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第4回 母が忘れた人の話



 翌朝、宮下透は自分のスマホを二度見した。


 一度目は寝ぼけ眼で、二度目は完全に目が覚めた状態で。どちらで見ても、通知欄の文面は変わらなかった。


『案件資料更新:宮下家・過去案件』


 夢じゃない。


 嫌すぎる現実だけが、朝から律儀に継続されていた。


「なんでうちの名字が通知に出てくるんだよ……」


 枕元に置いたスマホへ小声で文句を言っても、当然ながら返事はない。代わりに、契約アプリのアイコンだけが妙に平然としている。昨日あれだけ人の情緒を揺らしておいて、この無表情さ。おまえは感情を扱う資格が本当にあるのか。


 制服に着替えながらも、頭の中では昨夜の通知がぐるぐる回っていた。宮下家。過去案件。家ってことは、父か母か、自分か。いや自分の「過去案件」はまだ高校二年の人生には早い。消去法で両親だが、それも嫌だ。実家の冷蔵庫の残り物一覧みたいな気軽さで案件化するな。


 食卓に行くと、母が味噌汁をよそっていた。


「おはよう。今日ちょっと顔こわいね」

「そう?」

「うん。納豆に親を殺された人みたい」

「例えの角度が特殊すぎる」


 納豆は好きだ。今はそんな話ではない。


 テーブルの向こうで、母はいつも通りだった。エプロン姿で、髪をゆるくまとめて、朝の情報番組に適当に相槌を打ちながら味噌汁をすすっている。画面の中では芸能人が「春の恋愛運アップスポット特集」で神社を巡っていた。なんでも恋に絡めるな、この国。


 透は母の横顔を見た。


 父の話をするとき、この人はどういう顔をするんだろう。


 いや、正確には、父の話をしたことがあっただろうか。幼いころに一度くらいは聞いたかもしれないが、少なくとも最近の透の記憶にはない。写真立てに入った家族写真も、気づけば父だけ写っていない構図のものばかりだった。


「母さん」

「なに?」

「……いや、なんでもない」


 言えなかった。朝食の味噌汁と納豆の間に差し込むには、重すぎる話題だ。


 学校へ向かう道すがら、駅前の大型ビジョンが今日も元気だった。


『想いは続けることに意味がある!』


 言いたいことはわかる。わかるが、今日に限っては妙に喧嘩腰に聞こえる。


 教室では田村がメロンパンを食べていた。今日は牛乳がなく、代わりに紙パックの野菜ジュースだった。健康を気にし始めたのかもしれない。昨日まで砂糖の権化みたいな飲み物を愛していたくせに。


「おはよう、暗い」

「挨拶が失礼すぎる」

「で、なんかあった?」

「おまえはもう占い師になれ」

「クラス限定でやっていこうかな」


 田村の雑な観察眼から逃げるように席へ向かう。すると前の席の雪乃が、珍しく透の方を見たまま待っていた。


「おはよう」

「……おはよう」

「今日、放課後。時間ちょうだい」

「やっぱりその話?」

「その話」


 声が少しだけ低い。


 田村が横から気配だけで興奮しているのがわかった。振り返らなくてもわかる。今こいつの脳内では、学園ラブコメの好機を知らせるファンファーレが鳴っているはずだ。


「職員室前で待ってる」

「職員室前?」

「人目がある方がいいでしょ」

「その言い方だと逆に怖い」

「正しい感想」


 雪乃はそれだけ言って前を向いた。こちらの不安だけをきっちり育てる会話設計が上手すぎる。転校生二日目で身につく技術ではない。


 その日の授業は、黒板の文字がやたらと滑った。先生たちは平常運転で、数学教師は今日も今日とて「ここ試験に出るぞ」を七回言い、古文教師はなぜか助動詞に人格を感じていたが、透の頭には半分も入ってこない。ノートには途中から数字ではなく、「宮下家」「父」「案件」という単語ばかりが増えていた。受験生が見たら怒るノートだ。


 放課後、職員室前に行くと雪乃がもう待っていた。


 昼間の教室では静かな転校生だった彼女が、今は別の顔をしている。学校という舞台から少し離れただけで、輪郭の鋭さが増すのはなんなんだろう。人は場所でこんなに変わるものなのか。いや、変わるのではなく、もともと複数の顔があるのかもしれない。


「行こう」

「今日はどこ」

「資料室」


 学校のではなく、という言外の圧がすごい。


 連れて行かれたのは、駅前から少し外れた古い雑居ビルの三階だった。表札は出ていない。エレベーターはなく、階段は狭く、踊り場には「禁煙」と「恋愛相談承ります」のシールがなぜか並んで貼ってある。雑然としすぎて逆に怖い。


「ここ、何」

「回収局の外部資料保管室」

「もっとそれっぽい名前なかったのか」

「それっぽくない方が都合いいの」

「制度の裏側、だいぶ俗っぽいな」


 中は予想外に普通だった。蛍光灯、スチール棚、古い机、書類の山。役所の倉庫と個人塾の事務室を足して二で割ったみたいな空間だ。壁際には古い契約端末が並び、起動していないのに存在感だけはある。どれも白ではなく、少し青みがかった灰色。昨日公園で見た回収用の端末と同じ系統だ。


「座って」

「この状況で落ち着いて座れる高校生、そう多くないと思う」

「宮下くんなら座れる」

「評価が雑」


 雪乃は机の引き出しから分厚いファイルを一冊取り出した。


 表紙には、無機質なフォントでこう印字されている。


『宮下家・過去案件』


 見間違いではなかった。


 透の喉が鳴る。乾いていた。


「これ、なに」

「見ればわかる」

「今日ずっとそれだな」

「便利だから」


 便利な言葉ほどろくでもない。昨日から何度も学んでいる。


 雪乃がファイルを開いた。中にはコピーされた契約書、支払い履歴、回収報告、面談記録らしき紙が整然と綴じられている。整然としているのが逆に嫌だ。人の人生がこんなに事務的に並べられていいのか。


「……透くんのお父さん、昔、お母さんとの感情契約を結んでた」

「昔って」

「十年以上前」

「父さんと、母さんが?」


 当然だが、夫婦ならそういう可能性はある。あるが、実際に紙の記録として突きつけられると、急に生々しい。親にも若いころがあったのは知っているのに、そこへ制度が絡むと一気に気まずい。


「で、これが支払い履歴」

「うわ、見たくない家計の一部だな」

「気持ちはわかるけど見て」

「容赦ないな」


 ページをめくる。月ごとの支払い。継続。継続。継続。何年も続いている。普通に長い。思っていたよりずっと長くて、透は少し驚いた。広告で見る軽いプランの延長みたいなものじゃない。誰かが、誰かのために、ずっと払い続けていた記録だ。


 けれど最後のページで、その流れが唐突に切れていた。


『契約者本人による自主解約申請 受理』


 透は文字を見つめた。


「……解約?」

「うん」

「未払いじゃなくて?」

「自分で止めた」


 透の頭の中で、昨日の公園の低い電子音が鳴った気がした。


「なんで」

「そこまでは記録上、明記されてない」

「なんで父さんが、そんなこと」

「だから今から、その話をする」


 雪乃は机の端に置かれていた薄い封筒を取り出した。中から出てきたのは、色あせた写真だった。アルバムから抜いたようなL判サイズ。若い母が笑っている。隣に背の高い男が立っている。顔は光の反射で少し見えにくいが、たぶん父だ。


「これ、実家のアルバムにあったのと同じ時期の写真」

「なんでそれを回収局が持ってるんだよ」

「添付資料」

「制度、そういうところだけ異常に几帳面だな」


 言いながら、透は写真を見た。若い母は今より少し幼く見える。楽しそうだ。少なくとも、その時点で父の存在はたしかに母の隣にあった。


「お母さん、今はお父さんのことを覚えてない」

「……は?」


 透は反射的に顔を上げた。


「何言って」

「そのままの意味」

「いや、だって、離婚とかそういう」

「違う。感情契約の終了と、その後の処理で、関連記憶がかなり薄れてる」


 かなり薄れてる。


 便利な言い換えだ。あまりにも便利で残酷だ。


「まって。母さんが父さんを……忘れてる?」

「完全に全部じゃない。でも名前も顔も、生活の実感も、かなり曖昧になってるはず」

「そんなの……」


 そんなの、ありなのか。


 透は思わず笑いそうになった。笑いではなく、現実感のなさに喉が変なふうに震えただけだ。


 忘れてる?


 毎朝、味噌汁を作って、洗濯物に文句を言って、透の成績表にため息をついているあの母が、自分の夫だった人のことをほとんど覚えていない?


 家族なのに?


「確認したいなら、今日聞いて」

「聞けるわけないだろ」

「でも知りたいんでしょ」

「……知りたいよ」


 声が少し荒くなる。


 雪乃は怒らなかった。むしろ少しだけ疲れたような顔で、ファイルの別のページを開いた。


「宮下くんのお父さんは、自分で解約申請を出した」

「それはさっき聞いた」

「うん。だから未払いで奪われたわけじゃない」

「余計わかんないって」

「わたしも全部はわからない。でも」


 雪乃が、記録欄の一文を指差した。


『契約者は、被契約者の今後の生活安定を最優先とする旨を発言』


「生活安定?」

「たぶん、経済的な事情もあったんだと思う」

「だからって解約?」

「愛してたからだよ、たぶん」


 透は、きっぱり眉をひそめた。


「意味わかんない」


 自分でも驚くくらい、読者代表みたいな返事が口から出た。


 愛してたから解約?


 文章として並んでいるのは読める。でも意味は入ってこない。愛してるなら続けるだろ。払うだろ。守るだろ。そうじゃないのか。


「意味わかんないよ、そんなの」

「うん」

「好きなら手放さないだろ」

「そう思うよね」

「思うだろ普通!」


 透の声が倉庫じみた部屋に少し響いた。蛍光灯が微妙にチカつく。こんな空気の演出は頼んでいない。


 雪乃はしばらく黙っていたが、やがてファイルを閉じた。


「……ごめん」

「なんで雪乃が謝るんだよ」

「こういう記録を見せるの、仕事では慣れてるはずなのに」

「はず?」

「今日は、あんまり慣れてない」


 声が揺れた。


 見れば、雪乃の指先が少しだけ震えていた。いつも端末を迷いなく操作する手が、今は紙の端をうまく押さえられていない。


「わたし、この仕事で何人の『あなた』を作ってきたんだろう」


 透は一瞬、意味がわからなかった。


 でも次の瞬間、理解してしまった。


 父や母や恋人や、大事な誰かを失った人。記憶の穴の前で立ち尽くす人。訳のわからない書類の前で「なんで」と言うしかなくなる人。そういう「あなた」を、雪乃は何度も見てきたのだ。


 そして、何度も作ってきた。


 雪乃の目から、ひと粒だけ涙が落ちた。


 透は固まった。


 泣くとは思わなかった。少なくとも、この仕事モードの雪乃は泣かない生き物だと思っていた。淡々として、静かで、回収人として完成している人間だと。


 違った。


 完成なんてしていなかった。


「……おい」

「見ないで」

「それは無理だろ」

「職務上、すごく格好悪いから」

「職務上ってなんだよ……」


 変な言い回しなのに、胸が苦しくなる。


 雪乃は雑に涙を拭ったが、うまくいかなかった。むしろ少し増えた。泣き顔まで器用じゃないらしい。そこにだけ妙な人間味があって、透は困った。


 どうすればいいのかわからない。ハンカチを出すべきか。でも男子高校生のポケットにはだいたい丸まったティッシュしか入っていない。しかも今日は昨日のパンの袋の切れ端まで入っている。最悪だ。


 透は結局、近くにあった安い紙コップの箱からひとつ取り出し、自販機の水を注いで差し出した。


「ほら」

「……なにこれ」

「泣いたあとに水分は大事かなって」

「発想が保健室」

「うるさい」


 雪乃は少しだけ困ったように笑って、紙コップを受け取った。泣いているのに笑うな。こっちの感情が渋滞する。


 その日の帰り、透は実家の押し入れから古いアルバムを引っ張り出した。


 母は洗濯物を畳みながら、「急にどうしたの」と聞いたが、「昔の写真見たくなって」と答えたら案外あっさり通った。人は突然ノスタルジーに襲われるものだから、そこは不自然ではなかったらしい。


 アルバムの最後の方に、問題の時代の写真があった。


 若い母。知らない男。たぶん父。


 そして、そのページの端に、妙な紙片が挟まっている。


 取り出す。契約書の切れ端だった。名前の一部と日付だけが残っている。雑に破られた跡。誰かがわざと残したようにも、わざと消したようにも見える。


 透がそれを持ったまま居間へ行くと、母はソファでテレビを見ていた。ちょうどCMが流れていて、「今なら更新ポイント二倍!」と元気なナレーションが叫んでいる。今日に限って全部が嫌味だ。


「母さん」

「うん?」

「この人、誰」


 写真を差し出す。


 母はそれを受け取り、しばらく見つめた。笑うでもなく、驚くでもなく、ただ少しだけ目を細める。


「……誰だろ」

「え」

「知ってる気はするんだけどね」


 透の背中が冷えた。


「名前は?」

「……思い出せない」

「一緒に写ってるのに?」

「そうだねえ」


 母は本当に困ったように笑った。困っているのはこっちだ。


 記憶喪失みたいな劇的さはない。ただ、生活の中から少しずつすり減って、どこかへいってしまった感じ。だから余計に現実味がある。病院の診断名ではなく、制度の副作用としてそこにある欠落。


 透は何も言えなくなった。


 写真の中の男は、若い母の隣でちゃんと笑っている。そこにいたのに、今はいない。物理的にだけではなく、記憶の中からも薄くなっている。


 愛してたから解約した。


 意味わかんない。


 でも、意味わかんないまま、現実だけは目の前にある。


 その夜、雪乃から短いメッセージが来た。


『ごめん。今日は、ありがとう』


 透はすぐには返せなかった。


 ありがとうと言われるようなことをした覚えはない。ただ、水を渡しただけだ。しかも紙コップで。気の利いた恋愛小説ならハンカチくらい出すところだろうが、現実の男子高校生のポケット事情はもっと貧しい。


 ようやく打った返信は、短かった。


『こっちこそ』


 何に対しての「こっちこそ」なのか、自分でもわからないまま送る。


 そのとき、雪乃のスマホが震えた。既読がつくより一瞬早く、通話アプリの向こうで通知音が鳴ったのが聞こえた。偶然、通話ボタンに触れてしまって繋がりかけたらしい。すぐ切れたが、その一瞬で表示だけが見えた。


『対象者:氷室雪乃 契約残日数3日』


 透は、息を止めた。

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