第8回 更新しますか?
恋愛感情回収局本部の最上階は、無駄に静かだった。
静かすぎて腹が立つ。こういう場所はもう少し、人の人生を左右する機械音とか、重大な決断を迫る重低音とか、そういうものが鳴っていてほしい。なのに実際は空調の低い唸りと、遠くのエレベーターが止まる気配しかない。世界を壊すボタンがある部屋にしては、雰囲気がオフィスの会議室すぎる。
目の前の端末には、例の二択が表示されていた。
『更新する』
『更新しない』
シンプルすぎる。人の心をなんだと思っているんだ。通販サイトの定期購入停止画面でももう少し気を遣うぞ。
受付からついてきた職員が、事務的な笑顔で言う。
「お手続きされますか?」
「されますか、じゃないんですよ」
「と、言いますと」
「このボタン、軽すぎません?」
「操作自体は簡便化されていますので」
「そういう問題じゃないんだよなあ」
透は端末の前で、息を吐いた。
更新しない。
その選択肢を見て、昨日までの自分なら怖いと思ったはずだ。いや、今も怖い。怖いのに、それでも「更新する」の方がもっと違う気がしてしまう。
ずっと、払えば守れると思っていた。
足りないなら工面して、更新して、続ければいいと。制度のルールの中で頑張ることが、いちばんまともな戦い方だと。
でもここまで来て、ようやくわかった。
それは、たぶん「終わらせない」ための選択でしかない。
雪乃を選ぶこととは、少し違う。
「……これ、個別契約だけじゃなくて」
透は画面の隅を見た。
「局内管理契約にも触れられるんですか」
「権限次第では」
「高校生がその質問してくるの、珍しくないですか」
「非常に珍しいですね」
職員は少しも珍しがっていない顔で言った。仕事できるタイプの無表情は厄介だ。
「もし」
透は喉を鳴らした。
「関連契約を一括で終了させたら、どうなりますか」
「契約対象者との恋愛感情維持は終了します」
「それ以外は」
「保存設定によります」
「保存?」
「感情データは消去対象ですが、法改正後の契約では、共同行動記録や相互接触ログの一部は事実記録として残ります」
「……え」
透は顔を上げた。
「残るんですか」
「制度上、完全な生活履歴抹消は推奨されていませんので」
「そこだけ急にまともだな」
「法改正ですから」
「立法の話してる場合じゃないんですけど」
けれど、その一言は大きかった。
感情は消える。
でも、共に過ごした事実の記録は残る。
写真や、メッセージや、契約の外側で起きた出来事。全部ではないにせよ、ゼロにはならない。
それは、母のアルバムの空白とは少し違う。
記憶の足場が、完全には失われないということだ。
透の胸の中で、何かが少しだけ定まった。
「一括終了、できますか」
「個人では通常できません」
「通常じゃない場合は」
「管理系統への異議申請、または保護契約の連鎖解除に限り」
「それです」
「即答ですね」
「もう時間ないんで」
職員が端末を操作する。画面が変わり、文字だらけの確認欄が出る。規約、注意、免責、確認、同意。こんなときまで文章量で人を殴ってくるな。
透は流し読みしながら、必要な箇所だけ追った。
『対象者相互間の恋愛感情維持契約を終了』
『保護名目での継続契約を一括解除』
『感情データは消去』
『共同行動記録は保存』
保存される。
そこが、いまは何より大事だった。
「これ、俺と雪乃だけじゃなくて」
「保護連鎖上にある契約は対象です」
「つまり」
「氷室雪乃様に対する家族保護契約も、条件を満たせば終了します」
透は笑いそうになった。
こんなときに笑うのは変だとわかっていたが、少しだけ笑ってしまった。最後の最後で、この制度の抜け道が「全部やめる」側にあるの、皮肉が効きすぎている。
「利用継続による保護ではなく、解除による独立を選ぶんですね」
職員が言う。
「そうです」
「かなり珍しいです」
「今日ずっと珍しいって言われてる気がする」
「高校生ですから」
「そこは俺の責任じゃないです」
職員は初めてほんの少しだけ表情を緩めた。笑ったのかもしれない。こんな場所で人間味を出すならもっと早く出せ。
最終確認の画面が出る。
『関連契約を終了しますか?』
下には二択。
『はい』
『いいえ』
今度は、さっきの二択よりずっと潔かった。
透は指を置く。
ほんの少しだけ震えていた。
でも、迷いはもうなかった。
押す。
『はい』
端末が低く唸る。
昨日まで聞いていた軽い通知音ではない。公園で聞いた判決みたいな低音とも少し違う。もっと大きくて、もっと深い、何かがほどけていく音だった。
壁面モニターに、複数の契約番号が一瞬だけ並ぶ。透のもの。雪乃のもの。見たことのない長い識別コード。その一角に、氷室征士名義の保護契約が表示され、次の瞬間、灰色になった。
「……うわ」
透は思わず言った。
「見た目が地味な割にやってること派手ですね」
「大きな決定ほど画面は静かです」
「今それ名言っぽく言ってる場合ですか?」
処理が終わる。
最後に、ほんの小さな音が鳴った。
ピコン♪
最初と同じ音だった。
無料トライアルを始めた日、軽くて間抜けで、人生に踏み込むにはあまりにも無責任だと思ったあの音。今は少しだけ違って聞こえる。終わりの音なのに、不思議と始まりみたいだった。
『関連契約の終了を確認しました』
画面の文字は、それだけ。
それだけなのに、透の膝が少し笑った。大仕事を終えた達成感というより、高いところから飛び降りて、着地してから遅れて足が震える感じに近い。
「……すみません」
「はい」
「帰っていいですか」
「お疲れのようですので」
「人生で一番、事務的に労われた気がする」
最上階を出て、エレベーターで下へ降りる。数字が減るたび、さっきまでの決断が現実になっていく気がした。十階、九階、八階。ガラスの向こうの街の灯りが少しずつ近づく。
雪乃に連絡しなきゃいけない。
そう思ってスマホを開く。だが指が止まる。何と送ればいいのかわからない。
『終わらせた』
重い。
『全部切った』
アウトローの報告みたいだ。
『更新しなかった』
正確だが足りない。
悩んだ末に、透は短く打った。
『今から会える?』
送信。既読はすぐについた。
『うん』
それだけ返ってくる。短い。短いが、それで十分だった。
待ち合わせ場所は、最初に無料トライアルを始めた駅前広場になった。
夜の広場は相変わらず賑やかだ。大型ビジョン、のぼり旗、恋愛推しの看板、帰宅途中の学生、カップル、スーツ姿の大人。何も変わっていないように見える。たった今、自分がここの制度の一部を壊してきたなんて、街の誰も知らない顔をしている。
白い契約端末も、あの日と同じ場所に立っていた。
透はそれを見るなり、ちょっとだけ腹が立った。
「おまえ、よくまだそこに立ってられるな」
端末に話しかける高校生。だいぶ怪しい。だが今さらだ。
「何それ」
後ろから声がした。
振り向く。
氷室雪乃が立っていた。
制服姿。黒髪。白い肌。静かな目。見慣れたはずの姿なのに、今はどこか少し遠く感じる。いや、遠いのは距離じゃなくて、たぶんこの先起こる変化の予感だ。
「いや、その」
「端末に喧嘩売ってる人、初めて見た」
「最近いろいろあったから」
「知ってる」
雪乃は透の前まで歩いてきて、足を止めた。
「終わらせたの?」
「……うん」
「全部?」
「たぶん」
たぶん、という言い方しかできない。処理画面ではそうだった。職員もそう言った。だが感情がどう消えるのかなんて、自分で見たことはない。見たくもない。
雪乃は小さく息を吐いた。
「わたしのこと、忘れるの?」
最後の不安、という顔だった。
強いふりも、静かな職員の顔も、転校生の涼しい表情も、今はあまり役に立っていない。そこにいるのは、ちゃんと不安がる一人の女の子だった。
透は首を振る。
「感情は消えても、選んだことは残る」
「……」
「俺が、おまえを選んだことは消えない」
言いながら、自分でも不思議だった。
こんなにまっすぐなことを、最後に言えるとは思わなかった。もっと気の利いた言葉を考えるべきなのかもしれない。泣ける台詞とか、決まった一言とか。でも今はこれがいちばん本当だった。
雪乃の目が揺れる。
「ずるいね」
「なんで」
「そういうこと、最後に言うから」
「最後って決めるなよ」
「だって、たぶん……」
その先は言葉にならなかった。
スマホが同時に震える。透も、雪乃も。
画面を見るまでもなくわかった。終わりの通知だ。
ピコン♪
軽くて、間抜けで、そしてやさしい音。
風が広場を抜ける。大型ビジョンの光が少しだけ揺れた気がした。端末の小さなランプが消える。雪乃が、ほんの一瞬だけ目を閉じる。
透は息を止めた。
胸の奥が、ひやりとした。
消える。
何かが、たしかに消えた気がした。
でも、世界は壊れない。空は落ちてこないし、広場の人々は普通に歩いている。広告は相変わらず「恋の継続率アップ!」とか言っているし、近くのたこ焼き屋はいい匂いを撒いている。終わる瞬間って、案外こういうものなのかもしれない。自分たちだけが大事件で、世界は呆れるくらい普通だ。
雪乃が、ゆっくり目を開けた。
透を見る。
その目の中に、見覚えのない距離があった。
怖い、とは少し違う。空白、とも違う。ただ「今、初めてこの人を見る」みたいな、静かな戸惑い。
透は喉の奥がつまるのを感じながら、それでも口元だけは笑った。
「……はじめまして」
雪乃が瞬きをする。
透は続ける。
「宮下透です」
一拍。
二拍。
風の音。遠くの信号。広告の光。ぜんぶが妙にくっきりしていた。
それから、雪乃の唇がわずかに動く。
「……はじめまして、宮下くん」
声は、少しだけ震えていた。
でもちゃんと届いた。
その瞬間、透は気づく。
痛い。ちゃんと痛い。
恋愛感情がどう変わったのか、自分の中でもまだ整理はつかない。さっきまでの熱みたいなものが、少し遠のいた気もする。胸の締めつけが別の形に変わっている。たぶん、これが「消える」ということの一部なのだろう。
それでも。
目の前にいる雪乃を、もう一度知りたいと思った。
それは感情というより、意思に近かった。
広場の隅にあるベンチに、二人で座る。前より少しだけ距離を空けて。知らない人同士としては近く、恋人同士としては遠い、妙な間隔だった。
「……えっと」
雪乃が言う。
「わたし、氷室雪乃」
「うん」
「それは知ってる?」
「名前は、たぶん覚えてる」
「たぶん、なんだ」
「今ちょっと自信ない」
「それはそれで困るね」
二人で少しだけ笑う。
変な感じだった。
笑い方は似ているのに、そこへたどり着くまでの距離が前より少し遠い。でもゼロじゃない。ゼロだったらこんなふうには笑えない。
雪乃が膝の上で手を組む。
「あなた、変な人だね」
「初対面で言う?」
「だって、制度を止める方を選ぶんだもん」
「俺も昨日まではそう思ってなかった」
「じゃあ急に変」
「それはもう認める」
広場の隣にある案内板に、使い終わったキャンペーンの紙が一枚だけ残っていた。風で端がめくれている。近づいて見ると、QRコードつきの広告紙だった。糊が剥がれて、半分ほど垂れている。
透は立ち上がり、その紙をはがした。
簡単に取れた。
四角いコードが印刷された、ただの紙片。
あれだけ人の人生に踏み込んできたものが、取れてしまえばこんなに軽い。
「何してるの?」
「なんか腹立ったから」
「感情で動くタイプ?」
「たぶんそう」
紙片を見て、それからポケットに入れる。記念品にするにはだいぶ後味が悪いが、今日のことを忘れないためにはちょうどいいかもしれない。
雪乃がその様子を見て、少しだけ首をかしげた。
「変」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めてないよ」
そのやりとりができることに、透は少しだけ救われた。
帰宅すると、母は居間でうたた寝していた。テレビは消えていて、部屋の灯りだけがついている。テーブルの上には、開きっぱなしのアルバムが置かれていた。昨日、透が見返したままだった。
最後のページは、まだ空白が多い。
破れた契約書の切れ端が挟まり、古い写真が一枚、その脇に少しだけスペースが空いている。
透は机からペンを持ってきた。
迷って、最後の空白に小さく書く。
氷室雪乃
名前だけ。
写真はまだない。説明もない。
でも名前は書ける。今はそれでいい気がした。
アルバムを閉じる直前、スマホが一度だけ鳴った。
ピコン♪
最後の通知だった。
画面には、ただ一文。
『更新しますか?』
透は少しだけ笑って、画面に触れる。
「――いいえ」
それから、窓の外の夜を見た。
終わったのに、終わっていない。
たぶん、ここからもう一度始めるのだ。
最初から。
ちゃんと、自分で選んで。




