第百四十六話
「エル、それって、庭のネムノキを捨てるってこと? バクにとってネムノキがどれだけ大事なものかは、キールに教えてもらったわ。それなのにそれを捨てて旅に出るなんて」
「承知の上だ。たとえあの木を捨てることになろうとも、私は家族との暮らしを選びたいんだよ」
寝食を共にして、言葉を交わし、心を通わせる。その時間はかけがえのないものだ。子供が両親に愛されたと感じて自分に自信を持つかどうかは、日々の触れ合いにこそかかっていると私は考える。
家族がひとつになれるのなら、あの木を捨てて旅の夢喰屋になってもかまわない。
私のもとへ帰ってきてくれたクーアとの未来がどんなものであれ、それを手放すつもりなど私にはなかった。
「エル、それならもうひとつお願いがあるの。これもずっと考えていたことよ」
「聞かせてもらおう」
「あたしたちの子供がバクだったときのことよ。子供が五歳になったら、あたしをあのネムノキのドリアードにして」
ドリアード。
以前出会った変態魔術師イオリと同じ状態にしてくれと、クーアは言っている。
「どうして……」
「魔術空間を使ったところで、あたしの存在をいつまでも隠してはおけない。あなたも分かっているでしょう? バクとして何不自由なく育った子供は、外の世界と交流を持つ日がくるわ。幼いうちは、親のことを訊かれたらうまく嘘をつけないと思うの。それならいっそ、『母親はドリアードです』って思い込ませた方がいい」
「それはそうだが」
「子供が何不自由なくこの町で暮らしていけるのなら、あたしは幸せよ。それにそうなったら、あなたにとっても、子供にとっても、あのネムノキはとても大切な木でしょ? あたしはその大切な木のドリアードになって、堂々と『お母さん』がしたいの。ドリアードになったあたしの夢で、子供に夢喰いを教えてあげて」
クーアの話しぶりからして、もうとっくに覚悟を決めているようだ。
イオリの記憶の遺産は夢喰いで手に入れたから、クーアをドリアードにするのは可能だ。だが彼女がイオリのように喋り出すのは、何十年も先のことになる。
子供がバクならば、私はクーアと言葉を交わす時間を失う。
子供にセイレーンの血が混ざっていれば、この家とネムノキを失う。
しかし子供を産まない選択は、クーアの夢を潰すことになる。
どの未来に辿り着いたとしても、なにかしらの大切なものを失うしかない。子供が欲しいという夫婦なら当たり前に持つ夢のはずなのに、私たちにはひどく難しかった。なぜ魔物というだけでこんなにも難しくなってしまうのか。
しかし、決断しなければならない。
クーアはひとりで悩み抜き、覚悟を決めて私のところへ帰ってきてくれた。
私も夫として、そして父親として、腹をくくる必要がある。
「……分かった」
熟考したところで答えはひとつしかないのだから、私は覚悟を決めた。
「子供がバクだった場合は、五歳を迎えたらきみをネムノキのドリアードにする。それ以外の場合は、家族で一緒に旅に出よう」
なにもかもを手に入れようだなんて、傲慢だ。人生は得るばかりではない。失うことで前に進むときだってある。
私たち夫婦の場合は、たまたまその失うものが大きすぎるだけなのだ。だがそれで家族としてひとつになれるのなら、その未来を選ぼうではないか。
「約束だ」
クーアの夢を私たち夫婦の夢とする契約に、私は同意した。
「うん、約束」
フードから覗くクーアの口元が微笑む。
「エル」
「うん?」
「どんな未来になったとしても、あたしたちはずっと一緒よ」
「ああ。生涯をかけてきみと子供を愛するよ」
その日、私たちは初めて寝室を共にした。正式な婚姻届を出せない私たち夫婦には、どの未来が正解かなど分からない。けれども家族というごく普通の幸せを求め、儚い希望というものを探るようにして、お互いの夢を重ねた。




