第百四十八話
行商人の夫にうまいこと説明してくれたニーアは、いつクーアが産気づいてもいいように我が家でほとんどの時間を過ごしてくれた。その甲斐あって、深夜にクーアが破水したとき、ニーアは準備万端で彼女の部屋にいてくれた。
私はというと、湯を沸かしたりタオルを用意したりと駆けずり回ったわりには部屋に入れてもらえず、ドアの外をうろうろと往復しながら室内の様子に耳を傾けていた。
「いやあああああもう無理いいいいいい! 産むのやめるうううう!」
「産むしかないのよ! 力んで! ほら肩が出るわ!」
室内から響いてくる二人の声は、まるで野戦病院を思わせる迫力だ。「男はいてもショックでひっくり返って使い物にならないわよ」とニーアに部屋を追い出されたのだが、いったい中はどんな状態なんだ。
いやまあクーアの尋常ではない絶叫を聞くかぎり、とんでもない惨状なのだろうが。
これ以上叫んだらクーアが死んでしまうんじゃないかとおろおろしていたら、そのときはきた。
赤ん坊の泣き声だ。
今まで散々叫んでいたクーアに張り合うかのような泣き声が、室内から聞こえてくる。
もう入ってもいいだろうか。
いやでもまだニーアに「いい」と言われていない。
クーアは無事か。
赤ん坊の種族は。
喜びと不安が頭の中でぐるぐると渦を巻き、落ち着かない。
私がやっと室内に通してもらえたのは、すっかり赤ん坊の泣き声がおさまってからだった。ドアを開けてくれたニーアの服が血まみれで、その迫力に意識が遠のきかけたのは秘密だ。
なんとか平静を保ちながら歩み寄ったベッドでは、クーアと赤ん坊が並んで横たわっていた。
「エル」
「クーア」
フードが脱げているクーア。彼女の顔には汗で赤い髪が張りついているが、表情は達成感で輝いていた。愛おしくて、ニーアがそばで見ているのも忘れて愛妻に口づけを落とす。
「見て、エル。男の子よ」
クーアのすぐ隣にいるしわくしゃのサルみたいな生き物が、もぞもぞと動いていた。
肌の色は褐色。髪は青。
「ほら、パパよ」
そっと頬を撫でるクーアの言葉を、赤ん坊はまだ理解していないはずだ。それなのに自分の存在を証明するように、小さな目をうっすらと開けてその色を見せてくる。
双眸は、満月のような金色。
間違いなく、純粋なバクだった。
***
「えーと、もう一度確認させてもらいますね。奥様は『庭に生えているネムノキ』、と」
「『ネムノキに宿ったドリアード』だ。何度確認すれば気が済むんだ。この分では木の股から息子が産まれる瞬間を再現しなければいけなくなりそうだな」
役場でそう毒づけば、人間の職員がなんともいえない顔で私を見てくる。
私とクーアの息子ルカの出生届を出しにきた私は、もう二時間もこの職員と同じ話を繰り返していた。
母親がハーフセイレーンとは口が裂けても言えないので、ルカの母親は庭のネムノキに宿ったドリアードとしたのだ。
人間からすれば、ドリアードは木とほぼ同義だ。つまり私は木と子を成した変人である。
だが生まれたものは生まれたのだ。出生届を受理してもらわないと、この先我が子がイリュリアの住民としてのサービスを受けられなくなる。
ドリアードがどんな存在かを説明し、「はあ」だの「へえ」だの気の抜けた返事をする職員を相手すること更に一時間半。ようやく私は、ルカの出生届を受理してもらい帰路についた。
若干の疲れを感じながら辿り着いた家の中は、静かなものだ。
それもそのはず。クーアとルカは、私が作った魔術空間の中にいる。
私が結婚したという噂をニーアが知っていたので、警戒した私たちはルカとともに隠れられる魔術空間を作ったのだ。
クーアの部屋のドアを五回ノックすれば、愛しい妻子がいる魔術空間へと繋がる。
うきうきとした気分で中に入ると、クーアの部屋によく似せて作ったそこでは母子が一緒に眠っていた。お昼寝の時間だったか。
この暮らしが、ずっと続けばいいのに。
愛らしい二つの寝顔を眺めながら、私は心からそう思った。
***
時が流れるのはあっという間だ。
つい先日生まれたばかりだと思ったルカはすくすく育ち、つかまり立ちをしていたかと思えば走るようになり、私たちを「パパ、ママ」と呼んでよく笑う子に育った。一日のほとんどをクーアと過ごしているからか、バクだというのになかなか活発な性格である。ちなみに顔はクーアに似て、少しばかり勝ち気そうだ。
風呂上がりにすっぽんぽんで走り回るルカを追いかけるのが、私とクーアの日課だった。
クーアの一日は、そのほとんどが魔術空間で過ぎていく。ルカもそれが当たり前と思い、彼女のそばで昔話を聞くのが好きであったから、我が家はなんの不自由も感じずにクーアという存在を隠して暮らせた。
私の誕生日。
クーアの誕生日。
ルカの誕生日。
家族の祝いごとを軸に我が家の季節のイベントは巡り、時は過ぎゆき、ついにルカが五歳を迎えた翌日。
満月が綺麗な秋の夜に、私たち家族は庭へと出ていた。
クーアをドリアードにするという約束を果たす為だ。
クーアはルカを産んでから、一度も外出していない。それでも私がルカを健診に連れていったりしていたので、私には妻がいるという噂が町の中にふわふわ漂っている。店に来る客の中には、「奥さんは?」なんて聞いてくる者もいるくらいだ。
ルカもルカで、健診で会う子供たちと仲良くなっていたから、いつか彼らと母親の話もするはずだ。
だから私は、クーアという存在を守る為にも彼女を今夜ドリアードにしなければならない。
ルカが何不自由なくこのイリュリアで暮らす為に必要なのだと分かってはいても、もうクーアの笑い声を聞くことはないのだと思うと、やはり寂しい。たっぷり五年という時間をクーアはとってくれたが、だからといって「はいそうですか」と割り切れるものではなかった。
なんともいえぬ気持ちを抱えたままクーアを見れば、クーアはルカと「お夕飯美味しかったねえ」なんて話していた。
今夜の夕食は、クーアのリクエストでペペロンチーノだった。
私と彼女が初めて一緒に食事をしたときのメニュー。それを、彼女は最後の晩餐に選んだ。
「ねえルカ、ママの宝物貰ってくれる?」
「なあに?」
フードつきマントを羽織ったクーアが、ルカの小さな手に一冊の本を持たせる。
私が旅立つ彼女に渡した本だった。
「これはね、とても不思議な本なの。読む人の心を、鏡のように映してくれるわ。まだルカには難しい言葉が多くて読めないと思うけれど、いつか大きくなってなにかに悩んだとき、この本を開いて。ルカ、大切にしてくれる?」
「うん!」
ママが大好きなルカは、ママの宝物を貰ってごきげんだ。
「それじゃあエル、お願い」
「……クーア」
「エル、お願い」
クーアは子供を産んでから、とても押しが強くなった。出産という経験は、彼女を一気に成長させたのだ。
私も父親として強くあらねばという思いはあるものの、クーアの芯の強さの前にはまだまだだという気がしている。
ルカには、クーアがドリアードになるとは教えていない。
ドリアードのクーアが、木が枯れないように元の姿に戻るのだと、教えていた。
右手でネムノキの幹に触れ、左手でクーアの手を握る。
ネムノキとクーア。二つの魂に魔力を流し、丁寧にほどいていく。ふんわりとした糸のようにほどけたそれらをひとつひとつ結びつけ、ひとかたまりの魂として束ねる。
ひとつでも間違えば魂に傷がつき、その時点でクーアやネムノキが死んでしまう作業だ。
とても真剣な気配を察したようで、ルカは私のズボンをぎゅっと掴んで黙っていた。
やがてクーアの華奢な手から体温が失われ始め、代わりにネムノキがほんのりとぬくもりを帯びていく。
私に見えているクーアの姿が、水彩絵の具のように薄れだす。
「エル」
月光が照らす景色が透けて見えるほど薄くなったクーアが、私の名を呼ぶ。
「ずっと、あなたを愛しているわ」
その言葉を最後に、クーアの姿は儚くかき消えた。
クーアを守り続けていたフードつきマントが、彼女の衣服とともにぱさりと地面に落ちる。拾い上げたそれからは、もう忘れようがないほど心に刻まれた彼女の甘い匂いがした。
***
クーアがいなくなっても、ルカは「ママがいたらよかったのに」なんて口にすることはなかった。きっと私が仕事をしている間、クーアがルカによく言い聞かせてくれていたに違いない。
私と二人暮らしになってからのルカは、手伝いを率先しておこなうとてもいい子だった。クーアがいた頃の思い出を語るときだって、寂しそうな顔はしない。とても楽しかった思い出として、にこにこ私と会話をしてくれた。
そんなルカは、庭のネムノキのそばで過ごすのが好きだ。クーアから受け継いだ本はまだ難しくて読めないだろうに、大事そうに抱いてはネムノキによりかかって昼寝をしている。春になってから、そんな光景を毎日のように見ている。
ルカは家に初めて遊びにきた友人に対し庭のネムノキを指して「僕のママだよ!」なんて紹介しているが、そんなルカを嗤う子は今のところいない。息子はいい友人に恵まれたようで、私も嬉しい。
ネムノキ――クーアも、相変わらずルカを大切にしてくれている。ネムノキがただの木であったならば昼寝をしている間に日陰が移動して暑い思いをするが、クーアが豊かに茂った梢を動かしているようで、気持ちよさそうな木陰がいつもルカを包んでくれていた。
そんなクーアのそばで過ごすのは、私も好きだ。休日ともなれば、晴れた日はルカとともにクーアのそばにいる。
「ねえパパ、ママの夢食べていい?」
「おやつの時間になったら、少しだけな」
自分の夢でルカに夢喰いを教えて欲しいと願ったクーアは、おやつの時間になるとリンゴのような爽やかで甘い匂いを漂わせる。それが夢喰いの合図だ。クーアが枯れてしまわないよう少しだけ取り出した夢は、ルカのおやつになる。クーアは楽しい夢を見ているようで、彼女の夢を取り出して喰らうルカはいつも笑顔だ。
もちろん私を魅了した悪夢をクーアはたまに見ているが、ルカにそれを喰らわせるのはもっとずっと先の話だ。いつか彼が夢喰屋について理解して、真実に耐えられるようになったら。そのときは、クーアのことをもっと知ってもらおうと思っている。
私とルカを守ってくれるクーアは、いつでもほんのり温かい。その温もりを感じながら昼寝をすると、夢の中で声が聞こえるのだ。
私を愛称で呼ぶ、愛しい声が。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
皆様がよい夢を見られますように。




