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第1回 無料トライアル、はじめます



 恋愛が月額制になってから、街はやたらと親切になった。


 駅前の大型ビジョンでは、朝七時から晩九時まで同じ笑顔の男女が「あなたの恋、月額980円〜」と訴えかけてくるし、改札横の自販機にはミネラルウォーターと並んで「感情契約スターターキット」が売られている。コンビニでは肉まんの隣に「初回登録で恋愛感度20%アップ」と書かれたレジ横キャンディが積まれ、商店街の福引きは一等が温泉旅行、二等が高級和牛、三等が恋愛サブスク三か月無料券だ。


 誰が回すんだ、そんなガラガラ。


 いや、回す人はいる。現に昨日、うちの隣のクラスの男子が「彼女との記念日に当てた」って騒いでいた。記念日で運を使うな。もっと別のことに使え。


 そう思いながら、宮下透は信号待ちの人混みの中で、スクランブル交差点の真上にぶら下がった垂れ幕を見上げた。


「学生応援! はじめての両想い応援プラン!」


 両想いまで面倒見てくれるのか、この国は。


 透はため息をつき、制服のポケットに手を突っ込んだ。出てきたのはくしゃくしゃのレシート二枚と、飴玉ひとつ。現金はなかった。恋愛どころか昼のコロッケパンも危うい。


 春なのに風はまだ少し冷たく、校門の桜は満開のくせに、花びらより先に「新学期応援恋活キャンペーン」のチラシが校庭に舞い込んでいた。世知辛い。花より広告だ。


「宮下、おはよー」


 後ろから肩を叩かれて振り返ると、クラスメイトの田村が牛乳パックを片手に立っていた。なぜ朝から牛乳なのかは知らないが、こいつはいつも何かしら飲んでいる。


「おまえさ、見た? 昇降口の新しいポスター。カップル割で映画半額だって」

「国が本気すぎる」

「でも使えるもんは使った方がよくない?」

「その前に相手がいない」

「そこも含めてサポートするんだろ、制度が」


 田村は気楽に言って、牛乳を一口飲んだ。そんな味噌汁みたいなノリで恋愛を語るな。


「宮下はさ、いっぺん試してみりゃいいんだよ。無料トライアルあるし」

「動画配信サービスじゃないんだから」

「今は恋もサブスクの時代」

「嫌な時代だな」

「便利な時代だろ」


 便利。たぶんそうなのだろう。好きになったときの不安も、相手が本当に自分を好きかどうかわからない曖昧さも、今はアプリと契約端末がある程度なら数値にしてくれる。告白成功率、好感度推移、継続率、更新見込み。感情はグラフになり、恋は通知でやってくる。


 でも透には、その全部が妙に薄っぺらく見えた。


 好きって、そういうものだったか。


 教室に入ると、いつものざわめきの上に、今日は少し高い周波数のざわめきが乗っていた。女子が三人、廊下側の窓をちらちら見ている。男子は意味もなく姿勢を正している。担任が来る前からこういう空気になる日は、大体ひとつしか理由がない。


「転校生だって」

「この時期に?」

「親の転勤らしい」

「男子? 女子?」

「女子だって」


 田村が「当たり日じゃん」と小声で言った。くじ引きみたいに言うな。


 ほどなくして担任が入ってきた。その後ろに、もうひとり。


 教室の空気が、わかりやすく一段止まった。


 長い黒髪は窓からの光を受けてもほとんど色を変えず、白い肌だけが春の陽気と別の季節に属しているみたいに見える。背筋は真っ直ぐで、表情は静かで、なのにただ立っているだけで周囲の雑音が一歩引く。美人、という単語で片づけるには、なんというか、温度が低い。


「今日からこのクラスに入る、氷室雪乃さんだ」


 担任に促され、彼女は教卓の前で一礼した。


「氷室雪乃です。よろしくお願いします」


 声まで涼しかった。炭酸水のラベルに書いてありそうな声。


 男子の何人かが、よろしくされた瞬間に心の中で契約更新ボタンを押した顔をしている。早い。まだ名前しか知らないぞ。


 雪乃の席は、なぜか透の斜め前になった。くじ運の悪さには定評がある透だが、こういうときだけ妙な引きを発揮する。たぶん人生の配分がおかしい。


 席に着いた雪乃は、教科書を受け取ると手際よく中身を確認した。ノートを出す動作も静かで、机の上がすぐ整う。無駄がない。新しい教室で居場所を探すようなぎこちなさがまるでなくて、最初からこの場所の空気の使い方を知っているみたいだった。


 休み時間になった途端、彼女の机の周りには人だかりができた。


「前の学校どこだったの?」

「部活入る?」

「好きな食べ物は?」

「恋愛契約って使ってる?」


 最後の質問、やっぱり出るんだな。


 雪乃は騒がれ慣れているらしく、にこりともしない代わりに困った様子も見せず、一つ一つに短く答えていった。前の学校は遠い北の方。部活は未定。好きな食べ物は苺大福。そして恋愛契約について聞かれたときだけ、ほんの少しだけ目を細めた。


「使う人も多いよね」

「氷室さんは?」

「どうだろ」


 曖昧な返事だったのに、なぜかその場の何人かは満足していた。美人の曖昧さには価値があるのかもしれない。理不尽だ。


 透はその輪の外から眺めていた。興味がないわけじゃない。ただ、近づく理由もないし、近づいたところで上手く話せる気もしない。そもそも、こういう中心にいるタイプとは住む世界が違う。


 そう思っていたのに。


 四時間目のあと、廊下で曲がり角を曲がった瞬間、正面から誰かとぶつかりそうになった。反射で足を止める。相手も止まる。わずか数センチ手前で衝突を回避した。


「あ」

「ごめん」


 同時に言って、透は顔を上げた。


 氷室雪乃だった。


 近い。思ったよりずっと近い。近くで見ると、まつげが長いとか目が澄んでいるとか、そういう情報より先に、妙な匂いがした。香水というほど甘くなく、石けんみたいに軽い、乾いた冷たい匂い。


「……宮下くん、だよね」

「え」

「さっき出席で聞いたから」


 覚えられていた。人間、予想外のところから名前を呼ばれると、一瞬だけ自分が重要人物になった気がする。


「う、うん」

「よかった。間違ってたら気まずかった」


 彼女がほんの少しだけ口元をゆるめた。


 それだけのことなのに、廊下の窓から吹き込んだ風が急に仕事をし始めた気がした。漫画ならここで花びらが舞う。現実では購買の焼きそばパンの匂いが流れてきた。台無しである。


「宮下くんって、恋愛契約、使ってる?」

「え、なんでいきなり」

「この街、みんなだいたい使ってるから」


 言われてみればそうだ。使っていない方が少数派だし、使っていないと「こだわり強そう」とか「現実見てない」とか、微妙に時代遅れ扱いされる。


「使ってない」

「へえ」

「へえ、って」

「珍しいから」


 雪乃は少し首をかしげた。黒髪が肩でさらりと揺れる。いちいち映えるのが腹立たしい。


「なんで?」

「なんでって……別に、必要ないし」

「好きな人、いない?」

「いない」

「これからも?」

「わからないけど」


 透が答えるたび、雪乃はまるでアンケートを取るみたいに小さくうなずいた。そのくせ不思議と尋問っぽさはなくて、ただ本当に確認しているだけの顔をしている。


「トライアル、した方がいいよ」


 あまりに自然に言われて、透は一瞬聞き返しそうになった。


「……は?」

「無料トライアル。七日間」


 さらっととんでもない営業文句が出た。


「いや、急に勧めるんだ」

「だって、損しないから」

「恋って『損しないから』で始めるもんなの」

「今は割と」


 今は割と、で片づけるな。


 透が言葉に詰まっていると、雪乃は廊下の掲示板に貼られた校内キャンペーンの案内を指さした。放課後、駅前広場で新生活応援フェア。学生限定で恋愛感情サブスクリプション初回登録サポートあり。景品つき。


「景品までついてる」

「マグカップらしいよ」

「マグカップ欲しさに人生の根幹みたいなもの登録するやついる?」

「けっこういる」

「終わってるなこの社会」

「でも」


 雪乃はそこで少しだけ目を細めた。


「本当に好きになれるのかな、って悩むよりは、入口がある方が楽かも」


 不意に、自分の胸の中を先に言われた気がした。


 透は視線をそらす。廊下の向こうでは、男子が窓ガラスに映った寝ぐせを必死で直していた。今さらだろ。


「……本当に好きになれるのかな」


 気づけば、口からこぼれていた。


 自分で言ってから、失敗したと思った。重い。昼休みの廊下で転校初日の女子に投げる話題じゃない。


 でも雪乃は笑わなかった。


「好きって、証明できる方がラクでしょ?」


 その言葉は、軽いようで妙に引っかかった。


 証明。そんなものが、本当に必要なんだろうか。


 五時間目も六時間目も、透はノートの端にわけのわからない線を引き続けた。授業内容はたぶん半分も頭に入っていない。前の席では雪乃の背中がまっすぐで、ときどき髪が揺れるたびに、廊下で交わした短いやりとりが何度も再生された。


 放課後になり、田村が鞄を担ぎながら言った。


「で、駅前行く?」

「なんで知ってるんだよ」

「顔に『無料トライアル迷ってます』って書いてある」

「嫌すぎる」

「じゃ、行くんだ」

「行かない」

「その返事は行くやつ」


 こいつは本当に人の心を読まないでほしい。読めるならもっと国家機密とか読め。


 結局、透の足は駅前広場に向かっていた。


 夕方の広場は、祭りでも始まるのかというくらい派手だった。特設ブース、のぼり旗、制服姿の学生カップル、着ぐるみみたいなハート型マスコット。スピーカーからは妙に前向きなBGMが流れ、「恋の一歩を応援します!」とマイクの声が弾んでいる。


 胡散臭い。だが人は多い。胡散臭さと集客力は両立するらしい。


 ブースの前をうろうろしていると、「宮下くん」と後ろから声がした。


 振り返る。雪乃がいた。


 昼間と同じ制服なのに、夕方の光のせいか少しだけ雰囲気が違って見える。冷たさはそのままで、でもなぜか昼より近づきやすい。


「来たんだ」

「たまたま通りかかっただけ」

「駅前でそれ言うの、かなり無理あるよ」

「……そうかも」


 初対面の女子に即座に論破された。弱い。


 雪乃は、広場の隅に置かれた白い端末を見やった。スマホサイズの画面がついた、QRコードリーダーみたいな機械。上部には「初回登録はこちら」と書かれていて、下には無責任な笑顔のカップル写真。


「やってみる?」

「そんなコンビニでコピー取るみたいなノリで言う?」

「似たようなものだよ」

「全然違うだろ」

「でも、最初はみんなそう」


 雪乃は端末の前まで歩いていき、慣れた手つきで画面をタップした。メニューが開く。説明ページ、規約確認、プラン一覧。動きに迷いがない。


「あの」

「なに?」

「詳しいね」

「よく見るから」


 よく見る、で済むレベルではない気がしたが、透が考えるより先に端末が明るく光った。


『新生活応援! 7日間無料トライアル実施中!』


 画面のポップ体がやけに元気だ。人生をそんなフォントで決めるな。


「ほら」

「ほら、じゃない」

「押すだけ」

「その『押すだけ』が重いんだって」

「大丈夫。いきなり結婚はしないから」

「誰もそこまで飛ばしてない」


 雪乃がほんの少し笑った。たぶん、ちゃんと笑ったのはこれが初めてだった。


 その瞬間、透の中でなにかが少しだけ傾いた。


 大げさな衝撃ではない。雷が落ちるとか、世界が色づくとか、そういう劇的なものじゃない。ただ、ずっと平坦だった床が、彼女のいる方向にだけほんのわずかに傾斜を持ったような感覚。


 たぶん、恋の予感ってやつは、そのくらい地味に始まる。


「……これ、本当に」

「うん?」

「変なことにならない?」

「なるかも」

「なるのかよ」

「でも、やらないよりは」


 雪乃は画面の「登録開始」を示したまま、透を見た。


 その目は綺麗だった。綺麗すぎて、少しずるい。


 透はポケットを探った。出てきたのは朝と同じく、くしゃくしゃのレシート二枚と飴玉ひとつ。現金がないことを確認しても意味はない。無料トライアルだ。


 無料。


 その言葉が最後に背中を押したのかもしれない。あるいは、ただ彼女が見ていたからか。


「……やる」


 言った瞬間、自分の声が少しだけ上ずった。


 雪乃は何も茶化さず、ただ端末を少しだけこちらへ向けた。


「じゃあ、ここにスマホ」

「うわ、手が震える」

「大丈夫。みんな最初はそう」

「嫌だな、その共通認識」


 スマホをかざす。読み取り音。


 ピコン♪


 軽い、間抜けなくらい軽い音だった。


 なのにその一音で、広場のざわめきが少し遠くなった気がした。画面に登録完了の文字が浮かび、紙のレシートみたいな確認書が端末の下からぺろんと出てくる。


『恋愛感情サブスクリプション 7日間無料トライアルを開始しました』


 開始しました、じゃないんだよ。もっとこう、人生に踏み込む自覚を持て。


「……ほんとに始まった」

「おめでとう」

「おめでとうなのかこれ」

「第一歩だから」


 雪乃はそう言って、契約確認書を受け取る透の手元を見た。その視線は一瞬だけやわらかくて、けれど次の瞬間にはいつもの静かな顔に戻っていた。


「じゃあ、また明日」

「あ、うん」


 彼女はそれだけ言って、人混みの中へ溶けるように去っていった。呼び止める理由はなかった。そもそも、何を言えばよかったのかもわからない。


 残された透は、広場のベンチに腰を下ろし、ぺらぺらの確認書を見下ろした。風で端が揺れる。紙切れ一枚。たったそれだけなのに、今日は朝より少しだけ世界の見え方が違う。


 駅前ビジョンでは相変わらず、知らない男女が完璧な笑顔で「あなたの恋、月額980円〜」とささやいていた。


「……月額、か」


 七日後には、その先の選択が来る。


 透はスマホを開き、登録完了メールを確認した。件名の下に、見慣れない通知アイコンが増えている。小さなハートマーク。妙に素っ気ないデザインだった。


 そのとき、画面の上部に新しい通知が滑り込んだ。


 ピコン♪


『無料期間終了まであと6日』


 早いよ。せめて一晩寝かせろ。

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