第2回 好きの値段、見えますか
無料トライアル二日目の朝、宮下透は自分のスマホを三回見て、三回とも同じ通知を確認した。
『無料期間終了まであと5日』
知ってる。
さっき見た。歯磨きしながら見たし、制服のボタンを留めながらも見た。なのに登校途中でまた見てしまう。通知ひとつで人間の生活リズムをこんなに乱せるのなら、この制度はもう半分呪いだと思う。
駅前の電光掲示板では今日も笑顔のカップルが「恋の継続率、今月は前年比12%アップ!」と誇らしげに宣言していた。誰がその統計で元気になるんだ。恋愛を家電の省エネ性能みたいに語るな。
透はため息をつき、改札を抜ける。すると、前方で同じ制服の男子二人が真顔で言い争っていた。
「だからさ、ライトプランだと記念日演出が弱いんだって」
「いや、おれは演出より安定性重視なんだよ」
「恋愛に安定性を求めるな」
「求めるだろ普通!」
朝から何の会議だ。
この街ではそれが普通なのだろう。コーヒーのサイズを選ぶみたいにプランを比較し、通信速度を語るみたいに感情の持続率を話す。制度が生活に溶け込みすぎていて、溶けすぎた結果、たぶん誰もその変さに気づいていない。
透だけが時代から一歩ずれているような、妙な居心地の悪さがあった。
教室に入ると、田村がすぐにこちらを見つけてニヤついた。牛乳は今日はコーヒー牛乳に進化している。
「おはよう、トライアル中の男」
「朝の挨拶として最低だな」
「どう? 世界変わった?」
「別に」
「その『別に』、変わったやつの言い方」
机に鞄を置きながら無視を決め込む。だが田村は逃がしてくれない。
「で、誰で登録したの?」
「誰でってなんだよ」
「相手いるんだろ、契約対象」
「……いるけど」
「いるんだ」
食いつきが猛獣のそれだった。しまった。少しでも情報を出すと、こういうやつは骨までしゃぶる。
「ちょ、待って、やめろ、その顔。今クラス全員にバラす気だろ」
「そんなことしないって。ただ大声で『おまえ氷室さんと何かあったの!?』って聞くだけ」
「それがバラすってことなんだよ!」
透が慌てて田村の口を塞いだところで、教室の前方がざわついた。
氷室雪乃が入ってきたのだ。
今日も静かだった。昨日と同じ制服、同じ黒髪、同じ涼しい顔。なのに教室の温度だけが一度下がったような気がする。男子が無意識に姿勢を正し、女子が少しだけ視線を送る。現象である。
雪乃は透の斜め前の席に座り、鞄から教科書を取り出した。その動きがあまりにも無駄なく綺麗で、机の上だけ別の作品みたいになっている。こちらの机は消しゴムのカスと丸まったプリントで荒野だ。文明の差がある。
すると、席に着いた雪乃がふと振り返った。
「おはよう、宮下くん」
普通の挨拶だった。
だが透の心臓は普通じゃなかった。
「あ、お、おはよう」
「なんで今、二回起動したみたいな返事だったの」
「してない」
していた。完全にしていた。今の「お」がひとつ余分だった。
田村が横で吹き出しそうになるのを、透は机の下で蹴って黙らせた。被害者面をするな。
一時間目が始まってからも、透は妙に落ち着かなかった。無料トライアルを始めたからといって何か劇的に変わるわけではない。雪乃がこっちを向いたからって頬にエフェクトが出るわけでもないし、教科書の文字が恋文に見えるわけでもない。そんな便利な追加機能はなかった。
ただ、前の席にいる彼女の髪が揺れるたび、昨夜の端末の「ピコン♪」が頭の中で再生される。
好き、という言葉の周辺だけが、妙に輪郭を持ち始めていた。
昼休み。購買で焼きそばパン争奪戦に敗れた透は、代わりにコロッケパンを持って教室に戻った。負け犬の昼食である。
席に着くと、田村が待ってましたとばかりにスマホを差し出してきた。
「見てこれ」
「なに」
「うちの兄貴の友達」
画面にはメッセージアプリのスクリーンショットが表示されていた。そこには、いかにも何でもない話題の流れで、とんでもない文が混じっている。
『あー、そういや先月解約されたんだよね』
『マジで? 大丈夫?』
『何が?』
『彼女のこととか』
『あ、忘れた。別にいいじゃん』
透はコロッケパンを持ったまま固まった。
「……え?」
「だよな、反応そうなるよな」
「いや、ちょっと待って。『忘れた』って、そんな」
「感情契約切れたら普通にあるらしいよ。おれも兄貴に聞いてびびった」
「びびるだろ」
「でも本人はケロッとしてたって」
田村はその「ケロッ」を妙に正確な顔で再現した。やめろ。腹立つほどそれっぽい。
透はもう一度画面を見た。軽い。文章があまりにも軽い。コンビニでプリン買い忘れたみたいな調子で、ひとひとりへの感情が消えた話をしている。
「別にいいじゃん、って……」
「まあ、忘れたなら苦しくないって理屈なんじゃない?」
「それで済むのか」
「済んでるっぽいんだよな」
田村が肩をすくめる。
済んでるっぽい。
その言い方が嫌だった。大事だったかもしれない何かが、「っぽい」で処理されてしまう感じが。
「宮下、顔怖いぞ」
「……いや」
「氷室さんのこと考えた?」
「なんでそうなる」
「タイミング的にそうだろ」
この男は本当に鋭いところだけ嫌に鋭い。
透が答えに詰まると、前の席の雪乃がくるりとこちらを向いた。
「何の話?」
田村が一瞬で営業スマイルになった。切り替えが速い。
「いやー、解約されたら相手のこと忘れるって、やっぱ衝撃だなって」
「そういう人もいるね」
「氷室さんは平気?」
「何が?」
「好きだった人のこと、急に忘れるの」
田村の無神経さは才能だと思う。悪意がないぶん余計に鋭い。
雪乃は少しだけ目を伏せ、それから淡々と言った。
「平気な人もいるし、平気じゃない人もいるよ」
「そりゃそうか」
「でも制度って、そういうものだから」
制度だから。
正しい説明だ。正しすぎて冷たい。
そのあと田村は別の話題に飛んでいったが、透の中ではさっきのスクリーンショットがずっと残っていた。忘れたら別にいいじゃん。軽く、乾いていて、なのに後からじわじわ効いてくる嫌な棘みたいな言葉。
放課後、透は昇降口で靴を履き替えながら、財布の中身を確認していた。
百円玉が二枚。十円玉が三枚。五円玉が一枚。どういうラインナップだ。神社のお賽銭か。
「なにしてるの?」
頭上から声が落ちてきた。見上げると雪乃がいた。
「……残高確認」
「神妙な顔で?」
「神妙にもなるだろ」
透は財布を閉じる。見られて恥ずかしい財産状況だ。見栄を張る余地が一ミリもない。
「これじゃジュースも危うい」
「じゃあ恋はもっと危ういね」
「笑えない」
雪乃は小さく笑った。今日は妙に表情がやわらかい気がする。昨日までより、少しだけ距離が縮んだのかもしれない。無料トライアル、恐るべし。いや、そういう問題ではない。
「このあと、時間ある?」
「え」
「駅の向こうに新しいクレープ屋ができたんだって」
「……クレープ」
「嫌い?」
「好きだけど」
好きだけど、男子高校生が美少女転校生と放課後にクレープを食べに行くという状況が、自分の人生の想定ルートに存在しなかった。
「じゃあ行こう」
「そんな自然に」
「自然じゃだめ?」
だめじゃない。だめじゃないが心臓がだめだ。
結局、透は雪乃と並んで商店街を歩くことになった。
放課後の街は朝よりもさらに恋愛制度に優しかった。カフェの黒板には「カップル来店でハートラテ無料」、ゲームセンターには「相性診断付きプリ機新登場」、文房具店の前には「想いを綴る専用ノート入荷」と書かれたポップ。何でもかんでも恋に寄せるな。定規までピンクハート柄にする必要あるか?
「この街、すごいね」
「転校生に言われると客観性があって助かる」
「前の学校の近くも似た感じだったけど、ここはもう少し露骨」
「露骨、って便利な言葉だな」
クレープ屋は本当に新しかった。白い外壁、ガラスのショーケース、店頭ののぼりには「新規オープン記念! 恋するいちご生クリーム50円引き」。恋しなくてもいちご生クリームは食べたい。
「メニュー、多い」
「なんで全部ちょっと恥ずかしい名前なんだ」
「『初恋チョコバナナ』」
「買う側の羞恥心に課金してるだろ」
「『運命のキャラメルナッツ』」
「重い」
「『両想いダブルクリーム』」
「胃に来そう」
「『片想いでもおいしいツナサラダ』」
「そこだけ急に現実的だな!」
雪乃がくすっと笑う。笑いながらメニューを読まれると、こっちはもうツッコミを入れるしかない。
結局、雪乃はいちご生クリーム、透はチョコバナナにした。注文口で店員のお姉さんが「学生カップルさんですか?」と善意百パーセントの顔で聞いてきたとき、透は危うくクレープを諦めるところだった。
「ち、違います!」
「そうなんですか? じゃあ相性くじ引けますよ」
「違わなくても引かされるんだ」
「恋の街だからね」
誰の決定だ、その街づくり。
店の前のベンチに座ってクレープを食べる。春の夕方は少し風が冷たくて、生クリームの甘さがちょうどよかった。雪乃は思ったよりきれいに食べるタイプではなく、いちごを先に攻めすぎて生クリームの配分に少し失敗していた。妙に安心する。
「……見た?」
「見てない」
「今の間は見てた」
「ちょっとだけ」
口元についたクリームを指摘するかどうかで迷っていたら、雪乃が自分で気づいて拭った。こういうところだけ隙があるのは反則だと思う。
「おいしい」
「うん」
「宮下くん、さっきからちょっと元気ない」
「そう見える?」
「見える。朝からずっと」
観察力が高い。高すぎる。気まずい逃げ道がどんどん塞がれる。
「昼の話、気にしてる?」
「……まあ」
「解約されて忘れた人の話」
「うん」
透は手元のクレープを見る。チョコが端から少し垂れて、包み紙に茶色い線を作っていた。
「平然としてたのが、なんか嫌だった」
「嫌なんだ」
「だって、好きだったんだろ、たぶん」
「たぶん」
「それが『別にいいじゃん』で終わるの、変じゃないか」
雪乃はしばらく何も言わなかった。商店街のスピーカーから、今度は春のセールの案内が流れてくる。そこにさりげなく「恋人とのお買い物にも」と混ぜ込まれていて、もう病気だろこの街はと思った。
「宮下くんは、忘れたくない?」
「そりゃ……」
言いかけて、透は口を閉じる。言葉の先にあるものを、うまく形にできなかった。
忘れたくない。
そう言うにはまだ早い気がした。雪乃と出会ってまだ二日だ。二日しか経っていないのに、もう「忘れたくない」という言葉の輪郭が見えてしまっている。それが少し怖かった。
「……本物なら、消えない方がいいと思う」
「本物、か」
雪乃はその言葉を口の中で転がすみたいに、静かに繰り返した。
そのあと駅までの道を少し歩いて、別れ際、透はなぜか言わなければいけない気がした。
「俺、ちゃんと払うから」
言った瞬間、自分で驚いた。
何の宣言だ。求婚か。いや違う。違うのだが、言葉だけ見るとかなり終わっている。
雪乃も一瞬だけ目を丸くした。それから、少しだけ困ったような顔になる。
「……払えなくなったら、どうするの?」
夕方の風が、その言葉だけを妙にはっきり運んだ。
透は答えられなかった。
払えなくなったら。そんなの決まっている。契約は切れる。無料トライアルは終わる。有料更新ができなければ、それまでだ。
でも、そうなった先のことを、透はまだ具体的に考えていなかった。
「それは」
「うん」
「……考える」
あまりにも弱い返事だった。
雪乃は責めるでもなく、ただ「そっか」とだけ言った。その横顔はやっぱり綺麗で、だからこそ表情の温度が少しわかりにくい。今の問いがただの確認だったのか、それとも別の意味を持っていたのか、透には判断できなかった。
家に帰ると、母は台所で味噌汁を温めていた。
「おかえり。今日ちょっと遅かったね」
「寄り道してた」
「珍しい」
そう言いながらも、母は特に深くは聞いてこない。透は少しだけほっとして、自室に鞄を置いた。
机に向かい、スマホを置き、それからノートパソコンを開く。家計簿アプリ。普段は食費と交通費をなんとなく記録するだけの、やる気のない数字の墓場だ。
今月の残額を確認する。
少ない。知っていたけど少ない。昼を何回我慢すれば九百八十円になるのか計算し始めた時点で、人間としての何かを失っている気がした。
「コロッケパン百三十円……飲み物我慢して……いやでも部活の日は無理か」
独り言が増える。増えると貧乏くさい。実際貧乏くさいのだが。
スマホにメモを開き、節約案を書き出す。
『昼を週三で家のパンにする』
『ジュース禁止』
『ガチャ禁止』
『意味もなくコンビニ入らない』
『田村に奢らない(そもそも奢ったことない)』
最後の一行は自分でも意味がわからなかったので消した。
九百八十円。
たった、と言えばたっただ。だが高校生の財布には微妙に重い。安いようで高い。高いようで、払えない額でもない。その絶妙さが腹立たしい。制度設計したやつ、たぶん人の財布の温度をよく知っている。
画面の数字を見つめていると、昼のスクリーンショットが頭をよぎる。
『忘れた。別にいいじゃん』
よくない。
少なくとも透には、よくない気がした。
窓の外はもう暗くなりかけていて、近所の電柱広告が自動点灯していた。そこにも小さく「初回更新でポイント還元」とある。ポイントで何を還元するつもりだ。恋の残高か。
透はスマホを伏せ、ベッドに倒れ込んだ。
雪乃の笑った顔が浮かぶ。クレープのクリームをつけた顔。夕方の駅前で静かに問いかけた顔。
「払えなくなったら、どうするの?」
問いはまだ、答えを持っていなかった。
そのとき、スマホが震えた。
ピコン♪
心臓が変に跳ねる。すぐ手を伸ばして画面を見ると、通知はアプリからではなかった。メッセージアプリだ。
差出人は、氷室雪乃。
透は一瞬、呼吸を止めた。開く。短い文章がそこにあった。
『明日、本当のわたしを見せるね』
意味がわからない。
意味がわからないのに、破壊力だけは満点だった。
「……は?」
声に出た。ベッドの上でひとり、間抜けに。
本当のわたし。何だそれ。哲学か。告白か。怖い話の導入か。選択肢が多すぎて、一個も安心できない。
透は三回読み返した。四回目で誤字がないことを確認した。五回目で余計に意味がわからなくなった。
ピコン♪
追撃のメッセージが来るかと思ったが、来ない。終わり。これだけ。余白が凶器すぎる。
透はスマホを握ったまま天井を見た。
無料トライアル終了まで、あと五日。
その数字が、さっきまでよりずっと不穏に見えた。




