第百四十七話
身ごもったクーアが大きくなる腹を撫でながら子守歌を歌う姿は、ごく普通の家庭を築けたような気がしてなんとも心が温かくなる光景だった。
もちろん二人とも出産・育児は初めてなので、不安もある。それを助けてくれたのは、私が受け継いだ記憶の遺産だ。身重のクーアの扱い方、買い揃えておくべきものなど、あらゆることを記憶の遺産が助けてくれた。
小柄なクーアの腹が驚くほど大きくなった、秋の暮れ。いつ産まれてもおかしくないなと日々をそわそわ過ごしていたとき、彼女がうちの店にやってきた。
「はあい、エル! 久しぶり!」
豊かに波打つ艶のある青い髪が目を惹く、バクの女。行商人の夫とともに旅をしているので丈夫な旅装束に身を包んでいるが、それでも分かる女性らしい見事なボディラインは若い頃から相変わらずである。
ユニアとロニアという双子の母であるニーアだ。いつ会っても明るい笑顔を絶やさない彼女は、双子を産んだとは思えぬほど若々しい。
「きみが訪ねてくるとは珍しいな」
「うちの子たちがとってもお世話になったって言ってたから、お土産持ってきたのよ」
そういえば双子やミモラがこの家で過ごしていたこともあったな。随分と昔のように感じる。
「はい、ご当地ジャムの詰め合わせ。こういうの好きでしょ」
「ありがたく受け取らせてもらおう」
ニーアがくれた紙袋はずっしり重く、中からは瓶同士がぶつかるかすかな音がした。旅の途中で買い集めてくれたのか。クーアは外出が減っていたから、こういうものはいい気分転換になるに違いない。
「ところであなた、結婚した?」
ニーアの言葉にどきりとした。
思わず顔に出てしまったようで、ニーアがあははと軽やかな笑い声を上げる。
クーアのことは誰にも話していないのに、噂になっているとは。まだ腹が目立たなかった頃のクーアが私の家を出入りする様子や、二人で歩いている姿を見た者から噂が広まったのかもしれない。用心していたつもりだったのに。
「本当だったみたいね。奥さんは家?」
「その、なんだ、身重でな」
「あら、幸せいっぱいじゃない。おめでとう」
素直に祝ってくれるニーアを見ていて、彼女に助けを求めるべきかという悩みが頭をもたげた。
クーアは医者に診せられるはずがないし、産婆も呼べない。私が子供を取り上げるつもりでいた。
だが、正直不安しかない。
記憶の遺産は性別関係なく受け継いでいるので、もちろん出産に関するものもある。しかしどれも「産んだ」というものばかりで、「子供を取り上げた」というものがないのだ。
私に出産の経験があるはずもないので、なにをどうしたらいいかまったく分からない。
それらしい本をいくつか読んでみたが、風呂で産むのが自然だのなんだのと著者の意見ばかりが書かれていて、結局どうしたらいいのかは分かっていない。
私が双子の進路について世話をしたのだから、ニーアは私たち夫婦を助けてはくれないだろうか。
とんでもなく口の堅い彼女ならば、頼ってもいいのではないか。
たしかニーアはひとりで双子を産んだと、以前話していたのだ。
「やあねえ、そんな困った顔して。どうしたの? ニーアちゃんに言ってごらんなさい」
ニーアの言葉に、思ったことがすぐ顔に出る己の素直さを恥じた。だがせっかくなので、恥をかいたついでに彼女に話を振ってみる。
「ニーア。きみは、私の秘密を守ってくれる気はあるか?」
問えば、ニーアが一瞬目を丸くした。しかしすぐにたおやかな笑みを浮かべる。
「もちろんよ。なんでもひとりでどうにかしちゃうあなたが頼ってくるくらいなんだから、よっぽどのことなんでしょう?」
「まあな。ちょっと家に来てくれ」
店の入り口に「休憩中」の看板をかけ、ニーアを連れて家に引っ込む。ニーア以外の者に話を聞かれるわけにはいかない。
「きみはひとりで双子を産んだと言っていたな」
廊下を歩きながら問えば、ニーアがすぐに返事をしてくれた。
「そうよ。旦那は行商に出かけてたし、家にはあたししかいなくて。産婆さんを呼びにもいけないし、病院まで這いずっていくわけにもいかなくて、夜中にひとりで死ぬ思いをして産んだわよ。旦那ったら、翌日にやっと帰ってきたと思ったら血まみれのベッドを見てひっくり返っちゃうし。あのときは大変だったわね」
とんでもない経験のはずなのだが、それを語るニーアの調子はまるで笑い話をするかのようだ。
「そんなきみを見込んで、頼みがあるんだ」
「へえ?」
「私の妻の出産を手伝って欲しい」
正直、あの華奢なクーアから赤ん坊が出てくるなんて想像もできない。だが腹は順調に大きくなったし、たまに「あっ、今この子ったらお腹を蹴ったわ」なんてクーアが口にする。だから間違いなく、クーアから新たな命が産まれるのだ。
それなのに赤ん坊をどうやって取り上げるのか分からない。もう頼れるのはひとりきりで双子を産んだ驚異の母親ニーアしかいなかった。
「奥さんは人には言えない種族ってわけね」
人里で受け入れられない魔物は、ハーフセイレーンだけではない。魔物であればそのあたりは嫌でも耳にして育つので、ニーアはすぐに理解してくれた。
「ここで暮らしているのもばれてはいけない種族なんだ。だから、絶対に秘密にして欲しい」
ニーアを伴って向かった先は、クーアの部屋だ。私の母が使っていた部屋は私物を片づけて、今ではクーアのものになっている。
「ニーア、私たちを助けてくれるか?」
ドアの前で立ち止まってニーアを見れば、
「もちろんよ。あなたが初めて頼ってくれたんだから、命に代えても秘密は守るし、奥さんも絶対に助ける」
力強い言葉を返してくれた。
「だって、あたしの初めての彼氏がやっとお願いをしてくれたんだもの。叶えるに決まってるわ」
私たちが付き合っていた――とは言っても、ニーアが勝手に彼女宣言をして、更に勝手に私を振ったのだが――のは、はるか昔のほんのひとときだ。そのときはニーアの「あたしに任せなさい!」という頼もしい性格の世話にはならなかったが、彼女のそんな性格は相変わらずのようだ。ちなみに口が堅いニーアなので、私たちが付き合っていたのはいまだに誰も知らないはずである。
「クーア、客を連れてきた。入ってもいいか?」
ドアをノックして声をかければ、中からは「待って!」と慌てた声が返ってきた。身重の体でなにをしているのか、ばたばたと物音がする。ややあって静かになった室内からは、「どうぞ」とクーアのよそいきの声がした。
クーアの部屋は、大きなベッドのそばに古いゆりかごが置いてある。クーアの希望でそこに置いたのだ。このゆりかごで私も育った。
いつものようにフードを被ったクーアは、ベッドに腰かけていた。ニーアを見て小首を傾げる彼女に紹介をする。
「友人のニーアだ。ひとりで双子を出産した経験があるのでな。きみの出産を彼女に手伝ってもらおうと思う」
「初めましてニーアさん。クーアです」
立ち上がろうとしたクーアを、ニーアが制する。
「ああ、いいのいいの。座ってて。大事なときなんだから楽にしてて欲しいわ。よろしくねクーアさん。あたしのことは気軽に『ニーア』って呼んで」
「じゃあ、あたしのことも『クーア』で」
金の小鹿亭でリザと会ったときにも感じたが、クーアは人との距離の詰め方がうまくなった気がする。私と初めて会った頃のツンツンした雰囲気はどこにもなく、余裕のある対応をしているのだ。これも旅で身に着けたものなのだろう。
それでもさすがに初対面の相手が出産を手伝うと聞いて、クーアは少なからず不安を覚えたらしい。頭が少し動いて、フード越しに私へと視線を向けている。
「大丈夫だクーア。ニーアはとんでもなく口が堅い。絶対にきみの秘密を守ってくれる」
「心配だったら、赤ちゃんを産んだ後にあたしの記憶を消してくれていいわよ」
明るく笑うニーアの調子は、クーアの警戒心を少しずつ溶かしていく。ニーアは初対面の相手の懐にもするりと入り込むのが得意だ。それがクーアにも効果があって、安心する。
彼女たちがあれやこれやと話して小一時間。
二人の間に漂う空気は、昔からの友人同士のように柔らかなものになっていた。




