第5回 あなたも、課金されてた
翌朝、宮下透は目覚ましより先にスマホを見た。
正確には、ほとんど寝ていなかったので「起きた」という表現が怪しい。夜中じゅう、頭の中ではひとつの表示が点滅していた。
『対象者:氷室雪乃 契約残日数3日』
三日。
牛乳の賞味期限みたいに言うな。もっとこう、重大さに見合った表示方法があるだろう。せめて赤字とか、警告音とか、いやそれも嫌だが、とにかく「へえ、あと三日なんだ」みたいなテンションで通知するのはやめてほしい。
布団の中で天井を見上げる。考えれば考えるほど意味がわからない。
雪乃が、対象者。
契約残日数がある。
つまり、誰かに契約されている側だ。
「……は?」
昨夜の自分と同じ感想が、朝になっても一字一句変わらず口から出た。成長がない。だが状況の方が複雑すぎるのだから仕方がない。
制服に着替え、洗面所で顔を洗いながらも考える。回収局の職員で、感情を回収する側の人間で、その本人が誰かに課金されている。制度の裏側が多重構造すぎる。恋愛に入れ子構造はいらない。
食卓に着くと、母がトーストを焼いていた。
「おはよう。今日も顔が重いね」
「最近、顔診断が雑じゃない?」
「だってわかりやすいんだもん」
「そんなに?」
「うん。今の透、食パンに人生相談しそうな顔してる」
「食パンに相談してもバターの染み方くらいしか答えてくれないだろ」
「でも今日は聞いてくれそう」
母は平和だ。こっちは人生観がどんどん重たくなっているのに、家の朝はいつも通り進んでいく。この落差が地味につらい。
学校へ向かう道で、駅前の大型ビジョンがいつものように笑っていた。
『恋も安心も、継続こそが価値!』
「うるさいな今日は特に」
思わず声が出た。隣を歩いていたサラリーマンにちらっと見られたが、見なかったことにした。だいたい悪いのは看板の方だ。
教室に入ると、田村が珍しく真面目な顔をしていた。と思ったら、机の上のスマホで動画を見ているだけだった。くだらない錯覚を起こさせるな。
「おはよう」
「おう。どうした、その世界の真実を知った顔」
「もうみんなそんな挨拶なの?」
「最近おまえ、毎朝違う暗さだから」
「暗さに種類がある言い方やめろ」
鞄を置く。すると前の席の雪乃が、少しだけ振り返った。
「おはよう」
「……おはよう」
いつもの声。いつもの顔。なのに今日は、そこに別のラベルが貼られて見えた。
対象者。
被契約者。
課金される側。
透の視線を読んだみたいに、雪乃が小さく言った。
「今日、放課後」
「うん」
「ちゃんと話す」
短い。だが十分だった。
その一言で透の心拍数だけが勝手に二倍速になる。こちらの内臓はもう少し落ち着いてほしい。教室で発表の順番が回ってくる前みたいな緊張が、朝からずっと続くのは体によくない。
一時間目から四時間目まで、透はほとんど上の空だった。数学教師が黒板に書いた「必要条件」「十分条件」という単語を見て、今の自分には「十分な説明」が圧倒的に足りていない、などとどうでもいいことを考える始末である。古文では「契り」という単語が出た瞬間に田村が横目でにやけてきたので、消しゴムを投げた。授業中にやるやつではない。
昼休み、田村が購買のカレーパンをちぎりながら言った。
「で、最近の進捗は」
「なんの」
「なんの、で逃げるタイプじゃないだろもう」
「自分でも何が進捗なのか分かってない」
「それは恋愛か仕事のどっちかだな」
「混ぜるな危険」
混ざっているのだ。むしろ危険物保管庫みたいな状態だ。
「氷室さんと、なんかあった?」
「なんか、はある」
「お、言った」
「でも説明が難しい」
「キスとかじゃない?」
「おまえはどうしてすぐ高校生の発想の最短ルートを走るんだ」
「だってその方がわかりやすいし」
「現実はもっと制度的で重い」
言ってから、自分で嫌になった。何だその感想。恋愛の話に「制度的で重い」って。担当編集でもそんなこと言わないだろ。
田村は「難儀だなあ」とだけ言ってカレーパンに戻った。こいつ、意外と追及しないときはしない。そのさじ加減は見習いたいが、普段のうるささが差し引きゼロにしている。
放課後。
雪乃に連れて行かれたのは、学校から少し離れた古い喫茶店だった。駅前の流行りのカフェではない。木製のドアに真鍮の取っ手、少し色の落ちたクリーム色の壁、窓辺には観葉植物。店内にはコーヒーの香りと、昭和からそのまま流れてきたみたいなジャズが漂っている。
「ここ、あるんだ」
「日本語が雑」
「いやだって、駅前の恋愛推し広告圏から外れた場所、まだ存在したんだなって」
「失礼だねこの街に」
「街の方が先に失礼だろ。自販機にまで『両想い応援』って書いてあるんだぞ」
雪乃が少しだけ笑う。笑えるならまだ大丈夫なのかもしれない、と透は勝手に思った。
窓際の席に向かい合って座る。メニューを開くと、そこには普通に「ブレンド」「ナポリタン」「ホットケーキ」が並んでいた。恋の二文字が一個もない。奇跡の店だ。
「すごい」
「何が」
「『運命のクリームソーダ』とかじゃない」
「その基準で感動しないで」
「だって最近、商品名まで恋愛に寄せられてて」
「わかるけど」
店員が水を置いていく。グラスに本物のレモンが浮いている。気遣いが昭和の喫茶店である。
注文は雪乃が紅茶、透がアイスコーヒーになった。苦いものを飲めば少しは頭もしゃんとするかと思ったが、今の状況でそんな期待は薄い。
飲み物が来るまでの短い沈黙が、妙に長く感じられた。
先に口を開いたのは雪乃だった。
「昨日、見たよね」
「……うん」
「わたしの通知」
「見えた」
「不可抗力だから責めてない」
「責められたら泣く」
「泣くんだ」
「状況が重すぎるから」
雪乃は少しだけ目を伏せ、それから真っすぐこちらを見た。
「わたしも、課金されてる」
「やっぱり」
「うん。被契約者」
「……それ、回収局の職員でもなるんだ」
「なる人もいる」
「なる人もいる、で流すには癖が強いな」
アイスコーヒーの氷がからんと鳴る。場違いなほど明るい音だった。
透は身を乗り出す。
「誰に?」
「まだそこから?」
「そこだろ普通」
「そうだけど」
雪乃は指先でカップの持ち手をなぞった。言いにくいのが見てわかる。いつもの迷いのない手つきではない。
「わたしが回収局に入る前、いろいろあって」
「いろいろ、便利だな」
「便利な言葉しか使いたくない日もあるの」
「……ごめん」
さすがに今のは余計だった。透が引っ込むと、雪乃は小さく首を振った。
「回収局って、内側にいる方が安全なの」
「安全?」
「外にいる被契約者は、支払いを止められたらすぐ切られる。制度のルール通りに」
「中にいれば違うのか」
「少しだけ猶予がある。監視下にも置けるし、例外処理も通しやすい」
さらっと言っているが、全然さらっとしていない。安全という単語の中身が重い。守るために制度の内側へ置く。檻の中が一番安全、みたいな理屈だ。
「つまり」
「つまり、わたしも制度にぶら下がってる側の人間」
「昨日、人の感情を回収してたやつが?」
「そう」
「構造が嫌すぎるな」
「でしょ」
そこで店員がホットケーキを運んできた。頼んでいない。と思ったら隣の席だった。甘い匂いだけこちらへ流れてくる。空気を読むなら今は運ばないでほしいが、喫茶店にそこまで求めるのは酷だろう。
透は深呼吸してから尋ねた。
「で、その契約が切れたら」
「わたしの感情も消える」
「……全部?」
「少なくとも、契約対象への恋愛感情は」
それはつまり。
透の喉が少し詰まる。
「俺への、も?」
「うん」
はっきり言われると、心臓が変な縮み方をする。嬉しいとか悲しいとか以前に、物理的にぎゅっとなる。人体ってもう少し大人だと思っていた。
「じゃあ今の気持ちも」
「誰かの支払いで維持されてるものかもしれない」
「かもしれない、って」
「本当のところは、わからない」
雪乃はそう言って、視線を窓の外へ逃がした。通りを自転車が一台通っていく。制服姿の中学生が笑いながら追いかける。平和だ。こっちは窓際で存在論を始めているのに。
「わたしの気持ちも、誰かが買ってるだけかも」
静かな声だった。
たぶん、冗談じゃない。弱音だ。雪乃がこういう言い方をするときは、大体本当に弱っている。透にもそれくらいは、少しずつわかってきた。
「そんな言い方すんなよ」
「でも事実としては近い」
「近くても」
「違うって言い切れる?」
「言い切る」
ほとんど反射だった。
雪乃が目を上げる。透はそのまま言った。
「それでも今の『好き』は本物だろ」
「……」
「制度がきっかけでも、支払いが絡んでても、今ここでおまえがそう思ってるなら、それは本物だろ」
「ずいぶん断言するね」
「しないと、今たぶん逃げるから」
自分で言って、自分で少し驚いた。こんなにまっすぐな台詞を自分が言う日が来るとは思わなかった。昨日までなら三回くらい照れて撤回していたはずだ。人は重い状況に追い詰められると、ときどき妙に真っ直ぐになる。
雪乃はしばらく何も言わなかった。
やがて、カップを両手で包むように持って、小さく息を吐く。
「……証明して」
透は瞬きをした。
「え」
「今の言葉」
「うん」
「行動で証明して」
「行動」
その二文字だけで急に難易度が上がった気がする。作文から実技へ移行した感じだ。やめてくれ。男子高校生に急な実技試験は荷が重い。
「どうやって」
「それを考えるのは宮下くん」
「丸投げだな」
「招待だよ」
「言い換えがおしゃれなだけで内容は重い」
雪乃はそこで、少しだけ笑った。ほんの少し。さっきまでの沈んだ表情が、わずかに緩む。
透はその顔を見て、思ったよりずっと焦っている自分に気づいた。
三日。
残日数三日。
のんびり「証明の方法」なんて考えている時間はない。期限付きなのだ、この問題には。恋愛にもレポート提出にも締切があるのは知っていたが、さすがにヒロインの感情消失カウントダウンは想定外である。
「その支払ってるやつ、誰なんだ」
「……知らない」
「知らない?」
「契約情報は一部伏せられてる」
「なんで当事者に伏せるんだよ」
「制度だから」
「またその万能最悪ワード」
透はテーブルに突っ伏したい衝動をこらえた。喫茶店の木目に額を押しつけても問題は解決しない。
「でも、探せる方法はある」
「あるのか」
「正規ルートじゃないけど」
「裏ルートってやつ?」
「そう」
雪乃の口から「裏ルート」が出てくると、急に漫画みたいで嫌だ。だが事実らしいので笑えない。
「被契約者情報の照合記録、支払い代行端末の履歴、回収局内部の監査ログ」
「単語の治安が悪い」
「全部ちゃんと実在するよ」
「してほしくなかったなあ」
それでも方法があるなら、掴みたい。
透はアイスコーヒーを一気に飲んだ。苦い。だがちょっとだけ頭が冴えた気がする。たぶん気のせいだが、気のせいでも今は欲しい。
「探す」
「即答なんだ」
「三日しかないんだろ」
「そうだけど」
「じゃあ動くしかない」
雪乃は少しだけ困ったような、でも嬉しそうな、よくわからない顔をした。
「宮下くん、そういうとこ、ばか」
「最近それ悪口として機能してないぞ」
「便利だから使ってる」
「便利な言葉、多いな」
店を出たとき、外はもう夕方の色に変わっていた。駅前方面へ歩くと、いつもの看板群が見えてくる。美容院の前に「恋愛運アップヘア」、雑貨屋に「想いが届く文具特集」、たこ焼き屋にまで「カップル来店で一舟増量」。増量の圧がすごい。
「この街、やっぱり頭おかしい」
「今さら?」
「今までは景色だったけど、今日は敵に見える」
「敵、なんだ」
「制度丸ごと敵寄りだろ、もう」
透が言うと、雪乃は歩きながら少しだけ目を細めた。夕方の光がその横顔を淡く照らす。
「じゃあ、味方になってよ」
「もうなってるつもり」
「じゃあ証明して」
「だからそのループやめろ。こっちのライフが減る」
駅前の交差点で人波に止められる。向かいのビルの大型ビジョンでは、恋愛感情サブスクの新CMが流れていた。柔らかい声の女優が「あなたの『好き』、守れていますか?」と問いかける。
透は思わず空を仰いだ。
「うるさい」
「今日は特に刺さるね」
「刺さるっていうか煽られてる」
「広告に負けないで」
「広告と戦う高校生、字面が嫌すぎる」
信号が変わる。歩き出す。
別れ道の少し手前で、雪乃が立ち止まった。
「裏ルート、わたしも少し当たってみる」
「危なくないのか」
「危ないよ」
「笑顔で言うなよ」
「笑ってない」
「ちょっと笑ってる」
「気のせい」
気のせいではないが、今はそれ以上言わなかった。
「明日、情報持ち寄ろう」
「うん」
「見つけるぞ」
「……うん」
雪乃の返事は小さかったが、たしかだった。
その夜、透は部屋でスマホとノートと睨み合っていた。検索窓には「恋愛感情契約 支払者照会 裏」と入れたが、出てくるのは当然のように公式の注意喚起ばかりだ。
『不正照会は法律で禁止されています』
『被契約者情報の不正取得は重い罰則の対象です』
『あなたの恋を守るため、正しい手続きを』
「守れてねえだろ今まさに」
独り言が増える。増えるとだいたい煮詰まっている証拠だ。
ノートの端に書く。
『支払者を探す』
『雪乃の契約を維持する』
『逆課金?』
『どうやる?』
逆課金、という単語の胡散臭さがすごい。通販の裏技広告みたいだ。でも今欲しいのはまさにそういう道だ。雪乃を守るために、誰かが握っている支払い権限をひっくり返す方法。
窓の外では、近所のコンビニ看板が光っていた。そのガラスに小さく貼られたステッカーにも「更新でポイント三倍」の文字。もう何を見ても腹が立つ。制度に追い詰められた男の末路としてあまりにも小さい怒りだが、ないよりはましだ。
スマホが震えた。雪乃からだ。
『ひとつ、わかった』
透はすぐに開いた。
『支払者名義、古い家族登録の可能性が高い』
家族登録。
胸がざわつく。雪乃の家族。父か母か。そう考えた瞬間、もう答えが出そうな気がした。だが決めつけるにはまだ早い。
『誰?』
打つ。既読がつく。数秒。長い。氷が溶ける音すら聞こえそうな待ち時間のあと、返信が来た。
『名前、出た』
さらに一拍。
『氷室征士』
知らない名前なのに、嫌な予感だけははっきりした。
次のメッセージが、すぐ続く。
『わたしの父親』




