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31. 約束

 結希(ゆき)の家に来て六日が経った。明日の夜、俺は花凛(かりん)の家に帰る。それなのに、何の成果も得られていない。


 結希の生活は、毎日同じことの繰り返しだった。


 家族との会話はない。家に帰ってからすることは、両親が食べ散らかして飲み散らかした片付けと掃除、洗濯、宿題、勉強。夕食はいつもコンビニ弁当。川沿いの公園に出かけて、毎晩星を眺める。


 いくらなんでもおかしい。これが健全だなんて口が裂けても言えない。授業参観のプリントも渡せていない。学校の様子は分からないけれど、家庭環境に問題があるのは明らかだった。


 結希が学校に行ってから両親が寝ている間の時間を狙って家の中を探し回ってみたけれど、手がかりらしきものは見つからない。というより、何を見つければいいのかすら分からない。両親が結希を大切にしない理由なんて、物証があるとも思えない。


 それならと思い、両親の会話に耳をすませてみたけれど、何の収穫もない。どうでもいい会話しかしていない。もうちょっと内容のある会話をしろよと思う。


 二人の会話に、結希はまったく出てこない。どうして両親は娘に関心を持たないのだろうか。再婚しているのかどうか分からないけれど、新しいママの影響で、パパも子どもに興味をなくしたのだろうか。結希が星を眺めに行くことと関係があるのだろうか。


 いつか見かけた、家族で外出をするというのは、ものすごく珍しかったのかもしれない。どうしてあのときは、家族で外出をしていたのだろう。


 今日も同じだ。両親は明け方に帰ってきた。結希は朝起きて一人で朝食をとり、学校に行った。昼過ぎに両親が起きてきて、食べ散らかし、飲み散らかした。夕方に結希が学校から帰ってくると、ロクに会話をすることもなく入れ違いに二人は出かけた。その片付けを結希がする。一人で掃除と洗濯をする。俺をリュックに入れて、一人でコンビニにご飯を買いに行く。


 帰ってくると、俺を部屋の机の上に置き、結希は1階へと下りていった。この後、一人でご飯を食べるのだろう。


 こんなの、絶対におかしい。


 このまま明日の夜に帰って花凛に怒られるとか、そんな問題じゃない。毎日見ていて、憤りを覚える。


 花凛に託された自分のミッションとか、そんなのもう、どうでもいい。結希の力になりたい。この子を守りたい。助けたい。けれど。何をどうすればよいのか分からない。


 せめて結希と直接会話ができれば、何か分かるだろうか。この身体で声をかけたところで怖がらせるだけだろうし、彼女は花凛にも何も話さなかった。言えない事情でもあるのだろうか。言いたくない理由でもあるのだろうか。


 俺は机から下りると、階段を下りて結希の様子を見に行った。廊下からリビングをのぞき込む。リビングの向こう、ダイニングテーブルで黙々とご飯を食べる彼女の姿が目に入る。今日もそうだ。無言で、黙々とご飯を食べる。話すこともなく、テレビを見ることもなく、ただ一人で。


 初めてここに来たときに見た光景が脳裏をよぎる。ご飯を食べながら、涙を流していた。あれ以来彼女が涙を流しているところは見ていない。あの時の涙の意味も、はっきりとは分からない。小さな身体に、何を抱えているのだろう。


 結希が食べ終わる前に、俺は部屋に戻って机に座った。ややあって、彼女が戻ってきた。俺をリュックに入れると、外に出かける。今日も、星を見に出かけるのだろう。


 いつものように、川沿いの公園に着くと、結希は俺をリュックから出して芝生に置いた。その横に彼女も寝転がる。


 今さら気付いたが、今日の結希はいつもより厚着をしている。ぬいぐるみの身体だと感じないが、寒さが厳しくなっているのだろうか。


 彼女は寝転がったまま星空を見上げる。ただ、夜空だけを見つめる。言葉も発しない。星を見る。それだけが目的のように感じる。


 俺も夜空を見上げる。暗闇の中で、星々が輝く。けれど、星空を楽しむ気持ちなんて、どこかに置いてきてしまっている。まだ、胸が苦しい。


 いつの間にか、かなりの時間が経ったように思う。今日はいつもより、星を見ている時間が長い。初めから遅くまで星を見るつもりで、厚着をしてきたのかもしれない。


 今日は何かあるのだろうか。星空を眺める。


 暗闇に目を凝らすと、夜空を彩る星が、一瞬動いたように感じる。人工衛星にしては速かったと思う。流れ星だろうか。


 また、結希のことを考えた。家の中で、ずっと一人。学校から帰ってきた後に、遊びに行ったことはない。学校に友だちはいるのだろうか。


 平日の学校が終わった後だと遊びに行くことは少ないかもしれないけれど、土曜も日曜も家で一人だった。


 家にいる間に、彼女の笑顔を見た記憶がない。声を聞くことも、めったにない。学校から帰ってきて両親に声をかけるときくらいしか、彼女の声を聞かない。それも、ほんの一言だけ。彼女は家で、誰とも会話をしない。誰とも笑顔を交わさない。


 花凛の言葉を思い出す。この部屋で、勉強して、お布団、敷いて。いつも、一人で。ずっと、一人で。


 伊織莉の家庭の様子を思い出す。楽しそうな声。笑い声が響く、にぎやかな家庭。


 結希に、寂しい思いをさせたくない。この子を、一人にしたくない。


 彼女は無言で星空を見つめ続ける。隣で俺も、星空を見つめる。


 しばらくして、また一つ、星が動く。間違いない。流れ星だ。11月のこの時期。


 しし座流星群。


 真っ暗な中で、キラキラ光ってる何か。


 あの夜の記憶。


「……ううっ……」


 嗚咽が聞こえる。隣から、嗚咽が。


 ああ。


 この泣き声を、もう聞きたくないと思ったんだ。だから、二度と泣かせないと、誓ったんだ。


「……嘘……つき……」


 涙の混じった声が、俺の耳に届く。


「約束、したのに」


 そう。


 約束を、したんだ。


 しし座流星群を、見ながら。


 車で、出かけた。


 粉末のカップスープを用意して。


 水筒にお湯を入れて。


 二人で、飲んだんだ。


 二人で並んで、夜空を見上げた。


 あの時も、隣に、いた。


 吸い込まれそうな星空を、二人で、見上げた。


 笑顔を、見た。


 声を、聞いた。


 その瞬間を、永遠に、とどめておきたくて。


 その瞬間を、妻に、届けたくて。


 でも、それは、できないと、分かっていて。


 だから、俺も、言葉に、した。


 隣から聞こえる言葉が、俺の記憶と重なって響く。


「『来年も、一緒に、見よう』って」 


 呼吸を、忘れた。


 心臓が止まる、思いがした。


 無意識に、結希を見る。


 その、横顔を。


 涙を。


 一生流させないと誓った、その、涙を。


 手足が、震える。


 息が、詰まる。


 胸が、張り裂けそうになる。


 叫びそうになるのを、必死にこらえる。


 動きそうになる身体を、必死にとどまらせる。


 一ヶ月前、この身体になって、初めて結希に会ったときのことを思い出す。


 かわいらしい子だと思った。


 愛くるしい子だと思った。


 愛おしいと思った。


 この一週間、結希を見てきた。


 この子の力になりたいと思った。


 この子を守りたいと思った。


 当たり前だ。


 俺の、娘だ。


 たった一人の、俺の、娘だ。


 かわいいに決まってる。


 愛くるしいに決まってる。


 愛おしいに決まってる。


 力になりたいに決まってる。


 守りたいに決まってる。


 俺の、娘だ。


 世界で一番大切な、俺の、娘だ。


 俺と、俺が愛した人との、娘だ。


 忘れていた自分を、呪いたくなる。


 記憶を失っていた自分を、殴りたくなる。


 俺の、未練。


 ぬいぐるみの身体になってでも、この世にすがりつく、俺の、未練。


 そんなの、一つしかない。


 結希だ。


 妻との、琴音(ことね)との約束。


 結希が自分の幸せをつかむまで、娘を、守る。


 幸せな人生を、歩ませる。


 娘一人を残して、死ねない。


 それが、それだけが、俺の、未練だ。

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