初め
窓辺に木の光沢を引き出した大きな机が置かれ、肖像画が掛けられている壁際にはトロフィーや古ぼけた本が飾られている棚があり、透明なガラスのテーブルを挟んで黒い革のソファーが四つ置かれている広い部屋の中央。朝だというのに白色灯が点いているその部屋に凛はいた。
「橘凛さん……橘って珍しい苗字だよね?」
ふわりと沈み込むようなソファーに座る凛の前で、同じソファーに座るいかにもという優しそうな顔付きの校長先生が柔らかな声で尋ねた。
それに凛は膝に手を置いて背筋を伸ばしたまま首を小さく縦に振った。
「はい。木の名前でもあまり聞かないし言わないですよね」
凛の返しに校長先生は笑っているような丸い目を開いて驚いた。
「おー、木の名前ってよく知ってるね。植物とかは好きなのかな?」
「いえ、好きという程ではありません。校長先生は植物はお好きですか?」
「いや、実は私も好きと言えるほどじゃないんだ」
「左様ですか……」
校長先生の言葉に特に返すこともなく凛は頷いた。
凛と校長先生が二人きりになって早二十分。校長先生も話しているうちに凛の話し方や態度で何となく凛が他の子と違うのが分かっていた。入ってきてきちんとお辞儀などをする姿は十一歳にしては素晴らしい物だった。受け答えもしっかりしている。作法なども心得ている辺りどこかのお嬢様か何かと思ったぐらいだった。礼儀には事欠かないのだが、話すのが苦手なのか人と接することが苦手なのか、堅苦しい雰囲気も校長先生は受けていた。そこから校長先生が心配していたのは凛がクラスでやっていけるかである。
礼儀は良くとも素っ気なさが角となりクラスで浮いてしまう気がしたのだ。そのためずっと話題などを変えて校長先生は色々と話しかけているのだが、どれも左様ですかそうなんですね、とあまり興味もなさそうに終わってしまうのだ。
校長先生はそこに加えて凛を下の名前で読んでみても苗字で読んでみても、嫌がることも喜ぶこともなく何も言わなかったのだ。校長先生がこの年の子が好きそうな話をしても興味はないのか反応が薄かったのだ。それでも唯一話が進んだのが出したお茶の事や昔話くらいだったのだ。
校長先生は、お茶に両手を据えて静かに飲んでいる凛へ、その事を尋ねてみることにした。
「んー、橘さんは人と話すのは苦手とかあるのかな?」
凛は一瞬目を閉じて湯飲みを口から話すとお茶うけへと戻した。
「……いえ、苦手ではないです。得意でもありませんけど」
「そっかぁ……」
校長先生が何とも言い返すことの出来ない言葉に苦笑した。掴み所が全くないのだ。
校長先生の困惑している様子に凛はとうとう見かねて、
「あの、私がこんな事言うのもなんですが、構わず放って置いて貰っても大丈夫ですよ」
と、校長先生が本気で困ってしまうような事を言ったのだった。
花日町四間小学校。文字どおり花日町四間の住宅街にある小学校で、花日町のほとんどの小学生がこの学校へ通っている。その生徒数は一クラス約三十人、一学年では約六十人程になる。
校舎の外観は横幅の広いコの字型の三階建てで、色は白を基調としている。その校舎裏にはプールや駐車場などの敷地があり、校舎の一階奥からは離れのように建っている体育館へと続く外通路があった。
そんな校舎や敷地内は合併や老朽化による改修などで新しいが、学校自体の息は長く、設立から四十年近い時を経ているのだ。何百何千という生徒と共に過ごしてきた歴史があるとはとても思えない程綺麗な学校の、今日はその新たな一ページでもあるのだった。
正面玄関から屋上まで続く中央階段。それを上った三階の踊り場に凛は辿り着いた。いくつもの窓から射し込む光が、磨かれたタイル床をまるで新しい物のように輝かせている。洗い場の蛇口から水滴の落ちる音や各教室から声が聞こえる程、三階の廊下には誰もいない。凛の前を歩く、黒と紺の間の色のジャケットを羽織る山瀬先生以外は。
「緊張するかもしれないけど名前とあと好きな物とか言えれば大丈夫だから」
「はい、分かりました」
凛は声に出して頷き、山瀬先生の後に続いた。
山瀬先生はこれから凛が過ごすことになる五年一組の担任である。身長は凛より頭二つ分高く、肩や背中が張っていて難いが良い。モアイ像のような角張った顔の形で鼻も高い。頭は黒髪で短く先が少しカールしている。そんな見た目から生徒からはモアイ先生と愛称をつけられていた。
廊下を少し歩き、扉の上の方に五の一と書かれた札があるそこで山瀬先生が止まり、凛も止まった。
「じゃあ入ってって言ったら入ってきて。それまではここでちょっとだけ待っててね」
と、言われ凛は頷いた。山瀬先生がはにかむと扉を開けて教室へと入っていった。
凛は外で待ちながらあの先生は見た目はそこそこだが優しい雰囲気があると感じた。それが最初だけなのかどうかは分からないが、使う言葉に変な癖も尖りもない。遠回しに何か言うわけでもない。
凛は待ちながらああいう雰囲気が朝から喧嘩をした少年にはないのだろうかとしみじみ思った。
勝手に刀を隠しても謝らず、あろうことか胸を触っても謝らず、こちらが悪いと決めてケロリとして説教をする。見た目も性格もそこそこでどっちつかずの少年には優しいという雰囲気はないのだろうかと思いながら、凛ははぁと息を吐いた。
そうしてダメというレッテルを貼られた宗太の事から凛は今からの事に集中した。あれの事は後回しである。
凛が宗太の事を考えてしまったのは宗太の妹の茜が同じ教室にいるのもあったのかもしれないのだ。緊張しているわけではないと自分に言い聞かせて凛は少しばかり深呼吸した。
「それじゃあ入って」
言われた通り、凛は扉を引いて開けた。壇上に立つ山瀬先生のにこやかな顔がまず目に留まる。続いてその壇上の前、何十もある机の前に黙って座る同い年くらいの少年少女達が目に飛び込んできた。
一斉に向けられた新しい友達への喜楽の籠った視線が凛に集まる。静まり返る室内に重苦しい空気が漂っているのを凛は感じた。
彼らは決してそんな目では見ていない。だが、凛にはそれが異物を見るような目で見ているような気がしたのだ。何かとてつもない魔物がいる場所に足を踏み込んだような感覚。お前は誰かと言わずとも怪訝な目を向けられているような視線。人がいるにも関わらず、静けさを壊してはならないかのような雰囲気。
それは凛が最も嫌う空気だった。
それでもどうにかこの空気と視線が嫌いだという事は顔に出さず、凛は扉を閉めて壇上へと向かった。
何十人分もの視線を受けるのは化け物退治で慣れているのだが、それはあくまで一時の好奇心や不審感からのものである。あれは誰か。何をしているのか。あの噂の子ではないかというものであって直接自分に及ぶものではない。その事が一連の噂で関わっていても普段の自分に差し障りは全くないのだ。噂を信じて追ってきて、関わろうとする変わり者のあの例外二人を除いてはだが。
しかし、今ここにいるほとんどが向けている視線は普段受ける物とは違っていた。これからしばらくの間共に過ごす者としての資格があるか否かという審査のような物の気がしたのだ。そしてそれが声にも何にも出さず密かに行われている。静けさの中で。
今すぐ出直したい気持ちの中、凛は壇上に立った。ここで引いたら余計に変であると思ったのだ。
そうして喋ろうとした途端、山瀬先生が口を開いた。直後、凛はさっきまで好感を持っていた山瀬先生を一瞬で嫌いになった。
「えー、今日からしばらくこの教室で一緒に過ごすことになりました橘凛さんです。橘さんは家庭の事情で草部さんのお家で暮らすことになって、この町に最近引っ越してきました。えーっとじゃあ、そうだね。先生が話してもしょうがないから自己紹介してもらいましょう。じゃあ橘さん」
そう言われて凛は山瀬先生に顔を向けた。今あなたが自己紹介し終わりましたと言わんばかりに。
しかし、山瀬先生はどうぞという笑顔を凛に向けて、凛の後ろにある黒板へと向いてしまった。凛は内心先生に舌打ちするほどの気持ちになりつつ、けれども横目に向けられている視線に自己紹介と思い目の前を向いた。繰り返しでも良いから何か喋らなければこの雰囲気からは逃れられないのだ。
「今日からこの学校で皆さんとお世話になります橘凛です。歳は十一です。私は先程先生が仰られたように家の事情で草部さんのお家にお世話になっております。えー…………」
と、凛はそこで一瞬自分を見る全員の顔が変な物でも見るような顔付きや目付きになっている事に気が付いた。皆が口をぽかんと開けているような顔をしている。まるで驚いているようだった。
何かおかしな事を言ったのか。使う言葉でも間違えただろうかと凛は教室中の様子を伺った。
凛は、小学校の自己紹介でいきなり尊敬語、丁寧語、謙譲語をかます子はいないという事を知らない。もちろんおかしな目で見られる空気を作り出したのが自分にあるということもわかってはいなかった。
言葉を選び何を言うべきか口ごもっている凛に、
「好きなことは何かな?」
と、黒板に凛の名前を書き終えた山瀬先生が尋ねてきた。室内の空気に動揺していたせいか凛は迷う事なくそれを頭に浮かべてしまった。一瞬で興味をそそられるとも知らずに。
「剣術の腕を磨くことです」
先生も生徒も目を丸くした。好きな事が剣術の腕を磨く事である。凛にとってはそれが普通だとしても普通は中々剣術には出会えない。興味を惹かないというのはむしろ無理な事だった。
だからこそ、
「えっーと、橘さんのおうちは道場なのかな?」
「えっ……」
と、凛はそこで初めて答えの選択に失敗した事に気が付いた。教室の大半が目をキラキラと輝かせていたのだ。それは隣にいる山瀬先生も同じであった。
その羨望のような眼差しに耐えきれず凛は目が泳ぎ、スカートの裾を自然と握っていた。ここで否定すればなぜ剣術の腕を磨くのかと聞かれるのかは目に見えている。ならば、
「は、はい……家は小さいですが道場みたいな所でした」
と、成り行きに任せるしかなかった。
「そうなんだ。それは凄いね」
山瀬先生の言葉に何人か頷いている事に凛は焦った。充分すぎる程に興味は惹いている。僅かに俯く姿も周りから見れば照れているように見えているはずだった。
そんな中、
「じゃあゆくゆくは後を継ぐとか考えてたりするのかな?」
と、言われて凛は目を見開いた。床と前列に並ぶ机と人の足が目にはっきりと飛び込んでくる。山瀬先生の足も、教壇も、クラスの顔も、窓も。周りにある物全てが視界の中でどんどんとぼやけていく。
その答えは継ぐ予定です、だ。そう言えば何となくだが治まる気がしたのだ。それなのにも関わらず、その言葉が出なかったのだ。
「橘さん?」
スカートの裾を持ち俯く凛を不思議に思って山瀬先生は尋ねた。そこにクラスの目も自然と向いた。急に黙ってしまった凛にそれぞれが不審感を抱いた。やがてひそひそと話す者も現れて山瀬先生は注意した。
ささやき声や不思議な目を向けられる当の本人である凛は歯を食いしばっていた。そうして心の中で言うべき事を唱えていた。
継ぎます。継ぎます。継ぎます。継ぎます。継ぎます。継ぎます。継ぎます。継ぎます。継ぎます。継ぎます。
「継ぎません」
「えっ?」
山瀬先生が困惑した顔を凛へと向けて、教室のざわめきが静まり返った瞬間、
「継ぎません」
と、凛は顔をあげてもう一度言った。考えていた事とは真逆の事を。
「継ぎません。それとなぜという質問にもお答えできませんし、したくないので言いません。以上です」
早口で言った凛の言葉に教室中が本当に静まり返った。
「そ、そっか……なんか嫌な事を先生は聞いちゃったみたいだな。ごめんな」
「いえ…………こちらこそ申し訳ないです」
謝る山瀬先生に凛は言った。笑おうとしても笑えない山瀬先生の顔が凛は横目に見えた。
「ま、まあとにかく皆、今日から一年このクラスで一緒に過ごす仲間としてよろしくな。じゃああの窓際の空いている席に」
「はい」
凛は窓際の一番後ろの空いている席に向かった。
「ランドセルは後ろの空いてるところに置いていいから」
凛は短く答えて、早足で教室中の嫌悪するような視線が向けられる中を通った。冷たく刺すような視線や耳打ちする姿があちらこちらに見られた。先程の不快感が既に教室中に広がっていた。
けれども、凛は数秒前に言った事を後悔していなかった。突然怒ったような印象を受けられたかもしれない。言い方も悪かったかもしれない。それでも凛は後悔などしていなかった。
家を継ぐという言葉も、こんな不快感しか与えない空間も、ここにいる人間も嫌いなのだから。そして凛は先程の教室の様子で、ここは自分が嫌うものが全て揃っていることを確信した。
そうしてランドセルを同じような物が並ぶ長い棚の中に、筆箱とノートだけを取り、仕舞うと、凛は言われた席へと座った。
隣の席は深緑色の長袖を着た男の子だった。宗太の妹の茜は三つ先の列の右斜めである。茜は微かに凛を見て、失敗だったねと言うような苦笑いを浮かべていた。凛はそれに小さく頷いて返した。
心配と同情と迷惑。茜の顔にはそれらが混ざっているように凛は見えた。一緒に暮らしているのだから茜にも少なからず何かあるのだろう。後で茜には謝らなくてはならないと凛は思った。勝手な居候の身である以上茜には迷惑が掛けられないのだ。
そう思った所で隣から声が掛かった。
「僕峯藤海翔。凛ちゃんだったよね?よろしく」
海翔は少し痩せていてひ弱な体型だった。真ん丸な目が女の子のようで、柔らかい笑顔がとても似合う男の子だった。
凛は海翔に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
そして、頭を下げて凛は笑われている事に気が付いた。これまた何がおかしいのかわからない。
「改まらなくてもいいんだよ。もっと楽にしてさ」
クスクスと笑う海翔に凛は疑問を覚えながらも何となく頷いた。
楽にしているつもりなのになぜ改まらなくて良いと言われるのか分からなかったのだ。凛にとっては改まらなくていいと言われるこれが楽にした時の言葉なのである。それなのにも関わらず、使っているだけなのに皆に笑われる。
凛はその事が理解できず、頭を傾げるように顔を窓の方へ向けた。
窓からは遊具や倉庫のような建物が置かれている広い校庭が見え、学校の敷地外には住宅街が建ち並んでいる姿も見えた。
そこを見ながら凛は悩んで考えた。やはりどこか何かが自分は違うのだろうか。何かすれば笑われて、何か言えば可笑しいと思われている。けれどもそれが凛にとっての普通なのだ。自分ではそれが全く分からない。
そんな思いを凛は春の霞に包まれた青い空へと向けた。




