第3回 回収人は微笑まない
翌朝、宮下透は目覚ましより先に起きた。
正確には、眠りが浅すぎて目覚ましに起こされる前に目が開いた。原因ははっきりしている。昨夜のメッセージだ。
『明日、本当のわたしを見せるね』
本当のわたし。
いまだに意味がわからない。夜のテンションで送った詩的な一文だったのかもしれないし、実は隠れギャルでした、みたいな軽いやつかもしれないし、突然バンジージャンプに誘われる可能性もゼロではない。なぜゼロじゃないのかは知らないが、とにかく高校生男子の想像力に優しい文面ではなかった。
布団の中で三十分ほど転がった末、透は諦めて起き上がった。洗面所で顔を洗い、鏡を見る。寝ぐせがひどい。これが本当のわたしです、と言われたら一番つらいのはこういう状態だと思う。
食卓では母がトーストを焼いていた。
「今日は早いね」
「ちょっと寝つき悪くて」
「珍しい。恋でもしてるの?」
「してない」
反射で否定したが、否定の速度が速すぎて逆に怪しかったらしく、母は妙に意味ありげな笑みを浮かべた。やめてほしい。その顔は高校生男子の平穏な朝に向いていない。
登校途中も落ち着かなかった。駅前の広告は相変わらずだった。大型ビジョンのカップルは今日も完璧に笑い、「あなたの恋、更新し忘れていませんか?」と問いかけてくる。朝から脅すな。公共広告の顔をした圧力だろそれ。
教室に入ると、田村がもう席についていた。今日はココア。牛乳系統を制覇する気か。
「おはよう、寝不足」
「顔でわかる?」
「わかる。あと『昨日なにかあった顔』もしてる」
「顔でそこまでわかるの嫌すぎるな」
「で、あったんだ」
「誘導尋問が雑なんだよ」
透が鞄を置く。すると前の席の雪乃が、ちょうど振り返った。
「おはよう、宮下くん」
「……おはよう」
普通に言えた。今日はちゃんと一回で起動した。
雪乃はいつも通り涼しい顔をしている。昨夜あんな意味深メッセージを送ってきた人間には見えない。こっちは受信してから三十回くらい脳内会議したのに、送った本人は爽やかな朝の顔をしている。理不尽だ。
「昨日、ちゃんと眠れた?」
「それ聞く?」
「聞くよ」
「……あんまり」
「そっか」
雪乃は小さく笑って、また前を向いた。
説明しろ。せめて少しは説明しろ。
一時間目から四時間目まで、透は授業の内容をほとんど覚えていなかった。英語の長文の主人公がどこへ留学したのかも、数学の先生が何にキレていたのかも、歴史の小テストでなぜ聖徳太子が選択肢の三つに増殖していたのかも、全部あやふやだ。
頭の中は昨夜の文面と、前の席の黒髪でいっぱいだった。
昼休み、田村がパンの袋を開けながら言った。
「で、結局なんだったの。氷室さんと」
「なんでもない」
「なんでもない顔じゃない」
「顔の観察やめろ」
「いやでもさ、おまえ今、教科書めくるたびに『本当のわたし……』って顔してる」
「そんな具体的な顔ある?」
あるらしい。田村はうなずいた。腹立つ。
そのとき、雪乃が立ち上がってこちらを見た。
「宮下くん、今日の放課後、ちょっと来て」
「え」
「昨日言ったでしょ」
「それは覚えてるけど」
「見せるから。本当のわたし」
言い方。
田村のパンが床に落ちた。
「ちょっ」
「お、おれ席外すわ!」
「なんでおまえが動揺してるんだよ!」
「だって今の言い回し、情報量の配分がおかしいだろ!」
その通りだった。クラスの数人までこっちを見たので、透は反射的に机に突っ伏した。やめてくれ。人前で核心だけ置いていくな。
雪乃はそんな騒ぎなど気にした様子もなく、「じゃあ昇降口で」とだけ言って、自分の弁当に戻った。肝が据わりすぎている。
放課後。
昇降口で待っていた雪乃は、朝と同じ顔をしていた。少なくとも角や羽は生えていない。安心していいのかどうか微妙なラインだ。
「行こっか」
「どこに」
「見ればわかる」
その「見ればわかる」が一番怖いんだよなあ、と思いながらも、透はついていくしかなかった。
学校を出て、駅前とは反対方向へ歩く。商店街の賑やかさを抜け、住宅街を抜け、さらに細い道へ入る。周囲の建物は徐々に背が低くなり、看板も減り、人通りも少なくなる。春の夕方の光だけが道を斜めに照らしていた。
「こんなとこあったんだ」
「あるよ」
「転校して二日目の人の方が詳しいの、なんか負けた気がする」
「案内慣れてるから」
「その言い方も若干怖い」
五分ほど歩いた先に、小さな公園があった。錆びたブランコ、色の薄くなった滑り台、ベンチが二つ。子どもの声はなく、かわりにカラスがやたらと偉そうに鳴いている。
そのベンチに、若い男がひとり座っていた。
スーツ姿。ネクタイはゆるく、髪は少し乱れている。年齢は二十代後半くらいだろうか。膝の上にはコンビニ袋。足元には空になった缶コーヒー。仕事帰りに疲れ切って座り込んだ人、という見た目だった。
雪乃はその男の前で立ち止まった。
「こんばんは」
声の温度が、一段下がった。
男が顔を上げる。目の下にうっすら隈があった。雪乃を見た瞬間、その顔色が少し変わる。
「……来たのか」
「本日が最終猶予日です」
「わかってる」
「未納額の確認をお願いします」
雪乃が鞄から薄い端末を取り出した。
透は一瞬、何を見せられているのかわからなかった。学校では見たことのない端末だった。色が違う。一般向けの契約端末が白いのに対して、それは青みがかった灰色で、角ばっていて、妙に無機質だ。
「え、なにそれ」
「言ったでしょ。本当のわたしを見せるって」
「いや、説明が」
「宮下くん、少し下がってて」
雪乃はそう言ってから、男に向き直った。
「恋愛感情契約法第十二条に基づき、未払い契約対象の感情回収手続きを執行します」
風が止まった気がした。
公園の空気が、昼までの学校のそれとは別物になる。さっきまでどこか遠くで聞こえていた犬の鳴き声まで、急に遠ざかったようだった。
「……は?」
透の口から間抜けな声が出る。
男は乾いた笑いを漏らした。
「だよな。高校生には刺激強いか」
「支払いの意思は確認できませんでした」
「金がないんだよ」
「分割申請の期限も過ぎています」
「だから、ないんだって」
会話は静かなのに、殴り合いよりよほど痛そうだった。
男は乱暴に頭をかいた。
「別に、もういいよ」
「契約相手への最終メッセージ記録は残しますか」
「……残さない」
「確認します。未練はありませんか」
「そんな質問、今するか普通」
男は笑った。笑ったが、その顔は全然笑っていなかった。
透は一歩前に出る。
「ちょ、待って。何してるんだよ」
「回収業務」
「回収って」
「未払い者の感情を強制消去する」
雪乃は振り返らなかった。
その背中だけが、やけに遠く感じた。
「わたし、恋愛感情回収局の職員なの」
言葉の意味が、少し遅れて頭に落ちてきた。
職員。
回収局。
感情を、消す。
駅前の広告や学校のパンフレットの、やけに整った説明文の裏側にあるもの。制度を運用する人間。払えなくなったとき、通知の向こう側からやってくる存在。
雪乃が、そこに属している。
「……うそだろ」
「ほんとだよ」
声だけは、妙に静かだった。
男がベンチから立ち上がる。背筋を伸ばそうとして、でも少しだけ失敗する。疲れた大人の立ち方だった。
「最後に一個だけ、聞いていい?」
「規定範囲内なら」
「その言い方、ほんと役所っぽいな」
男は苦笑して、それから小さく息を吐いた。
「……あいつ、幸せだった?」
雪乃の指先が、ほんのわずかに止まった。
「契約期間中の満足度平均は、基準値を上回っていました」
「そっか」
「それ以上の個別感想は開示できません」
「十分」
男は目を閉じた。
青白い光が端末の先にともる。
透は思わず叫んでいた。
「やめろ!」
でも、止まらなかった。
低い電子音が、公園の空気を震わせる。
昨日までの「ピコン♪」とは全然違う音だった。軽さも愛嬌もない。判決みたいな、終わりだけを知らせる低音。
男の体が小さく揺れる。苦しむほどではない。叫びもしない。ただ、何かをひとつ、静かに失った人の顔になった。
雪乃が端末を下ろす。
「執行完了しました」
男は数秒、ぼんやりと前を見ていた。それからゆっくり瞬きをして、首をかしげる。
「……あれ、俺、なんでここに」
透の喉がひりついた。
男は足元のコンビニ袋を見て、「あ、缶コーヒー買ってたんだっけ」とどうでもよさそうに呟いた。そして雪乃にも透にもほとんど関心を示さないまま、公園を出ていった。仕事帰りに少し休んで、帰るだけの人みたいに。
その背中が見えなくなるまで、透は動けなかった。
信じられなかった。
いや、制度として知ってはいた。未払いなら契約が切れる、感情が消える、それくらいの知識はある。けれど知識と現場は違う。広告の優しいフォントと、実際に誰かの中から何かが抜け落ちる瞬間は、まるで別の世界の出来事だった。
「……これが」
「うん」
「これが、おまえの仕事?」
「そう」
雪乃は端末を鞄に戻した。手つきに迷いがない。慣れている人間の動きだった。
そのことが、透の胸に刺さった。
「言ってくれなかった」
「言ったら、たぶん今みたいな顔したでしょ」
「するだろ!」
声が少し裏返った。公園のカラスがびっくりして飛んだ。空気読め、おまえら。
「おまえ、あの人のこと……」
「仕事だから」
「仕事だからって、そんな」
「そんな、なに?」
雪乃が初めて振り返る。
夕方の光の中で、その顔はやけに白く見えた。綺麗で、冷たくて、どこにも逃げ道がない。
「わたしは敵かもしれないよ」
静かな声だった。
でも、真正面から殴られたみたいに響いた。
透は何も言えなかった。言葉が出てこない。公園のブランコが風で少し揺れて、きい、と嫌な音を立てる。そういう効果音だけは、今日に限ってやたら仕事熱心だった。
「怖かった?」
「……怖いよ」
「そうだよね」
「でも」
でも、で止まる。
怖い。実際に怖かった。雪乃が知らない誰かの感情を、端末ひとつで消したことも。あの低い電子音も。終わったあと、男の表情からごっそり何かが抜け落ちたことも。
全部、ちゃんと怖い。
なのに。
目の前にいる雪乃まで、そこで切り離したくないと思ってしまった。
それがいちばん厄介だった。
「でも、だからって」
透はポケットからスマホを取り出した。手が少し震えていた。自分でも何をする気なのか、半分は勢いだった。
画面を開く。契約アプリ。トライアル残り四日。下には、やけに明るい色の「有料契約へ更新」ボタン。
こんなタイミングで薦めてくるな。空気を読めアプリ。
「宮下くん」
「それでも払う」
押した。
自分でも驚くほど、指は迷わなかった。
確認画面。月額九百八十円。高校生の財布には地味に痛い数字が、今だけやけに潔く見えた。認証。読み込み。処理中。心臓に悪い回転マークのあと、画面に表示される。
『有料契約へ更新しました』
同時に、スマホが鳴る。
ピコン♪
昨日までと同じ音のはずなのに、今は少しだけ重く聞こえた。
雪乃が目を見開く。
「なんで」
「なんでって」
「今、見たでしょ」
「見た」
「それでも?」
「それでも」
自分でも無茶だと思う。説明として全然足りていない。でも今はそれしか言えなかった。
雪乃は数秒、黙っていた。
そして、ほんの少しだけ眉を寄せる。
「……ばか」
低くて、呆れたみたいな声だった。
なのにその言葉だけ、不思議なくらいやわらかかった。
さっきまで職員の顔をしていた雪乃が、一瞬だけ学校にいるときの雪乃に戻ったように見えた。いや、たぶん違う。学校の彼女とも、回収人の彼女とも少し違う、もっと素の表情だった。
透はそこで初めて、自分がとんでもないことをした実感に襲われた。
月額九百八十円。昼食の格がたぶん下がる。ジュースはしばらく敵になる。田村からの買い食いの誘いも断ることになる。高校生としてはわりと重大な決断だ。
だが不思議と後悔はなかった。
「おまえさ」
「なに」
「最初から、その仕事のために俺に近づいた?」
「……業務上のことは言えない」
「それ、ずるい答え方だな」
「公務員っぽいでしょ」
「そこだけユーモア出すなよ」
透が言うと、雪乃は少しだけ肩を揺らした。笑ったのかもしれない。本当に少しだけだったけれど。
公園を出るころには、空はだいぶ暗くなっていた。住宅街の窓に灯りが点き始め、遠くで夕飯の匂いがした。こういうときだけ日常はちゃんと日常の顔をしてくる。さっき誰かの感情が消えたことなんて、世界のどこにも書かれていないみたいに。
別れ道で、雪乃が足を止めた。
「今日のこと、もう会わない理由にしてもいいから」
「しない」
「即答なんだ」
「したくないし」
「……そっか」
雪乃は一瞬だけ視線を落とし、それからいつもの調子で言った。
「じゃあまた明日」
「うん」
彼女が去っていく背中を見送りながら、透はスマホを握り直した。更新完了の画面はもう消えている。代わりにホーム画面の上に、小さな通知がひとつだけ残っていた。
『有料契約開始中』
たったそれだけの表示なのに、昨日までよりずっと現実感があった。
帰宅して部屋に入ると、透は制服のままベッドに倒れ込んだ。頭の中で今日の光景が何度も再生される。青白い光。低い電子音。忘れた顔。雪乃の「敵かもしれないよ」。そして「ばか」。
どれも重い。重いのに、最後のひとことだけ妙に反芻してしまう自分が少し嫌だった。
「ばかって……」
そこだけ切り取ると青春なのに、前後が重すぎる。感情のジェットコースターにもほどがある。
スマホが震えた。反射で開く。アプリ通知かと思ったが違った。広告メールだ。
『更新ありがとうございます! 継続者限定・思い出保存機能のご案内』
「今じゃないだろ……」
タイミングの悪さに思わず声が出た。
メールを閉じようとして、画面上部に別の通知が出ていることに気づく。見慣れない番号の内部連絡らしきプレビューだった。たぶん、さっき雪乃の近くにいたせいで一瞬同期でもしたのか、ほんの数文字だけ表示されてすぐ消える。
『案件資料更新:宮下家・過去案件』
透は固まった。
「……宮下家?」
自分の名字だった。
聞き間違いでも見間違いでもない。短い表示だったが、確かにそう書いてあった。
胸の奥が、嫌な音を立てた気がした。




