第百四十二話
もしも危惧する事態が現実となってしまったら。
起きてもいないのに心配してどうするのかと普段なら笑いとばすのに、心の片隅に生まれたそんな薄暗い悩みは日々私を悩ませた。双子の魂夢を目にしてしまったせいが大きいのだろう。
しかし悩んでいても季節は巡るものだ。私の苦しみなど知らぬ街路樹の木の葉は赤や黄色に色づき、はらはらと散りゆく。
そんな私のもとに待ち人が姿を現したのは、今年初めての雪が降った日のことだった。
一日の営業を終了し、店のドアに鍵をかけようと近づく。そのとき、外側からドアが開かれた。
「今日はもう店じまいだ。夢喰いが希望なら明日来てくれ」
「お客さんじゃなくあなたの家族だから問題ないわよね」
相変わらずの生意気な物言いだ。目深に被ったフードの下から覗く口元は、悪戯っぽく微笑んでいる。フードつきマントの下に着ている旅装束は冬物らしい厚みのある山吹色のものに変わっていたが、華奢な体型は相変わらずである。
「ほら、ちゃんと迎えて。あなたのところに帰ってきたんだから」
「おかえり、クーア」
私がそんな言葉を口にすれば、待ち人――クーアが抱きついてきた。私の胸元ほどの背丈しかない小さな体を受け止めようとして、
「ぐふあっ」
その勢いと重さに、思わずよろめいてしまった。
「ちょっとエル、どういうことよ! こういうときはしっかり受け止めてくれるのがお約束でしょ!」
「勢いがありすぎるんだ。それなりの重さのものが突進してきたら受け止めきれなくても仕方ないだろう」
「あたしはそんなに太ってない!」
「太っているとは言っていない。ただいくら華奢とはいえ人ひとり分の重さがある上に、旅の荷物を背負っているんだ。それを考えてくれと言っている」
「自分のひ弱さを棚に上げてよく言うわね!」
ついさっきまで柔らかな雰囲気をまとい「少しは成長したな」なんて私に思わせていたクーアは、すっかり小さな怪獣へと化していた。足を踏み鳴らし、肩で息をしている。これで火のひとつでも吐けたら、それはそれは強そうな魔物に見えることだろう。
そんなクーアを眺めていたら、男の軽やかな笑い声がした。
クーアの後ろにいたキールだ。緑色の羽根付き帽子の下から覗く癖毛の金色くらい明るい笑い声が響く。
「いやあ、さすがエルだな。普通なら感動の再会になるところなのに、ここまで相手を怒らせるやつはなかなかいないぜ」
「感心していないでなんとかしてくれ。一緒に過ごした時間は私より長いんだから、なだめ方も心得てるはずだ」
「さあな。クーアちゃんがこんなに怒るのは、おまえを相手にしたときくらいだもんなあ」
初耳だ。クーアはすぐにキレるから夢屋の真似という客商売ができているのが不思議で仕方なかったのだが、私にしか牙を剥かないとは。私はクーアを心の底から大切に思っているのだから、少しくらい他人よりも優しくしてくれてもいいのに。
そんな考えが顔に出てしまったようで、キールが噴き出した。
「渋い顔するなあ。クーアちゃんはおまえの前でだけ特に素直って意味だよ。喜んどけ」
「飼い犬に手を咬まれて喜ぶやつがいると思うか?」
私の言葉に、ぷりぷり怒っていたクーアが叫ぶ。
「ちょっとエル! 誰が飼い犬よ!」
「すまなかった。謝るよ。きみは犬ではなく鳥だったな」
「なんですって!」
クーア鋭い蹴りを繰り出してくる。至近距離で放たれたそれをよけきれず、脛から悶絶級の痛みが駆け上がってきた。
酷い。酷過ぎる。私はちゃんとここでクーアの帰りを待っていたのに。
そんな私の様子をひとしきり笑ってから、キールがうきうきと言葉を紡ぐ。
「まあほら、飯でも食いに行こうぜ。今日の仕事は終わりなんだろ? 美味いもん食って、酒飲んで、クーアちゃんの帰還をパーッとお祝いしようじゃないか!」
美味いもの。
そういえばここ暫く「美味い」と思えるものを口にした記憶がなかった。沈む気持ちのままに刺激のない生活を送っていたのだ。たまには気分転換をしても許されるに違いない。
なんたって、今日はクーアが帰ってきてくれた特別な日なのだから。
クーアとキールの荷物を家に置いて向かうのは、金の小鹿亭だ。暫く訪れていないのでマルセルになにか言われないかとかすかな不安を感じる。しかしマルセルも客商売だ。滅多なことは言わないはずだという淡い期待をして、私は何食わぬ顔で店の入口をくぐった。
店内は相変わらずの賑わいで、顔なじみの客たちが声をかけてくれる。彼らに挨拶を返しながら空席を探すが、残念ながらテーブル席は空いていない。空いていないものはどうしようもないので、いつものようにカウンター席に向かう。
するとカウンター席の端に、よく知る先客がいた。相手もこちらに気づいたようで、スプーン片手に声をかけてくる。
「あれ、エルじゃん。夕食? ……って、キール! うわあ久しぶり!」
弾けるような声を上げたのは、赤いとんがり帽子がトレードマークのリザだ。今日も大きなパエリアを食べている。
「リザか! 相変わらずよく食うな!」
「せっかくお腹いっぱいになるなら、美味しいものがいいじゃない!」
陽気なハルピュイアらしく、キールとリザが笑い合う。リザは下戸だし、キールもまだ酒が入っていないはずなのに、まるで酔っ払いのような賑やかさだ。
「エルクラートさん、お久しぶりですね」
カウンターの中からにこにこと声をかけてくれるのはマルセルだ。そんな彼の視線が、私の横で止まった。
「おや、そちらは?」
マルセルの問いに素早く答えたのはキールだ。
「エルの奥さん」
「奥さん!」
マルセルの表情が輝く。これ以上ないくらいきらきらとしたその様子は、私の恋人をずっと知りたがっていた彼らしい。
「えっ、なになに? エルの奥さん?」
リザもしっかり話を聞いていたらしい。
「あたしリザ! よろしくね!」
人懐っこさが漂う挨拶とともに、リザはクーアに向けてにっこりと笑ってみせた。
なにやらすっかり私の妻ということで話が進んでいるのだが、まだ正式に婚姻届を出したわけではない。それに出したところで、ハーフセイレーンのクーアでは受理されないのが分かり切っている。「羽なしセイレーン」の噂話はすっかり聞かなくなったとはいえ、クーアの正体がばれたらあっさり再燃して見る間に大きく燃え上がるのが目に見えているのだから、フードを脱いで自由きままに暮らさせることもできない。
だが悩む私を置いて、クーアはリザへと歩み寄った。
「クーアです。よろしく、リザさん」
「『リザ』でいいよ。そんなに気を使わないで」
そんな当たり障りのない言葉を交わして、なんと握手までしているではないか。
クーアの様子に驚いていた私に、キールが囁く。
「大丈夫だよ。クーアちゃんの正体暴いて痛めつけてやろうなんてやつ、ここにはいないからさ」
「……そうだな」
キールはともに旅をしてきたのだから、クーアに危害を加えるわけがない。
マルセルだって、客であるクーアが嫌がることはしないだろう。
リザがもしそんなやつだとしたら、いくら猫の悪夢を売ってくれる夢屋とはいえ関係を断っている。
なんだ。なにも怯えることなどなかった。
クーアとリザはすっかり意気投合したようで、隣同士の席で談笑している。クーアの隣をキールが薦めてくれたので、私はそこへ座った。
賑やかになったカウンター席で、マルセルが手際よく飲み物の注文をとって用意してくれる。リザはいつもの茶をおかわり、キールと私はビール。クーアはというと、シードルを注文していた。
以前クーアの誕生日を聞いたときに年齢も教えてもらったのだが、彼女は酒が飲める年齢だ。それでも小娘と呼ぶのがちょうどいいくらいの華奢な体型なので、こうして酒を注文しているのを見るとなにやらどきどきしてしまう。
「エルとクーアの結婚を祝って、かんぱーい!」
キールの陽気な声で杯を掲げる。なんとも和やかな雰囲気に、心の底から安堵した。そうすれば不思議なもので、久々に空腹というものを感じるではないか。双子の件以来あまり食欲がなかったので、懐かしさを覚えた。




