雪融けを告げる白い桜―完
花日町五間。街灯の明かりが人気のない住宅街の道をぽつぽつと照らしている。街灯の下と軒並み並ぶ家々の明かりだけが、夜風の冷たい道の暖かさを生んでいるような気配を醸し出していた。
その中で凛は思いを馳せるようにそこから空を見上げた。見えるのは眩しいほどに煌めく僅かな星だけで、小さな星は町の明かりで掻き消されている。いや、見えないだけで確かに小さな星も存在しているのだ。
凛が幼き頃に見た鳥肌を覚える程の満点の星も、この町では見えない。それを凛は色々な場所を巡る中で嘆いた。夜空に煌めく壮大な星々の宴を見ることも、それに思いを馳せることもこの町も今までと同様にできないのだ。
凛は星を見て鬼伏神社や餓鬼に関わる数々の事、他の化け物に関する事を思った。餓鬼に関するものだけでもその全ては噂や怪奇現象で片付いてしまうのだ。餓鬼を見ていたとしてもやがて歳月を経れば忘れてしまうものである。それが見えず知られる事もない星はないのにも等しい。本当に真実はごく僅かな人間が知っていればそれで良いのだ。
凛はそう思いながら前を向いた。目の前には癖のついた黒髪が跳び跳ねる草原が見える。首の途中までの少し湿っていてテカるその髪の毛のせいか、ゴツゴツとしたうなじのせいか。凛はつんとする汗の臭いに僅かに顔を後ろへと引いた。
そして目の前の少年へと言う。
「あの、お手数お掛け致してます」
「いや、別にいいよ……それよりもこっちこそありがとう」
「いえ、私は大したことはしていませんから…………。それよりも手伝って頂いた上に運んでもらって申し訳ないです」
「いや、このくらいだったらどうってことないから……」
と、何度目か分からない誉め称えあう事と遠慮をして、言うこともなくなり二人は口を閉じた。
鬼伏神社での宗太に対する餓鬼の最後の攻撃は、凛の咄嗟の判断による餓鬼の側頭部への刺突により間一髪、負傷者もなく防がれたのだった。
それは恐怖と覚悟で目を瞑っていた二人には何が起きたのかも分からない状況だったであろう。
瑠美が悲鳴を止めて、宗太が片目からゆっくりと開けた時には、餓鬼は地面を血で濡らしながら消えかけていて、凛は二人の側で倒れていたのだから。
その奇怪な事象は簡単な事だが凛にはかなりの負担であった。餓鬼が通り過ぎ逃げるように叫んだその瞬間に、凛はほぼ腕の力だけで支えにしていた刀と鞘を軸にして、二人の所まで飛んだのだ。最後の最後にそんな人間離れした業を見せて、宗太にあと一歩で触れられそうだった餓鬼を殺すことに成功したのだ。
だが、そのままでは飛んだ勢いで二人にぶつかると思った凛は止まろうとして、鞘と足を地面に立てて餓鬼に刺した刀を素早く引き抜き、無理矢理に止まったのだ。足から全身に走る激痛と引き換えに。
そうして助かった二人はその光景を見て慌てふためいた。餓鬼は消え、自分達だけが立っていて、前方で立っていたはずの少女が隣で倒れているのだから。
咄嗟に救急車を呼ぼうとしたそんな二人に、凛は痛みから来る汗を流しつつも上半身だけを起こし、救急車を呼ぶ事よりも先にやるべきことを説明した。
地獄の道を閉めなければならないためにまずは敷石の欠片を集める。そしてそこに凛は血で御札代わりとして文字を書くつもりだったのだ。それを本殿の上に決められた通りに置くだけの簡単な物だ。
それを言われた二人は凛の事を優先させたのだが、凛は固くそれを拒んだ。壊れそうな自分の足よりも地獄の道を閉じることが凛にとっては遥かに優先事項だったのだ。
二人は凛に背中を押されるように敷石や本殿の瓦礫を集め、凛はそこに蛇がはったような文字を書き連ねた。それを二人に本殿へ置かせた後、二人に無事役目を終えたことを伝えたのだった。そうしてしばらくすれば歩けるようになるからと言った凛を放っておくわけにもいかず、宗太は凛をおぶって花日町一間までを歩いて来たのだった。その際、人のいる道を歩くともあって凛は着物を脱ぎ、Tシャツと体の間へと服を押し込んでいた。刀も折り畳んだバットケースに入れて服の中へ押し込んでいた。その後道の違う瑠美と別れ、二人は草部家を目指していたのだ。
「あの、もうそろそろ大丈夫です」
凛は宗太に降ろすよう頼んだ。多少足は痛むとて歩けなくはないと思ったのだ。
宗太は頷いて凛を降ろした。凛は膨らんだ服を体に押さえながら地面へ足を着けた。
「っ!」
電気が走るような一瞬の痛みに凛は顔を歪めた。宗太は凛を手で支えながら、
「歩いても大丈夫なのか?」
と、心配な顔で声をかける。凛は黙って頷くと、着物の中から黒いバットケースに入れた刀を取り出した。
「大丈夫です。ありがとうございました」
凛は微笑むような顔でお辞儀をした。そんな凛に宗太は足の事を心配して言う。
「大丈夫ならいいけど無理しない方が…………」
「いえ、大丈夫ですから行きましょう」
強めた口調で言った凛に促されて宗太は歩き出す。普通よりも少し遅めに歩く凛を宗太は横目に見て考える。
おぶられるのが嫌だったのか、恥ずかしくて我慢でもしているのだろうか。それとも本当に治りつつあるから歩いているのか。ただの気遣いだろうか。
横で歩く凛を不思議に思いながら、宗太は住宅街を家へと進んでいく。
凛に対する不思議など宗太にはいくらでもあるのだ。常に携帯する刀の事。現れて人を襲う化け物の事。ほとんど一切話さない少女自身の事。ある者を殺したいという目的の事。しかし、それを根掘り葉掘り尋ねた所で少女は簡単には言わないだろう。家族の記憶の置換をした事すら話さないのだから、それらの事を少女が話すなど宗太は到底思えなかったのだ。
そのために何も聞いてなかったのだが、宗太は歩きながら気まずさを感じた。凛と二人になると話すことが見つからないのだ。世間話をした所で凛はさほど興味がないのか、生返事を寄越すだけである。子守神社の桜が見れなかった事も宗太は話してみたが、そうですか、の一言で終わりである。
何を話すかと迷い、やはり宗太は先程の事を口にすることを決めた。あの瞬間なぜそうしたのかを聞くために。
「あのさ……」
それでも宗太は躊躇うかのように口ごもり声をかけて間を空けた。凛は、はい、と返事をした。
「なんであの時縦とか横じゃなくて真横から刺したんだ?」
凛は尋ねられて首を傾げた。宗太が何の事を聞いているのか分かっていない様子だった。
「ほら、駆けつけた時に現れた奴を横から」
「ああ……あれですか」
凛は頷くと神社での最後を思い出すかのように道の先を見つめた。電灯や家々の明かりがまるで灯籠のような仄かな明かりで道を照らしている。
宗太はまた黙ってはぐらかされてしまうのだろうかと思い、
「なんであの時真横から」
と声を出した。そんな宗太の問いに凛は前を向いたままコクりと頭を縦に振った。
「あの距離で横に振っていたら宗太さんは今ごろここで私と歩いてなんかいません。縦に振っても同じことだったので、突き刺す形にしただけです」
必要な事だけを言って黙った様子の凛に宗太は顎に手を添えて腕を組んだ。宗太は凛が持っているバットケースを横目に見た。
刀は凛の身長、宗太の胸程はあるのだ。その刀身を横にすれば体二つ分はゆうにある事が分かる。それを間近で振れば人二人は容易く斬れる事になるのだ。
それが分かり宗太は凛の言葉の意味が分かったのだった。凛の異常な速度で駆けた勢いが刀の長さに重なれば、もし餓鬼が目の前にいた時横に刀を振っていたら、餓鬼どころか宗太と瑠美の三人は腰や首から真っ二つの姿だっただろう。縦に振ればそれはそれで化け物だけを斬れるが、息が掛かるほどまで迫っていたのだ。下手をすれば宗太も瑠美も一緒に縦に割られている事になる。
それが分かった所で宗太はあの緊迫した状況でそこまで冷静だった凛に改めて畏怖などを込めて感心した。時間にして僅か数秒である。その中でそれだけの判断ができたのは少女の経験かそれとも元からなのか。どちらにしてもそれだけの判断を少女がしていなかったら自分達は死んでいるのだ。それを思うだけで宗太は背中をなぞるような寒気を感じた。真っ二つにされる自分など想像したくもなかった。
邪念のようなそのイメージを掻き消して、正解を選んで対処した凛に、そこでやっぱり宗太は頭を抱えてしまう。うーんと唸り声を上げる宗太に不思議そうな顔をして今度は凛が尋ねた。
「どうしたんですか?」
宗太はいつの間にか閉じていた目をパッと開いた。
「いや、色々思うと不思議でさ…………凛ちゃんって一体何者なの?」
聞いていることが真剣な疑問だが思わず宗太は笑ってしまった。尋ねてることが凄く馬鹿げている気がしたからだ。
だが、そんな疑問に凛は黙り少し下を向く。アスファルトの黒と光の白が混ざりあう道が目に映った。色々と不思議で何者なのか。そんな事は凛自身知らないのだ。いや、不思議だった事は最近少しずつ分かり始たのだ。俗世は違うと教えられた事の意味も、自分が他人と大きく違うと言うことも。最近改めて知ったのだ。その中で分かったことはやはり自分の家系自体が全くの別世界だったということだ。凛はケータイと呼ばれる存在も知らなかった。ネットと呼ばれる存在も、電車も車も、刀を持ち歩く事がいけない事だとも知らなかったのだ。さらには着物は自分達以外今は着ていないと言うことも、凛には普通というものの全てを知らなかったのだ。
そんな環境で生きてきたからこそ、凛は自分が何者なのかと聞かれ、不思議だと言われる事も分からなかった。
けれども凛はこれだけは言えた。それを恥ずかしげもなく胸を張って口にした。
「私は…………人間です」
「うーん、いや、それは分かるけどさ」
笑う宗太に凛はクスリと微笑んだ。
凛は人間であるならそれで良いのだ。化け物を殺せるのならそれで良いのだ。目的の者を手に掛ける事ができるのなら、凛はそれだけで良いのだ。それ以外に意味はいらなかった。
凛は空を仰ぎ隣へと言う。足の痛みは薄れている。
「飛んで帰りましょうか」
「いや、別にそれは」
直後、慌てる宗太を掴んで凛は飛んだ。
月が綺麗に夜空に浮かんでいる。
それは――一人の少年の絶叫が悲痛な程に響き、月明かりの影の中で少女の服がバサリと鳴り、誰にも知られることのない化け物退治が起きた夜の出来事だった。




