初春の草部
鮮やかな橙色の光が東の空を染めている。眩しいであろうその光を直接受けている雲は何とも表せない程の絶妙な赤色にまるで頬を染めている様だった。
その反対側の西の彼方ではまだ夜の帳がその幕を引き上げている途中である。その狭間にある空はまるで満ち引きをこれから交代する海のように色を忙しなく変えている。
暁とはこういう事を言うのだろうかと思いながら、凛はまだ誰もいない住宅街を一人歩いていた。
朝の澄みきった冷たい空気が肺に入り込む。一呼吸するたびに古い空気と新しい空気が入れ替わるのが分かるほどに朝は空気が澄んでいる。
その中で見れる空の変わり行く姿は何とも言えないものがあるのだ。
しかし、凛はあることを不思議に思っていた。早起きは三文の得という諺がある。だが、凛は今のところ得はしていない。もし今見ているこの光景を得とするなら、その人間は三文分損をしているような気もした。三文損得もせずこの光景は見れるからだ。
そんな今日日。凛が早起きしたのは他でもない。今日から凛にとって新たな不思議が始まるからだった。
しかし、至って眠れなかったという訳ではない。わくわくと楽しみにしていた訳でもなく、ドキドキと不安に思っていた訳でもない。
それが何なのか分からないからこそ凛は何とも思わず、いつも通り早くに起きただけの事でもある。
だがそれでも何か凄い事が起きるのは間違いないと凛は踏んでいた。草部家は昨夜から落ち着きがなかったのだから。
宗太の妹である茜はめんどくさそうにけれども嬉々としていたし、宗太はどこか楽しみにしていた気がするのだ。それに父の祐一郎と母の美和子もどことなく嬉しそうであった。凛も良かったなどと言われたがあまりピンとは来なかった。
もしそれにときめくというのであれば、凛は今の景色の方がよほどときめきを覚えた。それは凛自身が謎と言うものでもあったからかもしれなかった。
とにかく草部家がときめいてる事柄には、今日から始まるという学校には、凛は些少もときめかなかったのである。
宗太は現在大変困っていた。
隣にいるのは黒いスカートに白のイラストが書かれたTシャツを着ている少女である。名前は橘凛。あることから草部家に家の事情で引き取られたという名目で住んでいる十一歳の少女である。
凛は十五歳の宗太の胸ほどの高さか少し低いくらいの身長しかない。その代わりか容姿は可愛らしいと思うものである。
標準的な体型より少しだけ痩せている体躯に、あどけなさも残るような丸い小顔。丸みを帯びて弧を描く目と通った鼻筋。肩よりも長く風に靡きそうな艶のある黒髪。美和子と茜からはジュニアモデルや子役に出ても可笑しくはないと言われている程に可愛らしい見た目なのだ。その見た目の可愛らしさは宗太も認めているところである。
しかし、凛の本来の姿はある者を殺すことだけを願い、美麗の一言に尽きる白い刀を持ち、死装束のように白い着物を着た姿で幽霊や妖怪を退治、いや殺す少女なのだ。
その諸事情により草部家に凛は住んでいるのだが、宗太の家族に何かをしたために記憶が塗り替えられ、草部家では親戚の子を引き取ったことになっている。
そして妖怪を殺す時の姿は可愛らしさの欠片もなく、返り血を浴びようとも怪我をしようとも気にせず相手を殺す事だけに徹する少女なのである。
宗太としては凛の血塗れで獣のような目付きをしたその姿はあまり好ましくないのだが、何度か助けられて自分からそこに飛び込んでいるため、あまり嫌とも言えないのが現状でもある。
それでも普段の凛と接する事には宗太はそれほど嫌だとは思ってはいない。あまり感情を表に出すこともないが、時たま見せる笑顔は幾分も好感を持てる程だ。ただ、気難しく大人びた謎の雰囲気の性格を除けばだが。
そんな凛が隣に居て、宗太は今非常に困っていた。
凛の背中には白い鞘の刀ではなく、赤の真新しいランドセルが背負われている。その中身は筆箱とノートだけでほぼ空っぽとも言える。
対する宗太は取り立てて目立つところもない紺色の制服を着ていた。肩には学生鞄を掛けている。
そう今日から宗太は高校生になり、隣で物凄く不機嫌な少女、凛は小学五年生になったのだ。
そんなめでたいのかめでたくないのか分からない日に、凛は家を出てから宗太と一切口を聞いていない。その原因が凛自身にあり、宗太としては何も悪くないと思っているため非常に困っていた。
宗太は恐る恐る凛に声をかける。すると瞬く間に横目でギロリと猛獣の如き目で睨まれた。
その目に宗太は思わず怯んでしまった。
「と、とりあえず学校に刀は持ち込み禁止だから諦めてくれよ」
「…………」
無言でプイッと顔をそらされた。凛はまるで全身の毛が今にも逆立ちしそうな程怒っている。ご立腹そのものである。
「いや、ていうかあれを持ってるだけで犯罪なんだって」
正当性を訴える宗太の言葉には耳を貸さないとばかりに凛は前だけを見続けている。先程から弁論の一つも通らないのだ。
なぜこうも分からず屋なのかと宗太は溜め息を吐いた。
事の始まりは物凄く簡単である。愛刀を学校へ持っていくつもりだったのであろう凛から宗太は刀の入ったバットケースを奪い隠した、というだけなのだ。すると案の定凛は刀はどこかと宗太に尋ね、最後には朝から元気ねと母美和子に言われるほどの取っ組み合いにまでなったのだ。その結果と代償から宗太は顔に絆創膏を貼っていて、取っ組みあいでどちらが負けたかは言うまでもなかった。
しかし、それでも持っていかせないために宗太は刀を隠したまま、嫌がる凛を連れて家を出たのだ。
そして現在、凛からの一方的な無言を貫かれて一緒の登校となっている。
しかし、宗太もここまで凛が頑固だとは思わなかったのだ。頭が切れる少女だからこそ説明をすれば理解してくれる。そう思っていたのが間違いだったのか。
「あの刀は大事かもしれないけどさ、それでも持ってくのはダメだろ?銃刀法で刀を所持していたら子供でも捕まるかも知れないんだって。だから確かに大事なものは肌身離さずっていうけど刃物の携帯は許されないから。そこは分かってよ」
と、そんな宗太の真っ当な弁論も凛には空しさを覚える程届かない。
それどころか、
「知ってます」
と冷たく一瞥を食らう始末だ。
宗太はそこに十一歳という微妙な年齢の少女に早くも気持ちが通じない悲しさを一人嘆いた。
十五歳の新しい春の始まりに。
「ケータイはランドセルの中に入れといて。何かあの事で用があったら瑠美でも俺にでも電話して。もしかしたら先に瑠美から連絡が」
そう言う少年、宗太の言葉を終わる前から背にして凛は歩き始めた。後ろで溜め息を漏らす声が今にも聞こえてきそうで少しだけ気持ち早めに凛は足を進めた。宗太の言葉が今の凛には不愉快極まりないのだ。
話の始まりはもちろん刀の問題から始まっている。最近まで共にここまで来た唯一の旅の連れが、持ち歩けず奪われそして隠されたのだ。それを非道というのは大袈裟かもしれない。しかしそんな事をしでかした人間と話す言葉など凛には何一つもなかった。何かあったら電話しろと言われはしたが、凛は宗太に電話するつもりが隠された時点から既になかったのだ。
とはいえ凛も大人げないとは思っている。隠されたくらいでここまで怒らなくともというのは理解している。しかし、凛にとってあの刀は命と等しいくらい大事なものなのだ。それを取られて黙っていられるはずもなく、出さないし持っていかせないと言った少年にその場で掴み掛かりのしかかり馬乗り状態で叩き掛かってしまったのだ。
その事を凛も多少なり悪いとは思っているのだ。だが、その時の事を思い出すと凛はさらに煮えくり返るような怒りが込み上げてくるのだ。
宗太は恐らく覚えてはいないだろうし、全くそんな気はなかったのだろうが、凛ははっきりと覚えている。あの間の抜けた少年があろうことか叩きあいの最中に胸を触ったことを。
それは間違いなく事故である。しかし、触られた感触もあり、恐らく向こうも触った感触があるはずなのだ。
それなのにも関わらず謝罪の一言もなし、だ。
凛とて女の子でありこれでも女性である。しかも、成長期だ。微かとは言え、茜同様胸もあるのだ。
それが凛が口も聞かず電話する気もない最大の原因だった。
先程の刀の不当所持の時点で持ち込み禁止については分かりたくないが凛も納得はした。だが、隠したことと触ったこと両方の謝罪がない時点で喋る気などさらさらなかったのだ。隠したのなら説明して出せばよかったのだ。触ってなくともそれらしくごめんと言えば凛も素直に許していた。
だが、隠されたままで謝ることもない宗太を凛は許すつもりが全くなかった。
少年からすればこんな自分は頑固に見えるのだろうと凛は納得もいかないままそう思った。しかしその要因は向こうが作り出したのだ。明らかに悪いのは向こうである。
凛は早朝の事すらまるで嘘かのようなその気持ちで今日から毎日通う学校へと向かった。
赤く沸き立つ思いに、少年を一発ぐらい本気で殴れば良かったと思いながら。




