着した衣類。


 処分されずに残っていた証拠。


 男は否認した。


 だが、もう逃げられなかった。


 真帆が聞いた音が証拠になったわけではない。


 音は、ただ警察を証拠まで導いただけだった。


 三週間が過ぎた。


 右耳から音は聞こえなくなった。


 真帆は仕事へ戻った。


 電車に乗り、買い物をし、一人で眠る。


 以前の日常が戻りつつあった。


 あれ以来、ずっと考えていることがある。


 なぜ、あの男の音が聞こえたのか。


 最初は、過去の音が残っているのだと思った。


 違った。


 場所は関係なかった。


 あの男が聞いた音だった。


 では、なぜ彼だったのか。


 いつから聞こえ始めた?


 最初の夜。


 警察へ相談する前だ。


 その時点では、真帆は男の存在すら知らなかった。


 それなのに、男の過去が聞こえた。


 理由は一つしか思いつかなかった。


 真帆が男を知らなくても――


 男は真帆を知っていた。


 逮捕後の捜査で、それも判明した。


 殺された女性が最後に目撃された夜。


 真帆は偶然、現場近くを通っていた。


 本人は何も見ていなかった。


 だが男は違った。


 遠くを歩いていた真帆を見ていた。


 顔も覚えていた。


 自分を見られたかもしれない。


 そう思っていた。


 だから事件の夜からずっと、真帆を警戒していた。


 悪意。


 恐怖。


 殺意。


 そのどれが右耳を開いたのか、真帆には分からない。


 ある夕方。


 仕事帰りの電車だった。


 真帆は窓際の席に座っていた。


 混んではいない。


 向かいに学生が二人。


 少し離れたところに会社員。


 入口付近に老人。


 平凡な車内だった。


 真帆は窓の外を眺めた。


 夕暮れの街が流れていく。


 そのとき。


 右耳から音がした。


 真帆の身体が固まった。


 電車の走行音。


 車内放送。


 乗客の話し声。


 今いる、この車内。


 真帆はゆっくり顔を上げた。


 右耳から、


 コホン。


 小さな咳払い。


 真帆は息を止めた。


 数秒前。


 自分がした咳だった。


 誰かが聞いていた。


 この車内の誰か。


 真帆は周囲を見る。


 誰もこちらを見ていない。


 学生は話している。


 会社員はスマートフォンを見ている。


 老人は目を閉じている。


 右耳から、衣擦れの音。


 自分が座り直したときの音だった。


 近い。


 かなり近い。


 真帆は立ち上がった。


 次の駅で降りよう。


 そう思った瞬間。


 右耳から男の声が聞こえた。


 知らない声だった。


『やっと見つけた』


 真帆は動けなくなった。


 電車は速度を落とし始める。


 誰も彼女を見ていない。


 右耳から、もう一度。


 今度は囁くように。


『今度は、音を立てるなよ』


 ドアが開いた。


 真帆は走った。


 ――終。

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