第百四十三話
なにを食べようかとマルセルの手書きメニューを眺めるが、久しぶりすぎる食欲に胃がついてきてくれない。悩んでいると、メニューの端に書かれているそれが目に留まった。
ロマネスコとアンチョビのパスタ。
そういえば冬といえば、このメニューがあったな。ロマネスコが柔らかくて食べやすかった。シンプルな味わいだがかなりハマって、マルセルに作り方を聞いて家でも何度か作ったものだ。
「エルクラートさんはなにを食べますか? オニオンスープは今日もつけますよね」
マルセルがそんな訊き方をしてくる。私が悩んでいる間に、皆は注文を終えたようだ。
「そうだな。オニオンスープに、ロマネスコとアンチョビのパスタをひとつ頼むよ」
「かしこまりました。エルクラートさん、そのパスタお好きですよねえ」
マルセルの言葉に反応したのはクーアだ。
「エル、それ好きなの?」
「ああ。美味いぞ。少し食べるか?」
「食べたい!」
旅から帰ってきたばかりだというのに、クーアは疲れを見せるどころか元気いっぱいだ。旅に出す前よりも活発さが増したような気がするのも関係しているのだろうか。
他愛ない雑談に花を咲かせているうちに、マルセルの料理が並ぶ。注文したときは一人前を食べられるか少々不安だったが、実際美味いと分かっている料理を前にすると、腹の虫が小さく鳴いた。そうだな、私は死ぬつもりなどない。食べなくては。
「あっ、ちょっと、だめ、あー」
クーアのそんな声に隣を見れば、マルセルの飼い猫である丸々とした茶トラの老猫がクーアの皿を狙っている。タラとタラコのアヒージョは、老猫の心を鷲掴みにしたらしい。この猫の扱いに慣れていないクーアが慌てる間も老猫はこれ幸いとばかりに料理に顔を近づけ、ぱくっと一口いきそうになっている。
猫舌に熱々のものはかわいそうだとかそれ以前に、そんな塩辛いものを猫に与えるわけにはいかない。
ひょいと抱き上げれば、老猫は未練たらたらといった様子で前肢をクーアの方に伸ばしていた。
「こいつはいつもこうなんだ。絶対に食べさせるなよ」
クーアにそう教えれば、言葉を理解しているかのように老猫が不満そうな声で鳴く。
クーアからもらえないと分かった老猫は、今度は私の皿に目をつけたようだ。たしかにアンチョビが入っているが、その量はささやかなものだ。にもかかわらず反応するあたり、老猫の魚を求める心の強さに関心するばかりだ。
しかし老猫の健康を思えば、一口だってやるつもりはない。
老猫を抱きながらさっさと一口食べる。こうすればこいつは、獲物を取られたと理解していつも去っていくのだ。
今日も貰えないと分かったようで、老猫は「嘘でしょ」と言わんばかりに目を見開いて私を見つめた後、腕の中から抜け出してさっさと他の席へ歩き去っていった。なかなか賢い猫なので私から料理を貰えないと分かっていそうなものなのに、よくもまあ毎度めげないものだ。
落ち着いたところで、マルセルが出してくれた小皿にクーアの分のパスタを取り分け、彼女に渡す。
まあ名前のとおりロマネスコとアンチョビのパスタなのだが、この素朴な味わいがクセになるのだ。簡単に潰せるくらいくたくたくに茹でたロマネスコとアンチョビが、とろみのあるソースとなってショートパスタによく絡んでいる。ほんのりとしたニンニクの香りがこれまた食欲をそそる。マルセルは別に茹でた一口大のロマネスコもごろごろ入れてくれているのだが、これがまたほくほくとした甘味でたまらない。
派手さとは無縁のメニューだが、ロマネスコの旬になるとメニューに載るこのパスタが好きだった。
クーアの口に合うかとどきどきしつつ彼女が食べる様を眺めれば、彼女は目深に被ったフードの下でにっこり笑顔を浮かべて「美味しい!」と言ってくれる。
自分の好きなものが受け入れられるというのは、こんなにも嬉しい経験だったのか。家に引きこもらず、キールの誘いに乗って出かけてよかった。
馴れ初めなどを訊いてくるリザをのらりくらりとかわし、上機嫌になったキールが店のピアノを弾きながら歌うのに耳を傾けているうちに、夜は更けていく。
時が経つのはあっという間で、身も心も満足した私たちが店を出る頃にはリザをひとり歩きさせるには遅い時間になっていた。陽気な酔っ払いたちが目立つ繁華街を抜け、少し遠回りをして皆でリザを家に送り届ける。
「キールはいつもの宿?」
「いや、エルのとこに泊るよ」
「えーっ! いいなあ、あたしも泊まりたい!」
もう家に着いたというのに、リザがそんなわがままを口にする。
「勘弁してくれ。ひとつ屋根の下にやかましい鳥が集結しては眠れやしない」
そんな抗議の声を上げれば、
「鳥って言うなあ!」
リザに肩口を思い切り叩かれた。しかしそれでリザは気が済んだらしく、「じゃあねー。おやすみ!」なんて言いながらひらひらと手を振って家の中へと入っていく。
「さて、帰るか」
用は済んだので、我が家への道を急ぐ。私とキールがついているとはいえ、あまりクーアに夜道を歩かせたくない。早くクーアを安全な場所に連れていきたかった。
「なんか悪いなあ、新婚さんの家にお邪魔するなんてよ」
「気になるなら、今夜の部屋は庭の物置にでもするか?」
「マジかよ」
「冗談だ」
ほろ酔いのキールをからかいながら、夜道を歩く。たしかに私とクーアは新婚という扱いになるのだろうが、いまいち実感が湧かない。あまり恋人らしい時間もなかったからかもしれない。だが実感がないからといって、寂しくはなかった。
きっとこれからの暮らしは、楽しいものになるはずだから。
帰宅してキールに先に浴室を貸し、クーアを客室に案内する。さすがに今から別の部屋を用意するというのは若干面倒だったので、一晩だけここで我慢してもらおう。明日以降、母が使っていた部屋をクーアに与えようと思う。客室より広いし、日当たりもいい部屋だ。「羽なしセイレーン」の噂が消えたのだから、魔術空間に隔離する必要はないはずである。
部屋に入ると、クーアはベッドに思い切り飛び込んだ。
「あー楽しかった!」
大の字になって、そんな弾んだ声を上げている。
「キールが風呂を出たら教えるから、少し休んでいるといい」
「うん。……ねえ、エル」
部屋を出ていこうとした私を、クーアが呼び止める。だが呼び止めたわりに、なかなか続きを話そうとしない。もしかして部屋に対する苦情でもあるのかと思い待っていたら、彼女はそれまでの陽気さが嘘のように真剣な声色で言葉を紡いだ。
「あたし、『ただいま』でいいのよね?」
「今更か?」
「それは、そうなんだけど」
クーアを旅に出したのは私だ。もしかしたら彼女は、また旅に出されるのではと考えているのかもしれない。
「きみの家はここだ。きみが嫌がらないかぎり、ずっとな」
私はここをクーアの帰る場所だと信じて待っていたのだから、彼女を追い出す理由などあるわけがない。
「おかえり、クーア」
彼女が帰ってきてくれた嬉しさを込めて丁寧にそう言えば、
「うん、ただいま」
フードから覗くクーアの口元が、にっこりと微笑んだ。




