閑話 アイリス・シュネー 前編
明日も18時前に投稿します。
これは物語の始まる数年前のお話
* * *
フィリーネ・リラ・ミスランティはデビュタントのために遥々北方のミスランティ辺境伯領から王都に来ている。
しかし今、彼女は壮絶な危機を迎えていた。
(ここはどこでしょう?)
フィリーネは広い広い王宮で道に迷っていた。
理由は何と言うこともなく、初めて訪れた王宮の中をひとり勝手に歩き回ってしまったからだ。
とはいえ、このような場には基本的に両親などの親族の誰かが介添人として付き添うのがこの国の習わしである。
故に本来であれば道に迷うなどあるはずがないのだが、今回に限っては少々の事情があった。
実は王都に行きたがる貴族がほとんど居ないという特殊な環境下のミスランティではそもそも王宮でのパーティーに参列することは殆どない。
なので介添人を務められるのは自ずと辺境伯とそのごく周辺だけであり、今回は当然のように辺境伯夫妻が付き添いを務めていた。
しかし辺境伯夫妻は国王より内密に招集されてしまい、まさかまさか、フィリーネがパーティー会場に慣れるより早く、彼女の側を離れてしまった。
数年後こそ勇敢令嬢として武名を王国中に轟かせているフィリーネであるが、今は10歳かそこらの少女である。
まだこの頃のフィリーネはどちらかといえば内向的な性格であった。人見知りもそこそこな人物なので、王宮という特殊な圧迫空間も作用して、ひどく緊張していた。
しかもフィリーネにとっては悲しいことに、パーティーに参加する貴族令嬢達は大抵が王都住まいの人物ばかりである。
元々の関係もあって仲の良い令嬢のグループのようなものも存在しているため、とても内気なフィリーネの入り込める隙は無かった。
······勿論、フィリーネは国内有数の大貴族の令嬢であるからして、誼を結びたいと考える貴族は多い。なので、それなりに話し掛けられて然るべきだ。
だがフィリーネが緊張で顔が強張り、その幼いながらも可憐な美しさも相まって妙な近寄り難さを生み出していることに彼女だけが気づいていない。
なにはともあれ、フィリーネは誰かと話すこともなくただ一人で両親が戻ってくるのを待ち侘びていた。
しかし、ただ社交界の壁の花となっているのも栄光あるミスランティ辺境伯の矜持として有り得ないこともフィリーネは知っているので、会場から離れようと思ったのだ。
所謂、騒がしさに疲れてしまいまして······的な空気感を出して外の風に当たることで、矜持を傷つけないようにとフィリーネは考えたのである。
敷地の場所を理解していない人物、それもデビュタントの令嬢がおそらく一番やってはいけないことである。
とにかくフィリーネは会場を離れたは良いものの、肝心のバルコニーや庭園の位置が分からず外に出れなかった。
仕方なく帰ろうとしても、迷路のような王宮ではどこを進んで来たのかを把握することもできず、八方塞がりの状況へと期せずして追い込まれた。
「ここはどこなの?」
声を漏らしてみるも、この頃は大きな声を出せなかったフィリーネのか弱い声では誰の耳にも聞こえない。
「ぅ······リリー、ねえ出てきてよ······うぅ」
フィリーネはぐすっとすすり泣きながら、とある侍女の名前を呼ぶ。
片時も離れたことのない、フィリーネにとっては第二の母親のような侍女なのだが、今回は生憎同行していない。
なのでいくら泣いて呼ぼうとも神でもないリリーが現れるはずもない。フィリーネもそのことは重々分かっているのだが、やはり心細いときは一番信頼できる人に寄り添っていたいと思うものである。
フィリーネは頬を伝って流れ落ちる涙を隠すこともできずに名前を呼び続けた。
「どうかしましたの?」
泣いているフィリーネの背後を、唐突に穏やかな声質の心配そうな声が襲う。どこか遠慮がちな声だ。
通常なら醜態を目撃されたことの羞恥心が湧き上がる。
声を掛けた少女が聞きにくそうに質問したのも、それを心配してのことだった。
だが今の針程度まで心細くなったフィリーネは、少女が予想だにしない全く別の行動を取った。
「リリー!」
「······ぇ?」
頭がごちゃごちゃのフィリーネはあろうことか、初対面の人物に向かって抱きついたのである。
見当違いの人物の名前を呼んだことで少女は困惑しつつも状況を何とか理解してくれたようだが、それは慰めにもなりはしない。
ーーーこの少女が幸いにも悪意なき人物であったために免れたものの、もしもミスランティ辺境伯領に害意を持つあるいは邪魔に思う相手なら最悪の事態だったと、後で報告を少女から秘密裏に受けたアルベールは頭を抱えた。
とはいえこの少女はとても優しいのか、フィリーネを傷つけないようにそっと優しく頭を撫でる。
未だ勘違いをしているフィリーネは安心したのか、涙で不明瞭な視界を保持したまま、少女に向けてへにゃりと笑いかけた。
「安心してくださいな」
「あれ······?リリー、じゃない······?ひゃあ!?」
今更ながらフィリーネは、抱きついた少女がリリーでは無いことに気がついた。
そして自分が今、何を仕出かしているのか、フィリーネは遅蒔きながらも理解して青褪めた。
······声も違えば体格も違う。冷静に考えれば間違う要素は一つもないのだが、この時のフィリーネはそれほどまでに心細さに苛まれていたのだ。
「ごめんなひゃい!」
噛んだ······
フィリーネはやっと芽生えた羞恥心に襲われて、泣いたせいで赤くなっていた目蓋が気にならない程に赤面した。
少女は耐えられなくて、フフッと優雅に笑う。
それだけで少女が高貴な人物であるのだと、ちょこっとだけ冷静になったフィリーネは直感した。
これはかなり失礼なことをしてしてしまったのでは?というのがこの時のフィリーネの偽らざる感想だ。
ーーー事実、この後に話を聞いたリリーは大目玉を食らって、フィリーネの礼儀作法の教育にさらなる力を入れたそうである。
「大丈夫ですよ。わたくしは気にしませんから。それよりもお名前をお教え下さいませんか?」
「······フィリーネ・ミスランティです······貴女は?」
「あ、名乗っていませんでしたね。わたくしの名前はアイリス・シュネー、アイリスとお呼びください」
フィリーネが名前を聞き返したことに僅かに眉を上げたものの、それはさして気にされることもなく、アイリスも名前を教えた。
そして、アイリスはフィリーネから泣いていた理由を聞き出す。何か悪い事に巻き込まれていた可能性を心配していたアイリスは、その理由が道に迷ったことだと分かると胸を撫で下ろした。
「そう、それは良かったわ。良ければフィリーネも庭にいらっしゃいません?星がとても綺麗なの」
「は、はいっ!よろこんで!」
フィリーネは取り敢えず流されるようにしてアイリスに付いていくことに決めた。
彼女がどんな人なのかは知らないが、これまでの振る舞いからして悪い人ではないと、フィリーネは信用した。
「もしかしてフィリーネも星を見るために?」
「······えぇっと、そんなところです」
「まぁ!それじゃあ、早く行きましょう!」
実のところ、フィリーネは王宮の庭は星が綺麗だとか、そんな話は全く知らない。とはいえ綺麗な星は好きだ。
そこまで庭園に興味があるわけでもないので、話ができそうなアイリスが会場に戻るのなら戻っていた。
しかし、アイリスは庭園に目的があるようだし、とはいえ壁の花にはなりたくないのでついて行く他ない。
アイリスはフィリーネを案内するようにして一歩前を歩き始めた。心なしか喜びに満ちた足取りになっているような気がする。
(そんなに星が好きなんだ)
半分不正解なのだが、状況を把握しきれていないフィリーネはそうとは気づきもしない。
そんなこんなでフィリーネは庭園に向かう。
アイリスの後ろをひょこひょこと、それはさながら親鳥についていくカルガモの如き様相で、庭園へと歩くのだった。
今回は以前のリリー視点の閑話で登場したフィリーネの友人との出会いの話です。




