リリーは怒っている
リリーはフィリーネが舞を奉納しているのを、賓客でリリーが案内をしているセドリックの横で見守っていた。
最初こそ不安を感じていたものだが、その不安はフィリーネが演舞を始めると共に霧散した。
長きに亘る反復練習に依って身につけられた舞の型、類まれなる身体能力を存分に活かして風の如く交わされる、難所の数々の何処にも失点はない。
侍女として贔屓目に見てしまうことを差し引いても文句の付け所のない完璧な演舞だ。
(共に苦労して練習した甲斐がありましたね)
侍女とはいえ、フィリーネが産まれた時から側で仕えてきたからか、母親のような心地でフィリーネの舞を見守っている。
最後まで見届けたかったし、それが道筋だった。
しかし、不意に靴の鳴る音が耳に届く。常人では気付かない程に微かな音だが耳の良いリリーは聞き逃さない。
咄嗟に反応して背後を振り返ると、視界の端でセドリックが席を立って移動しているのを捉えた。
隠退したとはいえ元騎士で、今でも鍛錬を欠かさずに、先の内乱に於いてはフィリーネに従って前線で戦った経験もあるリリーである。
当然、身のこなしや認識能力には騎士と相違ない自信があった。少なくとも侍従長で文官であるセドリックの動きを見逃すはずはない。
それなのにリリーはセドリックが靴音を鳴らすまで事態を把握できなかった。
リリーの怠慢ではない。ただ単に、セドリックの隠密の技量が上回っただけだ。
「どこに······」
呼び止めようとしてリリーは自重した。セドリックがフィリーネの舞の途中で席を離れて何処かに行った等という話が広まってはいけない。
セドリックに王命によって参加を義務づけられた領地を代表する儀式を途中退席するという悪評や、婚約者の晴れ舞台を大事にしない粗忽者という烙印が押されるのだが、リリーはそんなことを気にしているわけではない。
寧ろ本心としてはフィリーネを傷つけたセドリックには痛い目を見てほしいとまで思っている。
しかしセドリックの無礼な行動によって、ミスランティ領内のレプトン伯爵派閥の反王命派が勢いづいてしまう。
それは戦争を嫌うフィリーネの願いのあるところではなく、またフィリーネを一番に考えるリリーの希望でもなかった。
(幸いお嬢様の舞に魅入っているため、宮中伯の行動を察知している人物が少なそうなのが救いです)
密やかに周囲を見渡し気づいた人がいないことを確認してからリリーはホッと息をつく。
それにセドリックの隠密行動のお陰もある。
気づきそうな優秀な騎士は皆、最前列近くで辺境伯ら領内の貴人を警護しているため、元々殆どなかった足音に気づいたのはリリーだけのようだ。
フィリーネの舞を見たいと後ろ髪を引かれたが、フィリーネから預かっている案内役の任務を放棄する訳にはいかないので、渋々リリーも席を離れた。
* * *
リリーはまるで追ってくる人物からの逃走を企てるように裏路地を経由してどこかに行こうとするセドリックを追いかける。
とても素人とは思えないほどに手慣れた動作であり、気を抜くとリリーでさえも見失ってしまう。
何をそこまで警戒しているのか、果たしてリリーには全く不明だった。
そもそもセドリック自身は誰にもつけられていない自信があると思われる。警戒する必要はないし、それは置いておいたとしても警戒すべきことがあるのだろうか。
リリーには見当もつかなかった。
「急ぎの用事ならば言ってくだされば取り計らいますし、そうでないならせめて舞が終わるまでくらいは御覧になられても良かったでしょうに」
至極尤もなことをリリーは苛立ちながら考える。
王命で氷祭りへの参加を強制したのはセドリックの側の事情であり、王の懐刀と名高いセドリックがその程度の調整をしないとはとても思えなかった。
もしも外せない用事が有るのなら元々不参加にしてほしかったし、捩じ込むように参加しておきながら勝手に退席するなど、無礼もいいところである。
それにリリーはセドリックの所為で本来観覧できたはずの舞を見れなくなっているのだから、必死に表には出さないようにしているもののリリーの怒りは相当だ。
そんなことを考えているうちにセドリックは路地裏のくぼみになる部分に入る。
たまたま考え事をしていて少し距離が離れていたからかセドリックには気づかれなかったらしい。
リリーは追いかけるように足を踏み入れた。
「宮中伯様、いかがなされたので······」
「リリー様!?」
「あなたは!······」
何やら物を仕舞っている様子のセドリックはリリーに呼び止められて驚き、そのリリーもセドリックの姿を見て驚嘆した。
それもそのはず、セドリックは片時も外していなかった布の覆いを外していて、フィリーネでさえも知らない本来の顔を曝け出していたからだ。
少なくとも顔が醜くそれを恥じて素顔を隠しているという噂を否定するには余りある容姿であり、リリーはセドリックが顔を隠す理由を考えてしまう。
(いいえ、そうではありませんわね。問題なのはどうしてセドリック様のはずの目の前の男がこの顔貌をしているのかということです)
リリーはいちど深呼吸をして落ち着きを取り戻す。そして素顔を晒したまま呆然としているセドリックに厳しい目線を投げかけた。
「どういうことでしょう、もちろんご説明頂けますよね、バルデン宮中伯?」
「······」
リリーの問い詰めにセドリックは沈黙を貫いたままだ。
それがさらにリリーの感情を逆撫でした。
元々フィリーネに関する一件でセドリックに対して思う所は多くあり、考えるだけで腸が煮えくり返るような思いに駆られる程に嫌悪していた。
しかしそれでもリリーはプロの侍女である。フィリーネの為だと必死に我慢し、今日だけはなんの関係もない従業員と客人として、全ての感情と行動を切り離して持て成していた。
だが、眼の前の人物はそうあることを信じたくないほどの相手であり、これが本当に本当のことであればフィリーネへの許されざる裏切りである。
それにフィリーネがこのことを知れば記憶を失っているとはいえ、それこそが傷ついたことの証左である彼女がどれだけ悲しむのか。
(お嬢様が苦しむのはもうたくさん、王女殿下の一件にさらに苦しみを重ねてなど欲しくありません)
それがリリーの偽らざる本音であった。
「分かりました。私の目的も行動理由も、その全てをリリー様にお教えすると誓いましょう」
セドリックはその思いを察したのか、無言による抵抗を諦め、事情の説明をした。
* * *
「というわけでして、私は国王陛下より勅命を預かっております。その過程でフィリーネ様を傷つけることのないよう、距離をおいたのです」
「なるほど、そういうことでしたか」
リリーは説明を聞いて、怒りを鎮めこそしていないものの、ある程度の納得をした。
特にフィリーネを傷つけた理由が本当はフィリーネを傷つけるためではなくセドリックから引き離すとだと理解してもらえたことが、セドリックにとっては大きかった。
結果的には最悪の事態を引き起こしているために許されるとは毛頭思っていないが、発露していた敵意は薄れた。
基より聡明なリリーであるから成り立ったことであり、これがもしも物事の裏を読むことが苦手な直情型のルイーズであれば不可能だっただろう。
なので、案内役がリリーでよかったとセドリックは密かに安堵する。
「大まかに理解はしました。ですので王命の内容を包み隠さず全てを話しなさい」
「それは······」
「不可能だ、とは言わせませんよ」
リリーはセドリックと裏路地との間に森閑として足音一つないままに立ち、穏やかな、だけども強い口調でリリーはセドリックの逃げ場を物理的にも会話的にも塞いだ。
セドリックの左の頬を温もりのない汗が伝う。忠誠心と罪悪感に両天秤に掛けた葛藤によって歯はうまく噛み合わさらず微かに震え、瞳は若葉の静麗な光を失う。
そしてセドリックは誇り高き貴族としては最上級の屈辱となる膝を付くという行為と共に乞うように言う。
「······何でも致しますのでそれだけは御容赦を」
「そうですか······分かりました。心優しいお嬢様に免じて聞かないことにして差し上げます」
絞り出すような言葉に対する意外な返事に、セドリックは意表を突かれて青柳色の瞳を見開いた。
王の懐刀と名高く忠誠を以って仕えるセドリックが秘された王命の情報を漏洩することはありえない。
それは当然リリーも理解している。情報の精度には定評のあるカナリアによって齎された情報なので、まず正しいとみて相違ないだろう。
王手を決めたと言わんばかりに余裕綽々のリリーの支配する数合の沈黙のそばでセドリックも考えていた。
セドリックとてミスランティ辺境伯とその周囲に対する調査はしっかりと行っており、勇敢令嬢の専属侍女で辺境伯婦人の親友でもあるリリーの性格も把握している。
その性格は高効率をもって貴しとなし、フィリーネが絡まない場面での無駄な行動を嫌う。
となれば、リリーがどうして効率が悪いどころか零に等しいこのやり取りをしたのだろうか?
セドリックは気づかないままだったが、その答えはすぐに出た。
「······その代わり、私に協力してください。セドリック様は王命の情報漏洩でなければ何でも致してくださるのでしょう?」
セドリックはリリーの意図を知って絶句する。
(やられた!リリー殿は初めからこのために私に王命の漏洩を迫ったのか。くそっ、嵌められた!)
端からリリーには王命の内容を知るつもりはなかった。
重要ではあるのだろうが大凡の見当はつく。何より教えてもらったあとで王命を変更されては意味がなく、利益と代償の釣り合いが取れるものではない。
王命の内容などという些細なことを知るよりは、セドリックの生真面目な性格を利用してリリーの本当の目的に手を貸してもらうほうが良い。
セドリックは一度約束したことは決して破らない。
今もセドリックは蛇に睨まれた蛙のように縮こまっているが、それは考え方を変えればセドリックの脳内に約束を反故にする選択肢がないことの証明でもある。
セドリックの正体を知ってから即席で作られた無駄のない最高効率の立ち回りである。
「それほど、戦々恐々と慄く必要はありません。何もアルメニタ王を裏切るよう仕向けるわけではありません。私が本懐を果たすのを手伝って欲しいだけです」
「リリー殿の本懐、ですか?」
「ええ、私にとってはこの世の何よりも大切な御方を拘束してやまない過去の出来事から救い出してほしいのです」
セドリックはその御方が誰を指し示しているのか、瞬時に理解した。
一瞬だけセドリックがフィリーネにした仕打ちのことを指しているのかと勘繰ったものの、すぐにそうではないと判断する。
「内戦······ですか」
「御明察です。貴方も情報を操るのなら把握しておいででしょう?内戦に於いて、お嬢様が勇敢令嬢と讃えられる反面でその影に何が起こったのかを」
「ええ、まぁ·······御二方とも重要な方でしたから記憶に刻まれていますが······っ!そういうことか」
セドリックはフィリーネ達に起こったことを声に出しながら反芻して漸く答えに思い至り、ポンと手を打つ。
リリーはセドリックが不思議と忘れていた記憶を思い出したことに満足げな様子で頷き、そして話を続けた。
「生来心が強くはないお嬢様は極度に悲しんだ記憶を忘れることで身を護っています。ですがそのせいで大切な記憶までをも失ってしまっているのです」
「そうでしたか······」
リリーの言葉にセドリックは思わず沈痛な声を零す。
そこには後悔の色が強く滲んでいる。
事実であればセドリックの行った対処方法は根底から間違っていたと言わざるを得なくなるから当然だ。
フィリーネの悲しみが最小になるために行ったはずのことが知らなかったとはいえフィリーネを最も傷つける方法になっていた。
セドリックの心の中には良心の呵責だけでなく、よく解らない、胸を千本針で刺し尽くすような痛みが襲う。
「政争の結果でありますので、あの事を恨んでいるわけではありませんし、当時のセドリック様の立ち回りを責めているわけではありません」
フィリーネを想って自責するセドリックを見て、どこか共感するところがあったのか、慰めるような台詞を言う。
「ですが、あなたを許すつもりはありません」
「存じております」
セドリックはフィリーネに対する仕打ちの責任を逃れるつもりはない。
今は関わらないように裏から手を回して案内の代理を仕向けたのも、会えばフィリーネが悲しみを思い返すのでは、という心配からくるもので、会う方がフィリーネに利益があると判じ、リリー達から恕されれば会うだろう。
それが分かっているからこそ、リリーはセドリックを一方的に憎むわけではなく、他方でその"利益"という観測情報に頼って会うかどうかを決める姿勢を嫌っている。
ただ、リリーの目的を果たす上では優秀な駒であることもまた事実
「バルデン宮中伯······いや、セドリック・イーリス・フォン・ハドール。私に協力してください」
リリーにとってフィリーネの前には些細な好き嫌いなど取るに足らない塵である。
厳しい視線を崩さないまま、心のせめぎあいをより大きな波で呑み込んで、リリーは気迫を備えて依頼した。
「言っておきますが、拒否権はありませんよ」
セドリックは目を瞬かせる。
断るつもりは勿論ない。王命を遂行する機会でもあり、なによりも傷付けてしまったフィリーネに贖罪する機会である。
しかし命令口調に変わったことに驚いたのだ。
「故意ではない?不可抗力?予想外?そんなことは聞いていません。わざとであろうとなかろうと、お嬢様を傷つけたのは事実。謝って済むのなら治安維持も騎士団も必要ありません。私は怒っているのです。想定外の反応があり、あなたの思い描いたそれとは全く違う結果であろうと、恣意的に傷つけた貴方を·······」
その瞳には怒りの感情はさることながら、セドリックにはフィリーネがまた悲しみに囚われることへの恐れがあるように思えた。




