ひとまずの仲直り
氷祭りが終わってフィリーネは再びディアラドへと帰還していた。
今日はセドリック達にとっては二度目の初顔合わせが行われることになっており、セドリックがフィリーネの住むミスランティ辺境伯別邸へと来ていた。
「お初にお目にかかりますバルデン宮中伯様。わたくしはミスランティ辺境伯令嬢フィリーネにございます」
「こちらこそデイム・ミスランティにお目にかかることができて光栄です。宮中伯などそう畏まらずに私のことはどうぞセドリック、とお呼びください」
フィリーネは記憶を無くしているので、セドリックと以前に会ったという空気を微塵も出さずに応対した。
セドリックもリリーが側に控えているからか、彼女の方を意識しつつも初対面を装う。
「はい。それではセドリック様と、これからは呼ばせて頂きますね。ですのでセドリック様も私のことはフィリーネと呼んでくださいな」
「それは······」
セドリックはフィリーネに対してしてしまったことを思い出して、そして自分の目的とフィリーネの願いの相違に逡巡して口籠る。
「片方が名前を呼ぶのであればもう片方が同じ様に名前で呼ぶのは当然でしょう。主従ならばともかく、わたくし達は同格の婚約者なのですから。わたくしの友達も······」
セドリックと対面した時から満面の笑みを崩さないままのフィリーネだったが、一瞬だけ表情を曇らせた。
セドリックは思わずちらりとリリーを見る。
リリーが仕事用の微笑みの下に、僅かに満足感の灯りを燈しているのにセドリックは気づいた。
「どうかしましたか?」
リリーの計画通りに進んでいるようだとはいえ、フィリーネの突き刺すような曇り空に不安を抱かずに居られないセドリックはフィリーネを案じる。
「いいえ······何でもないのです。ただ少し······なにか忘れているような·······って、今はそのような些事は必要ありませんね。心配させてしまってすみません」
「私は······私は貴女が大事無ければ良いのです」
感情を引きずり続けたものの、自分の役割を思い出したセドリックは途中で自分の発言を切り替えた。
そして欠点のない作り笑いを浮かべる。覆い布があって見えないはずだが、少しだけでも気の落ちた様子のフィリーネを励ませればいいと思ってのことだった。
「そう言っていただけてわたくしは嬉しいです」
フィリーネは明るい声で演じるように言った。
セドリックはそんなフィリーネを見て喜ぶべきはずなのにそうは思えなかった。
水分の比率が少し変化しても、手で優しく撫でようとしただけでも崩れ去ってしまいそうな未だ固まっていない砂糖菓子を見ているような気持ちだった。
ふと視界の端にリリーが映り込んだ。
日光でリリーの近辺は眩しかったので気の所為かもしれないが、心無しか悲しそうに見えた。
(フィリーネ様を案じていたリリー様の気持ちが分かるような気がするな。それに·······)
「ところで!ですね、セドリック様はわたくしのことを"フィリーネ"とお呼び頂けるのでしょうか?」
重くなりかけた空気をゆくりなく払う、伸びやかで明るい声が対面の場に響く。
同時にその快活な声はセドリックの思考をもやすやすと取り払ってしまう。
(やはりフィリーネ様はフィリーネ様だな。記憶を持っていようといまいと変わらない。中々どうして、私の忌まわしくて大切な過去を忘れさせてくださる······)
フィリーネを見ていると、被害者は彼女なのに己が彼女に対してしでかした罪の重さを薄くしてくれるようだと、セドリックはそう思う。
覆いの下で愉快に顔がほころぶのを感じた。奇跡的に、布のお陰でフィリーネ達には知られず済んだようだ。
セドリックは本来の用途以外で覆い布があってよかったとこれほど思ったことはない。
(結句隠しておくべきではないな。リリー様には悪いが)
そう心のなかで呟いて決心を固めてから、セドリックはフィリーネに話しかけた。
「分かりました。誠に僭越ながら以降はフィリーネ様と、そう呼ばせて頂きます」
「そんなに畏まらなくても······わたくし達は婚約者なのですもの。初対面とはいえそれくらいは普通でしょう?·······あぁ、ミスランティの領民たちのことを気にかけて下さったのですね。······確かにお世辞にも両家の関係は良好とは言えません。ですが、わたくしは"セドリック様"と婚約したのであって、ハドール侯爵家の令息と婚約したつもりではありません。いくら実家が敵対していようと、わたくし達はわたくし達ではありませんか」
リリーによって口外法度とされているため、セドリックと対面した記憶を忘却したことそのものを忘れたままのフィリーネは両家の貴族としての関係性がそうさせているのだと推察した。
それは奇しくも本当の初対面のときと全く同じ言葉で、セドリックはフィリーネが変わらない同じ思いでいることに一抹の喜びを感じた。
そんな余談は他所に置いて、ともかくセドリックは説明するために口を再度開いた。
「実は私は、ミスランティに来てからフィリーネ様とお会いしたことがあるのです」
「そうだったのですね!······失礼ながらわたくし、覚えていなくて、よければいつのことが教えてくださいますか?」
「私にはそれを伝える権限はありません。どうしても、都仰るのならリリー様に聞いてください」
その瞬間、フィリーネは背後に侍っていたリリーを振り返ってその瞳を見た。信じられない、という表情だ。
「リリー、リリーは知っていたのですね。わたくしが記憶を失っていただけで、セドリック様とお会いしたことがあったということを」
「······」
「はい」
この場で初めてフィリーネは尖った声を出した。
不吉な気配を感じてセドリックが口を挟むより早く、リリーは冷静沈着に返事をした。
「どうしてそれを······どうしてそれをわたくしに教えてくれなかったの?」
「それは······」
「私から話させてください」
「セドリック様?」
原因がセドリックにあると知らないフィリーネはセドリックが口を挟み、更には自分が説明すると発言したことに驚きを隠せないような様子だ。
「実は私が、私のせいであなたは記憶を無くしてしまったのです」
「セドリック様のせい······?」
セドリックは頷く。
リリーが何かを言おうとしているようだったが、セドリックは無視をした。
「私はフィリーネ様を傷つけてしまいました。······こうして今ここで平然と貴女と対面しているのが烏滸がましい程の言葉で傷つけてしまいました。きっと、リリー様はそれを案じて敢えて隠していたのだと思います」
「本当ですか、リリー?」
「はい」
リリーは眉一つ動かさずに肯定した。
それを見て、フィリーネは安心したような表情でセドリックに向き直る。
「状況は掴みました。ですがなぜです?リリーが黙っているのなら言わなければわたくしは知らないままに、セドリック様にとっては最も都合が良いはずです。なぜわざわざ面倒な真似を?」
フィリーネは腑に落ちない様子だ。それもそうだ。無駄に労力を使う道をあえて選ぶ必要はない。
「今、私がわざわざそれを告げたのは、あけすけに言ってしまえば自己満足、隠しておきたくないと、そう思ったからです。私はフィリーネ様に酷い物言いをしました。それを謝罪します」
セドリックは頭を下げた。
フィリーネからの返事はない。
「分かりました」
長い間の後に、フィリーネはそう答えた。
「貴方はとても心がきれいな人なんですね」
「·······どういうことですか?」
「だって、わたくしに言わないままの方がよかったのに、それをわざわざ伝えてくださったではないですか」
「それはそうですが······」
セドリックは話が予想外の方向に進んでいくのを感じて困惑気味に答えた。
彼の考えとしては、これでフィリーネが少しでも自分に悪印象を抱いてくれることを期待していた。
それなのに今のフィリーネには悪印象どころか好印象を持たれているような気がした。
「フィリーネ様は怒らないのですか?」
「どうして怒るのです?」
何度か会話の応酬を挟んでもなお状況に変化が見られないことにしびれを切らしたセドリックが、フィリーネの思いの核心にせまる質問をした。
これで少しは変化する、とセドリックは安堵したが、フィリーネはそれでも何も変わらなかった。
「えぇと、······私は傷つけたのですからフィリーネ様がお怒りになるのは当然では?記憶を失ったとなれば、相当の暴言を受けたと考えるのが筋だと思いますし」
「確かにそうかもしれませんね」
やっと望んでいた言葉に近づいたことにセドリックは何故か拳を見えないようにして握りしめた。
「ですけど、私は不思議とセドリック様への怒りが湧いてこないのです」
「······はぁ」
これでまた振り出しか、と意味もわからない言葉を呟きながらセドリックは肩を落とす。
「気にしない、という形で水に流してしまいたいのですけれど······そのご様子ではそれではセドリック様にご納得がいただけないようですね。なので、こういうのはどうでしょう。ひとまず仲直り、という形で矛を互いにいったん収めるのです」
「それなら、まぁ」
セドリックは思い描いた結末になっていないことに混乱しつつも、これ以上進展する余地も粘る理由もないので、とりあえず了承してあの日以来続いていた緊張状態に休戦符を打つことになったのである。




