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42. 今まで何度も、そうしてきたように

 ボトっ……。


 床に落ち、倒れこんだのは、俺も同じだった。

 息が苦しい。視界がぼやける。


「クマさん!」

「クマ!」


 遠くから、花凛(かりん)伊織莉(いおり)の声が響く。


 俺はいい。俺はいいから、三人は逃げて欲しい。そう伝えたいのに、声が出ない。


「伊織莉! ロープ切れたから!」

「おう! 結希(ゆき)助けてやれ!」

「分かってる!」


 視界の端で、伊織莉が足首のプチプチを剥がすのが見える。花凛が結希に駆け寄るのが見える。


「もう大丈夫だからね」


 花凛は結希の猿ぐつわを外すと、ナイフで手首のロープを切りにかかる。


 結希の身体が、小刻みに震えている。


 怖かっただろう。


 苦しかっただろう。


 今すぐ、娘のところに行きたい。


 がんばったって、伝えてやりたい。


 偉かったって、誉めてやりたい。


 何とか俺は立ち上がる。


 足元がふらつく。


 それでも、一歩、また一歩と、歩を進める。


 娘を見る。


 震えが、さっきよりも大きくなっているように見える。


 それなのに、結希は泣かない。


 涙を飲み込んで、嗚咽をこらえようとしている。


 どうして、そんなに我慢しようとするんだ。


 悲しかったら、泣いていいんだ。


 辛かったら、泣いていいんだ。


 あの日。


 琴音(ことね)の葬儀の日。


 泣きじゃくる娘の涙を見て、もう二度と悲しませないって誓った。


 その想いが結希に伝わってしまったのかもしれない。


 だから、泣くことは悪いことだと感じてしまったのかもしれない。


 けれど、違うんだ。


 娘に泣くのを我慢して欲しいって思ったわけじゃない。


 涙を飲み込んで欲しいって願ったわけじゃない。


 娘に降りかかる悲しみを、俺が取り除いてやりたいって思っただけなんだ。


 娘にこれ以上、辛いことや悲しいことが降りかからないようにって願っただけなんだ。


 だから、泣くのを我慢して欲しいなんて思ったわけじゃない。


 娘に悲しい想いも辛い想いもして欲しくないけれど、それでも、我慢する必要なんてないんだ。


「花凛……ちゃん……」

「怖かったよね。もう大丈夫だからね」


 花凛が結希の手首を縛るロープを切り終え、足首のロープを切りにかかった。


 結希の手首には、ロープが皮膚に食い込んだ跡が、赤く、深く、くっきりと残っていた。


「花凛! 結希! 大丈夫か?」


 足首の拘束を解いた伊織莉が二人に駆け寄った。


「伊織莉こそ。怪我してない?」

「お腹痛いけどな。花凛も蹴られたろ」

「わたしは大丈夫」

「結希も。何にもされてねえよな?」

「うん……大丈夫……」


 消え入りそうな声で、結希が答える。


「あいつら、警察呼んだって言ってたよな?」

「うん。どっちにしろ、ここ圏外みたいだし。待ってた方がいいかもね」

「一応、縛っとくか。ロープあるし。タオルもあるし」

「あー、そっちのがいいかもね」


 結希の足首のロープが切れた。


「もう大丈夫だからね」


 花凛が結希を抱きしめる。


 震える身体を花凛に預け、結希が小さく嗚咽を漏らす。


 俺が死んでから、娘は誰かに抱きしめられたことはあったのだろうか。


 自分の素直な気持ちを、誰かにぶつけたことはあったのだろうか。


 その気持ちを受け止めてくれる人は、周りにいたのだろうか。


 いや、いるわけがない。


 だから毎晩、星を見に行ってたんだ。


 俺との約束を信じて。


 叶うことのない約束を夢見て。


 きっと、がんばったんだ。


 たった一人で。


 小さな身体で。


 いつまで続くか分からない、暗闇の中で。


 星の明かりだけを信じて。


 たった一人で、ずっとがんばってきたんだ。


 一人ぼっちで、ずっと耐えてきたんだ。


 偉い。


 本当に、偉い。


 俺の娘だ。


 俺と、琴音の娘だ。


 誰よりも、偉い。


 誰よりも、愛しい。


 それなのに、こんな危険な目にあわせてしまった。


 こんな辛い想いをさせてしまった。


 気付いたら俺は、宙に浮いていた。


 そのまま、娘の頭を撫でる。


 今まで何度も、そうしてきたように。


 ビクッと、結希の身体が震える。


 ゆっくりと。


 ゆっくりと。


 結希が、振り返る。


 その瞳に、クマのぬいぐるみの姿が映る。


 震える唇から、言葉が漏れる。


「お父……さん……?」

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