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第7回 残高、あと一日


 翌朝、宮下透はスマホの画面を見て、心の中で二回だけ死んだ。


 一回目は通知を開いた瞬間。二回目はその下の小さな補足文を読んだ瞬間だ。


『残高不足。あと24時間で契約終了』

『不足額:482円』


 中途半端!


 もっとこう、千円単位で絶望させるならまだ諦めもつくのに、四百八十二円という「なんとかできそうで、でも高校生の財布には妙に重い」絶妙な額を突きつけてくるあたり、この制度を設計した人間は性格が悪い。間違いない。


「四百八十二円てなんだよ……」


 布団の中で呟く。五百円玉なら一枚で済む。でも今の透の財布に五百円玉は入っていない。あるのは百円玉一枚と十円玉が数枚と、なぜか二年前の駄菓子屋のポイント券だ。役に立たなすぎる。過去の自分が未来の自分にしてくれた贈り物として最悪の部類に入る。


 洗面所で顔を洗っても現実は薄まらなかった。鏡の中の自分も、いかにも「契約終了まで一日です」と言われた顔をしている。具体的にどんな顔かはわからないが、少なくとも爽やかな朝の高校生ではない。


 食卓では母が鮭を焼いていた。焼き魚の匂いは平和だ。平和すぎて腹が立つ。こっちは人生の残高不足なのに、朝食はちゃんと朝食の顔をして出てくる。


「おはよう。今日の顔はすごいね」

「最近もう天気予報みたいに顔の状態言うよね」

「うん。今日の透は『おつりが足りなくて自販機の前で固まった人』」

「細かいなあ!」

「当たり?」

「だいぶ近い」


 母は笑っている。のんきだ。いや、のんきでいてくれる方がありがたいのかもしれない。家まで重くなったら本当に逃げ場がない。


 でも、その母の財布が、今日はやけに目に入った。


 食器棚の上に置かれた、使い込まれた長財布。買い物用だ。中身がいくら入っているのかは知らない。知らないが、四百八十二円くらいなら、たぶんある。


 透は鮭を口に運びながら、視線だけで財布を避けた。


 だめだ。


 それをやったら、何かが決定的にずれる気がする。金額の問題ではない。足りる足りないの話でもない。昨日、征士に「支払いは支配だ」と言われて、その意味をまだ整理できていない状態で、母の金に手を出すのは、たぶん一番だめな選択肢だ。


 父が何を思って解約したのか、まだ完全にはわからない。


 でも少なくとも、自分が今やろうとしていることが「守る」の顔をした別の何かに近いことくらいは、わかってしまう。


「……ごちそうさま」


 透は鮭を急いで食べ終え、財布を見ないように家を出た。


 駅前の大型ビジョンは今日も絶好調だった。


『大切な想い、途切れさせないために!』


「黙れよもう」


 朝の雑踏の中で思わず口に出た。隣を歩いていた女子高生二人がちらっと見たが、たぶん「広告にキレてる人だ」と思われただけだろう。間違ってはいない。


 教室に入ると、田村が今日はなぜか豪華だった。コンビニのハムカツサンド、ヨーグルトドリンク、さらに小さなプリン。朝食にしては景気がいい。


「おはよう、破産」

「人の顔見て第一声がそれなの、だいぶ育ちが悪いぞ」

「違った?」

「違わないのが腹立つ」

「お、当たり」


 田村はにやっとしたあと、さすがに少し真顔になった。


「マジでなんかあった?」

「……ちょっと」

「金?」

「なんでわかるんだよ」

「おまえ、金のことで悩んでる時だけ目が現実的になる」


 そんな限定的な分析あるか。だがたしかに、恋の悩みより金の悩みの方が人間を現実に引き戻す。ロマンはコンビニで買えないが、昼飯は買わないと腹が減るのだ。


 前の席の雪乃は、今日やけに静かだった。普段も静かだが、今日はさらに静かだ。背筋は伸びているし、ノートも取っているのに、どこか世界との距離が遠い。


 透が席に着くと、雪乃がほんの少しだけ振り返った。


「通知、見た」

「うん」

「今日でしょ」

「うん」

「放課後、話したい」

「……うん」


 それだけだった。


 昼までの授業は、もう完全に上の空だった。数学教師が黒板に「最短距離」と書いたとき、透の頭には「四百八十二円を最短で作る方法」しか浮かばなかったし、英語の長文で主人公が奨学金を得た場面では「いいな」と本気で思った。高校二年生の感想としてだいぶ終わっている。


 昼休みになっても、財布の中身と通知の残り時間が頭から離れない。購買へ向かう足も止まる。今日はパンを買っている場合じゃない。いや、腹は減るのだが、ここで百五十円使うとさらに地獄だ。


「食べないの?」


 雪乃が後ろから言った。


「……今日は節約」

「もう十分節約してる顔だけど」

「顔で生活水準まで読むのやめて」


 雪乃は少しだけ困ったように笑って、それから真顔に戻った。


「払わなくていい」


 透は顔を上げる。


「え」

「わたしの方」

「いや」

「払わないで」

「なんで」

「だって、これ以上やると、宮下くんまで制度に飲まれる」


 小さい声だった。でもはっきりしていた。お願いというより、突き放すための言い方だ。


「わたし、忘れてほしい」

「……何言って」

「払えなくなったなら、それで終わりでいい」

「よくないだろ」

「よくなくても」

「雪乃」


 名前を呼ぶと、彼女は少しだけ目を伏せた。


「お願い。払わないで」

「それは」


 優しさだ。たぶん。雪乃なりの。


 でもその優しさは、透にとっては刃物みたいだった。相手のためだから手放す、という理屈。最近そういうのばっかりだ。父も、征士も、今の雪乃も、みんな別方向から同じことを言ってくる。


 払わないことが愛になる。


 まだ納得していない。納得していないのに、理解だけは少しずつ進んでしまうのが嫌だった。


「……俺が決めることだ」


 透は思ったより低い声で言っていた。


 雪乃が顔を上げる。


「え」

「払うか払わないか、どうするかは、俺が決める」

「でも」

「雪乃が自分を諦めるために言ってるなら、なおさら聞けない」


 教室のざわめきが、そこだけ少し遠くなる。田村が隣の机で気配を消しているのがわかった。こういうときだけ空気を読む。偉い。でもたぶん後で全部聞いてくる。


 雪乃はしばらく黙っていた。


 それから、ほんの少しだけ唇を噛んで、静かに言った。


「……覚えていて。お願い」


 その一言で、透の胸の奥が変なふうに沈んだ。


 払う払わないの前に、もう雪乃の中では「消えるかもしれない」が現実になっている。そのことが嫌だった。認めたくなかった。


 でも、今すぐ四百八十二円がどこかから降ってくるわけでもない。


 授業が終わり、掃除が終わり、放課後になる。透はそのまままっすぐ帰るふりをして、校門を出てすぐ方向を変えた。


 雪乃には言っていない。


 言ったら止められる気がしたし、止められたらたぶん揺れる。


 向かった先は、恋愛感情回収局本部だった。


 駅前のさらに向こう、官庁街の端に建つ、無駄に白くて無駄にガラス張りの建物。昼間はそれなりに爽やかに見えるのだろうが、夕方の光の中だとただただ冷たい。入口前には『恋愛の安心を、制度で支えます』という看板が立っている。支え方にかなり問題がある。


「でかいな……」


 思わず呟く。


 ここに来るのは初めてではないはずだ。遠くから見たことくらいはある。だが「用があって来る」と、建物の圧がまるで違う。高校生がひとりで来る場所ではない感じがすごい。職員も来訪者もみんな早足で、ガラスの自動ドアだけが妙に親切だ。


 受付ホールは広かった。白い床、白い壁、観葉植物、案内カウンター。病院と空港と市役所を混ぜたみたいな清潔感がある。清潔すぎて人間味が薄い。床に落ちた消しゴムのカスひとつでも異物扱いされそうだ。


 中央の大型パネルには、笑顔のカップル写真とともに『更新はこちら』と表示されていた。


「来たくて来てるわけじゃないんだよなあ」


 透は自分にだけ聞こえる声で言った。


 受付の女性は愛想がよかった。よすぎた。


「本日はどのようなご用件でしょうか?」

「えっと……契約の件で」

「更新ですね」

「いや、更新というか」

「こちらでお手続きできます」

「そうじゃなくて」


 自分でも何を言いに来たのか、うまく整理できていない。残高不足の相談? 例外申請? 支払方法の変更? あるいはもっと別の何かか。


 ただひとつはっきりしているのは、昨日までみたいにアプリの画面に向かって悩んでいるだけでは、もう間に合わないということだった。


「……契約を、終わらせる方法を知りたいです」

「ご本人様のですか?」

「俺と」

 一瞬だけ言葉に詰まる。

「……氷室雪乃との」


 受付の女性の微笑みが、ほんの少しだけマニュアルの顔に変わった。


「少々お待ちください」


 さっきまで案内のために前屈みだった姿勢が、きれいに事務的な角度へ戻る。制度の顔だ。透は胸の奥で舌打ちしたくなったが、しても何も変わらない。


 待合スペースの椅子はやたらと座り心地がよかった。そこがまた腹立たしい。人を追い詰める制度ほど、待合のクッションは柔らかいのかもしれない。


 目の前の自販機には、普通の水やお茶に混じって「恋するミントソーダ」が並んでいた。ここまで来てもその商品名をやめないのか。根性があるというか空気が読めないというか、たぶん後者だ。


 五分ほど待たされて、案内されたのは上層階だった。


 エレベーターの数字が上がっていく。八階、九階、十階。ガラス越しに見える街の灯りがどんどん小さくなっていく。高い場所は嫌いではないが、今は単純に落ち着かない。心拍数と階数が競争している感じだ。


 最上階の廊下は静かだった。下の階より人が少なく、足音だけが妙に響く。壁には過去の制度改革の年表や、感情契約の適正運用に関するポスターが整然と並んでいる。どれも正しい顔をしていて、だからこそ胡散臭い。


 通された部屋は、思ったより小さかった。


 中央に端末が一台。壁面モニター。机。椅子が二つ。ドラマみたいな巨大司令室ではなく、むしろ「ここで人生の方向を決めるの?」と聞きたくなるくらいの事務室サイズだ。


 机の上の端末画面には、見慣れた二択が表示されていた。


『更新する』

『更新しない』


 たったそれだけ。


 ここ数日、スマホの中で何度も見たボタンだ。でも今は、距離感が違う。画面の大きさも、文字の硬さも、何もかもが現実の重さを増して見える。


 更新する。


 押せば、たぶん今日の問題の大半は先送りできる。四百八十二円の不足も、猶予申請だの保護契約だの、何かしら制度の都合で丸め込めるのかもしれない。少なくとも、その場しのぎにはなる。


 更新しない。


 押せば、終わる。今の気持ちは切れる。雪乃は透への恋愛感情を失うかもしれない。透だって、何かをなくすだろう。


 でも。


 征士の言葉が頭の中で鳴る。


 支払いは支配だ。

 消えないよ。お前が覚えていれば。


 雪乃の言葉も重なる。


 払わないで。

 覚えていて。お願い。


 透は、ゆっくり息を吸った。


 ここへ来るまでは「どうにか払う方法」を探すつもりだった。母の財布には手を出さなかったが、制度の中に飛び込めば何かしら抜け道があると思っていた。実際、たぶんあるのだろう。金と手続きで延命する方法は。


 でも今、画面の前に立つと、それだけでは足りない気がした。


 足りないというより、違う。


 自分は雪乃を「失いたくない」だけで、ずっと更新ボタンを見てきた。でもその先にあるのが、ずっと誰かに払われ続けることでしか守れない関係なら、それは本当に守っていることになるのか。


 わからない。


 正直、まだ全然わからない。


 でも、わからないままでも、押したくないボタンははっきりしていた。


 透は端末の前に立ち、指を伸ばす。


 受付から同行してきた職員が事務的に言う。


「お手続きされますか?」


 透は画面を見た。


 更新ボタンではなかった。そこに、自分が押すべきものはないと、今は思えた。

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