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第6回 父という名の債権者



 翌朝、宮下透はスマホの画面を見て五秒ほど停止した。


『氷室征士』

『わたしの父親』


 昨夜のメッセージは、朝になっても当然のように残っていた。夢オチとか、寝ぼけた見間違いとか、そういう高校生に優しい処理は一切なかった。現実はだいたい不親切だ。


「父親かあ……」


 布団の中で天井を見上げる。


 雪乃の父親。


 支払者。


 つまり、娘の感情に課金している男。


 字面が最悪である。家族愛と債権管理が一文の中で共存してはいけない。父親という単語には、もう少しこう、運動会でビデオを回すとか、休日に変な料理を作るとか、そういう方向の役割を期待したい。課金管理は違う。


 スマホを伏せても、文字だけが頭の中に残る。氷室征士。名前の漢字まできっちり覚えてしまった。こういうのは小テストの範囲だけ覚えられないくせに、いらない情報だけ妙に定着する。


 食卓に行くと、母が目玉焼きを焼いていた。ジュウッという音と、味噌汁の湯気と、朝の情報番組の軽いテンション。家の朝は平和だ。こちらの頭の中では「ヒロインの父が元凶っぽい」という重い情報が渦巻いているのに、画面の中では芸人が「春の新作コンビニスイーツ」を紹介している。世界の温度差が激しい。


「おはよう。今日はさらに顔が難しいね」

「最近の母さん、顔の感想しか言ってなくない?」

「だって毎朝ちがうんだもん。今日のは『数学の途中式が全部消えた』みたいな顔」

「朝食の場に出す例えじゃないな」

「深刻ってこと」


 その通りだったので反論できない。


 トーストをかじりながら、透はぼんやり考える。


 父親が支払者。雪乃を守るために制度の内側へ置いた。そこまでは昨日の情報から推測できる。問題は、その先だ。


 守るための支払いと、縛るための支払いは、同じ顔をしているのではないか。


 考えたくない問いが、朝から胃のあたりに居座っていた。


 登校中、駅前の大型ビジョンは今日も元気だった。


『大切な人を守るなら、継続プランがおすすめ!』


「うるさいなあ」


 思わず口に出る。今日は本当にやめてほしい。広告が全部、こちらの会話を盗み聞きして出稿しているみたいだ。実際そんな高度なことはしていないのだろうが、タイミングが悪すぎる。いや、制度そのものが今の透にとって敵寄りなので、全部が挑発に見えるだけかもしれない。


 教室では田村がプリンを食べていた。朝から。胃の強さが育ち方からして違う。


「おはよう、債務」

「人の顔見て第一声がそれなの最悪だろ」

「なんとなく今のおまえ、そういう感じ」

「なんだよそういう感じって」

「重いこと考えてる顔」


 こいつは雑なのにときどき鋭い。もっと無駄なところで鈍くあってほしい。


 前の席の雪乃は、今日は朝から静かだった。普段も静かだが、今日の静かさは少し違う。机の上の手が動いていても、どこか別の場所に意識があるみたいな静けさ。たぶん昨夜、自分で送った「父親」という単語の重さを、今も持ったまま来ているのだろう。


 透が席に着くと、雪乃が小さく振り返った。


「おはよう」

「……おはよう」

「放課後、会って」

「うん」

「父に」


 田村のスプーンが落ちた。


「ちょっ」

「おまえはなんで反応が毎回でかいんだよ」

「いや今のはでかくもなるだろ! 『放課後、父に』ってホームドラマかサスペンスの導入だぞ!」

「どっちかというと後者寄りだな」

「笑えないことさらっと言うなよ!」


 雪乃はそれ以上何も言わず前を向いた。こちらの平穏だけがきれいに消し飛ぶ。


 一時間目から六時間目まで、透はひたすら落ち着かなかった。国語では「支配」という単語に勝手に反応し、英語ではcreditorの訳を見てちょっとだけ動揺し、世界史では皇帝とか宗教改革とかより「誰かの正しさが別の誰かの不幸になる」みたいな話ばかり頭に残った。教育は偉大だが、今日の自分には刺さる角度が雑すぎる。


 放課後、雪乃に連れて行かれたのは駅前から外れた古いビルの屋上だった。


 夕方の風が強い。フェンス越しに街が見える。大型ビジョンの広告も、ここからだと少しだけ小さくて、ようやくうるささが減る。地上で見るとあんなに偉そうなのに、高い場所からだとただの光る長方形だ。制度もこのくらい縮んでくれればいいのに。


「ここで?」

「待ち合わせ場所に指定された」

「ドラマっぽいな」

「ドラマならもっと見晴らしのいい高級ホテルに呼ぶんじゃない?」

「それもそうか。予算感が現実的すぎる」


 透がフェンスの前で足を止めたとき、屋上の隅に立っていた男がこちらを向いた。


 氷室征士。


 たぶんそうだとわかった。


 年齢は四十代後半くらいだろうか。背が高く、黒いコートを着ている。髪には少し白いものが混じり、顔立ちは雪乃に似ていた。似ているのに、印象はだいぶ違う。雪乃の静けさが透明な冷たさだとしたら、この男の静けさは金属っぽい。磨かれていて、硬い。


「来たか」


 低い声だった。よく通るのに、無駄に響かない。仕事で人を黙らせるのに慣れている声だ、と透は思った。


 雪乃が小さく会釈する。


「父さん」

「久しぶりだな」

「そんなに久しぶりでもない」

「仕事の報告は顔を合わせたうちに入らん」


 会話の出だしから親子らしさが薄い。家庭というより会議だ。重い案件を抱えた部署の定例ミーティングみたいな空気がある。透の胃がまた少し縮む。


 征士の視線が透に向く。


「君が宮下透くんか」

「……はい」

「写真で見るより普通だな」

「初対面の感想としてはわりと失礼ですね」

「そうか。すまん」


 謝った。謝ったのにぜんぜん和らがない。むしろ「この人は必要なら謝罪も道具として使うタイプだな」という印象だけが補強された。困る。


 征士はフェンス際から一歩離れた。


「座る場所もない。手短に話そう」

「屋上で立ち話するタイプなんですね」

「ホテルのラウンジの方がよかったか?」

「そこまでの格は求めてないです」

「なら十分だろう」


 会話のテンポが妙に速い。押されると流されそうになる。父親というより、面接官だ。


「単刀直入に言う。雪乃の契約者は私だ」

「うん」

「そして、その支払いは私が止めれば終わる」

「……うん」


 本人の口から改めて言われると、やっぱり嫌だった。


 制度上の事実なのだろう。書類にすれば一行か二行で済むのかもしれない。だがその一行で、誰かの感情の有無が決まる。人間の心に対して説明欄が小さすぎる。


 征士は続けた。


「私は元・恋愛感情回収局の幹部だった」

「元」

「今は退いている」

「それで娘を制度の内側に?」

「そうだ」


 雪乃がわずかに眉を寄せた。知っていた話なのか、知らなかったのかまではわからない。ただ、その「そうだ」は娘に向けた説明ではなく、透に向けた答えだった。


「外に置けば、もっと簡単に消える」

「だから内側に置いて、支払ってる」

「そういうことだ」

「守ってるつもりで?」


 透が言うと、征士は一瞬だけ目を細めた。


「つもり、ではない。守っている」

「でも、それって」


 言いかける。


 支配じゃないのか。


 昨日から頭の中に居座っていた問いを、透はそのまま口にした。


「支払いって、支配じゃないんですか」


 屋上の風が少しだけ強く吹いた。


 雪乃がこちらを見た。征士は表情を変えないまま答える。


「支払いは支配だ」


 即答だった。


 透は一瞬、言葉を失った。


 否定しないのか。もっとこう、「違う、愛だ」とか「誤解だ」とか、そういう方向の反論が来ると思っていた。なのにこの男は、迷いなく認めた。


「え」

「驚くことか」

「驚きますよ普通」

「制度の本質だ。金を払う側が継続を握る。そこに支配が生まれないと思う方が不自然だ」


 冷静だった。冷静すぎて腹が立つ。正しい理屈で殴られるのは単純な暴力よりたちが悪い。


「じゃあ、なんでそんなもの続けるんですか」

「他に方法がない時代だった」

「今もあるだろ、止めるって方法が」

「止めて消えたら意味がない」


 透は反射的に言い返した。


「でも払わなきゃ消える!」


 声が屋上に響いた。フェンスがかすかに震える。遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。夕方の街はいつも通りなのに、ここだけ空気が別だ。


 征士は少しだけ沈黙してから、透を真っすぐ見た。


「君に彼女を支払い続けられるのか」


 その問いは、風より冷たかった。


 透の喉が詰まる。


 払えるか、と聞かれれば、現時点では微妙だ。月額九百八十円で昼食を調整している高校生にとって、「ずっと」は重い。大学に行くなら金がいる。働くまでの時間もある。生活は広告みたいに「継続がおすすめ!」の一言では回らない。


 でも、だからといって。


「……払うつもりです」

「つもり」

「今は」

「今は、だろう」


 征士の言い方はいちいち痛いところを押してくる。整体なら名医だが、会話としては最悪だ。


「君が高校を卒業して、進学して、あるいは働いて、自分の生活を維持しながらなお払い続けられるのか。十年、二十年単位で」

「それは……」

「その間、雪乃の意思はどこにある?」

「父さん」


 雪乃が低く言った。


 制止だ。たぶん。だが征士は止まらない。


「守るというのは、継続することだけじゃない」

「じゃあ何なんですか」

「解放することだ」


 またその言葉だ。


 父親が愛していたから解約した、という話を聞いたときと同じ種類の、意味がわからない一言。


 透は眉をひそめる。


「わかりません」

「だろうな」

「だろうな、で済ませないでくださいよ」

「ではわかるように言おう」


 征士はコートのポケットからひとつの古い契約端末を取り出した。今の白い一般機ではない。少し青みがかった、旧式らしい端末だ。角ばっていて、見た目からして融通がきかなそうである。役所の備品顔だ。


「これは旧型の家族保護契約端末だ」

「名前からして嫌な予感しかしない」

「正しい感想だ」


 征士は端末を指でなぞった。


「昔は『守る』という名目で、多くの契約が家族間で結ばれた。親が子に、夫が妻に、時には逆もあった」

「気持ち悪い制度ですね」

「だから廃れた」

「廃れたのに残ってるじゃないですか」

「残っているから厄介なんだ」


 雪乃は黙っていた。視線だけが端末に落ちている。その顔は読めない。読めないが、好きな記憶ではないのだろうことはわかった。


 征士が続ける。


「私は雪乃を制度の内側へ置いた。そうしなければ、外で簡単に消される側だったからだ」

「それは……守ってる、かもしれないですけど」

「だが同時に縛っている」

「じゃあやっぱり支配じゃないですか」

「そうだと最初に言った」


 会話が一周している。しかも嫌な方向に完成度が高い。


 透は思わず頭をかいた。考えているときの癖だ。今日は朝から何度やったかわからない。


「結局、どうしろって言いたいんですか」

「君に選ばせたい」

「重い」

「君は今、『払って守る』ことだけを愛だと思っている」

「だって払わなきゃ」

「消えないよ。お前が覚えていれば」


 透は、息を止めた。


 屋上の風が遠のいた気がした。


 覚えていれば。


 その言葉は、変にまっすぐ胸へ入ってきた。


 母のアルバム。破れた契約書。写真の中の知らない父。記録としては残っていても、記憶としては薄れてしまったもの。逆に、記録がなくても覚えているなら残るもの。


「感情は制度で揺れる」

 征士は静かに言う。

「だが、選んだことまで制度は消せない」

「……それは」

「お前の父親も、そこに賭けたのかもしれん」


 透は言葉を失った。


 そこまで一気に繋げられると、頭が追いつかない。愛していたから解約した。守るために支払いを止める。覚えていることが愛になる。


 理屈として理解したわけではない。むしろまだ半分以上はわからないままだ。けれど、征士の言葉が単なる詭弁ではないことだけは、なんとなく伝わってくる。


 この男はたぶん、綺麗事を言うためにここへ来たわけではない。


 嫌な現実を、嫌なまま差し出しに来たのだ。


「じゃあ、父さんは」

 雪乃が初めて口を開いた。

「いつまで支払うつもりなの」

「お前次第だ」

「そういう言い方、ずるい」

「ずるいさ。親だからな」

「開き直るんだ」

「今さら善人の顔はせん」


 雪乃は少しだけ笑った。笑った、というより呆れた顔に近い。でもその表情は、教室で見る彼女よりずっと娘っぽかった。


 透はそれを見て、少しだけ混乱する。


 父親だ。


 ちゃんと嫌な父親だし、厄介な大人だし、制度の内側にいすぎて価値観がだいぶ壊れている感じもある。でも同時に、雪乃の父親であること自体は否定しようがない。会話の端々に、血縁の面倒くささみたいなものがちゃんとある。


 それが余計にややこしい。


「ひとつだけ確認したいです」

 透が言う。

「なんだ」

「俺が払い続けるって言ったら、どうするつもりでした」

「今はできない」

「今は、って」

「今の君は『払うこと』しか見ていない。支払えば守れると思っている」

「違うんですか」

「半分は正しい。半分は足りない」


 征士はそこで、端末をコートに戻した。


「今日はそれでいい。悩め」

「教育方針が雑すぎる」

「答えを先に与えると、若い人間はろくに育たん」

「今それ教育ターンなんですか?」

「親だからな」

「便利だなその立場!」


 思わず言い返した透に、征士は初めて少しだけ口元を緩めた。雪乃に似ている。似ているのが、少し腹立たしい。


 屋上を出るころには、空はかなり暗くなっていた。階段を下りる足音が、コンクリートの壁に反響する。古いビルの蛍光灯は一段ごとに明るさが違って、気分までまだらになる。こういうときに限って演出が細かい。


 外へ出ると、駅前のネオンがもう点いていた。店の看板、コンビニ、ドラッグストア、巨大ビジョン。どれもいつもと同じなのに、今日はやけに人工的に見える。街全体が契約で光っているみたいだった。


 雪乃が隣で言う。


「ごめん」

「何が」

「父さん、話し方あれだから」

「知ってたんだ」

「うん。昔から、必要なことしか言わない人」

「必要なことだけで人をへこませる才能あるな」

「あるね」

「否定しないんだ」

「否定できない」


 雪乃が少し笑う。その笑い方に、ほんのわずかに疲れが混じっていた。


「でも、言いたいことはわかる」

「雪乃も?」

「うん。たぶん父さんは、わたしを守りたい。でも守る方法がずっと下手」

「それはかなり感じた」

「でしょ」

「説明書なしで組み立てる家具みたいな親だな」

「最後にだいたい余るやつ」

「一番嫌なタイプだ」


 二人で少しだけ笑う。


 笑ったあと、透は黙った。頭の中では、征士の言葉が何度も鳴っていた。


 支払いは支配だ。


 消えないよ。お前が覚えていれば。


 払って守ることと、解放すること。


 どれも簡単には飲み込めない。けれど、もう「払う」だけでは足りない気がしている自分もいた。


 別れ道で雪乃が立ち止まる。


「明日も会える?」

「会うよ」

「そっか」


 その返事のあと、少しだけ間が空いた。何か言いかけて、やめた顔だ。


「なに」

「……なんでもない」

「そういうの今日多いな」

「今日はいっぱい言われたから、わたしも少し疲れた」

「それはわかる」


 透がそう答えたとき、ポケットの中でスマホが震えた。


 ピコン♪


 嫌なタイミングだった。こういうときの通知にろくなものはない。取り出して見る。画面には、あまり見たくない一文が表示されていた。


『残高不足。あと24時間で契約終了』


「……は?」


 透の声が夜道に落ちた。


 雪乃がすぐに画面を覗き込む。その顔色が、わずかに変わる。


「嘘」

「いや、こっちが言いたい」

「なんで」

「なんでって、俺も今知った!」


 昼食代を削って計算していたぶん、今月はぎりぎり持つはずだった。はずなのに、アプリは冷酷に「足りない」と告げている。どこで何が狂った。いや、たぶん手数料とか自動更新の何かとか、制度が妙に細かく吸っていったのだろう。最悪だ。こういうときだけシステムは働き者である。


 画面の上で、数字が静かに光っていた。


 あと24時間。


 のんびり哲学している場合ではなくなった。

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