30. 観察
目が覚めて、慌てて時計を見た。午後二時を回ったころだった。危ない。結希が帰ってきて俺を発見したときにベッドの上にいたら不審がられる。これからは机の上でまどろむことにしないと。
ドアの隙間から身を乗り出すと、一階からテレビの音が聞こえる。あの二人が起きているかもしれない。
廊下を歩き、一番西の部屋をのぞく。大きなベッドには誰もいない。二人とも一階にいるようだった。
こっそり階段を下りてリビングをのぞくと、テレビを見ながらピザを食べている二人の姿があった。この二人を見ると、落ち着かない気持ちになるのはどうしてなんだろう。
「あ、これ欲しい」
テレビを見ながら女が口走る。
「バッグならこの前買っただろ」
男が答える。
「この前とはブランドが違うでしょ? バッグなら何個持っててもいいし」
「また今度な」
「今度っていつ? もうよくない?」
「もうちょっと待てよ」
「年内には終わらせてよ」
「ああ、そろそろな」
テレビを見ながらの二人の会話が続く。しばらく耳をすませていたが、テレビを見ながら会話をしていただけで、有益な情報は得られなかった。この二人は結希の様子がおかしいことを、どう感じているのだろう。
二人の会話に意識を集中していたせいで、気付くのが遅れた。玄関のドアが開く音。マズイと思い、俺は慌ててリビングのドアの陰に隠れた。
「ただいま」
「おかえり、結希」
女の方が声をかける。
「あのね、ママ、今日、学校で」
「あ、ごめん、結希。これからママたち出かけなきゃいけないから。また今度でいい?」
「……うん」
「結希、パパたち急いでて片付ける時間ないから、あと頼むな」
「……うん」
結希は踵を返すと二階へと向かう。……しまった。俺がいないのがバレる。けれど、追いかけると余計怪しまれる。気付かれないことを祈って、隠れ続けるしかない。
「あの子帰ってきたし、行こっか」
言うと結希のママは立ち上がる。
「そうだな」
結希のパパも立ちあがった。二人はリビングを出て階段を上っていく。リビングのテーブルを見ると、ピザだけではなかった。お酒の缶。コーラのペットボトル。スナック菓子の袋。食べ散らかして飲み散らかしたという印象を受ける。この片付けを結希に、小学生にやらせるのだろうか。
動くに動けず隠れ続けていると、パパとママの二人は着飾って出かけて行った。パパは柄の入ったセットアップに着替え、ママは着飾って、首にはパールのネックレスを輝かせていた。
二人がいなくなってからしばらくして、結希が下りてきた。無言でリビングを片付けていく。手慣れた様子から、普段も片付けをしているんだろうと分かる。その隙に俺は二階に上がり、結希の部屋に入って机の上に座った。バレていないと信じたい。
やがて結希が戻ってきた。彼女はベッドに寝転がると、小さくため息を吐いた。昼寝でもするのだろうかと思ったが、くりくりした瞳は大きく開かれていた。しばらく天井を眺め、寝返りをうつ。その後は、ぼんやりと窓の外を眺めていた。しばらくそうしていたかと思うと、彼女は起き上がって部屋の外へと出ていく。
ややあって、掃除機の音が聞こえた。廊下に出てみると、一階から掃除機の音がする。じっと聞いていると、掃除機の音が動く。どうやら家中の掃除をしているようだ。掃除機の音がだんだん近づいてきた。俺は机の上に戻る。
予想どおり、廊下に掃除機をかける結希の姿がドアの向こうに見えた。彼女は室内に入り、部屋中に掃除機をかける。かけ終わると、隣の部屋へ。隣の部屋は中を確認できなかったので見に行きたいけれど、今は我慢する。
しばらくして掃除機の音が止まった。それでも、結希はなかなか戻ってこない。テレビでも見ているのだろうか。廊下に出てみるが、テレビの音はしない。
隣の部屋のドアが開いているのに気付いたので、のぞきこむ。隣の部屋は洗濯物干し場として使われているようだった。部屋には洗濯物がかけられている。ちょっとがっかりしたけれど、階段を下りて一階へと向かう。
リビングに結希の姿はない。出かけたのだろうかと思ったが、バスルームの方から水音がするのに気付いた。掃除をして汚れたのでお風呂に入っているのだろうか。少し迷ったが、バスルームへと向かうことにする。のぞかなくても何をしているか分かった。お風呂掃除だ。
父親と暮らしていたころからの習慣なのか、彼女の日々のお手伝いなのか。判断がつかないまま俺は二階へと上がり、結希の部屋で机の上に座った。
座ったままじっとしていると、やがて足音が聞こえた。結希が戻ってきたと思ったが、隣の部屋へ入ったようだった。おそらく洗濯物をたたむのだろう。
さらに三十分ほどじっとしていると、遠くからピーッという機械音が聞こえた。結希の足音が遠ざかり、また隣の部屋へと戻ってくる。洗濯をして、新しい洗濯物を干しているのだろうか。
結局、結希が部屋に戻ってくる頃には、外は暗くなり始めていた。それから彼女は机に向かい、宿題を始める。
宿題を終えるころには、外はすっかり暗くなっていた。
結希は財布を手に取り、部屋の外へと出ていく。買い物にでも行くのだろうかと思い気を抜いた瞬間、彼女が部屋に戻ってきた。危ない。身体を動かしていたのを見られたかもしれない。
そんな俺の心配をよそに、結希はクローゼットを開けてリュックを取り出した。そのまま机に近付くと、俺の身体をつかんでリュックに詰める。出かけるときに俺を連れていってほしいと花凛に頼まれていたのを思い出したようだ。律儀な子だ。
彼女はリュックを背負うと家の外へと出かける。リュックの蓋が閉じられていて、中からは開けられそうにない。揺られながらしばらくじっとしていると、コンビニの入店音が聞こえた。店内で彼女は、動いたり止まったりを繰り返しているようだった。
「温めますか」
店員の声が聞こえる。
「お願いします」
返事をする結希の声。少し待って、おそらく弁当を受け取ったのだろう。再び彼女は歩き出した。
家に帰ると、彼女は俺をリュックから取り出して自分の部屋の机の上に置き、部屋から出ていく。ドアの隙間から廊下に出て一階に下りると、ダイニングテーブルでコンビニ弁当を食べている結希の姿が目に入った。
なんだろう、これは。ネグレクトという言葉が頭に浮かぶ。一日で判断するのは早すぎるのかもしれないけれど、あまり健全な状況ではないように感じる。でも、三人で駅前に買い物に出かけていたし、今日だけなのかもしれない。
彼女は無言で、黙々とご飯を食べている。話すこともなく、テレビを見ることもなく、ただ一人で。
今日の夕食はオムライスのようだった。スプーンでオムライスを口に運ぶ。その表情から、感情を読み取ることができない。おいしいとも、まずいとも、楽しいとも、悲しいとも。何かの作業のように、オムライスを口に運んでいる。途中で手を止め、カップを手に取る。カップスープのようだった。両手でカップを持つと、口に運ぶ。一口飲む。そして。
結希が固まる。カップをテーブルに置く。うつむいて、肩を震わせる。
「……うっ……」
嗚咽が、漏れた。両手で顔を覆い、肩を震わせる結希。泣くのを、必死で我慢しようとしている。見ているだけで、胸が苦しくなる。
見てはいけないような光景を見た気がして、俺は部屋に戻った。机の上に座って考える。彼女は、家のことを一人で全部やらされて、家族との会話もなく、独りぼっちになっている。それが涙の理由だろうか。両親からの愛情があれば、彼女は涙を流さなくてすむのだろうか。
やがて足音がして、結希が戻ってきた。部屋を横切って窓際まで歩き、部屋の電気もつけず、ぼうっと外を眺めている。星を見ているのだろうか。
「あんまり見えないや」
彼女はつぶやくと、再び俺をリュックに詰めて外へと出かけた。どこに行くかの予想はつく。昨日と同じだろう。リュックの中でしばらく揺られ、次に外に出されたときは星空の下だった。
芝生に寝転がり、夜空を見上げる結希。その横で、俺も同じように芝生に寝転がされていた。
この辺りは暗いので、星がよく見える。横目で彼女の様子をうかがうが、ただぼうっと星を眺めている。天体観測とか学校の宿題とかではなく、ただぼうっと星を眺めている。
結希と一日過ごしたけれど、花凛が心配になるのも分かる。ぼうっとしている時間が長い。もともとこういう子なのだろうか。どうしてこの子は星ばかり見ているのだろうか。家に帰ってからやったことは、掃除、洗濯、宿題。両親との会話は一言だけだった。
家族との間に問題を抱えているのだろうか。学校のことで何か悩んでいるのだろうか。分からないことだらけだ。
彼女が家に帰ったのは、十時を回ったころだった。昨日もこの前も、花凛に会っていなければ、このくらいの時間まで公園にいたのかもしれない。家に帰った結希は昨日と同じように、一人でお風呂に入り、一人でパジャマに着替え、ベッドに入る。
しばらくして彼女が寝付いたようなので、俺は気を緩めた。
結希の様子がおかしいことは分かるけれど、どこから調べていいのか見当がつかない。本人に聞くことができれば早いのだけれど、ぬいぐるみが動いたり話したりしたら不気味に思われる。
何かいい方法はないかと考えていると、月明りで照らされた机の端に、一枚のプリントが置かれているのが目に入った。プリントに近付いて確認すると、授業参観のお知らせだった。親に渡さなくていいのだろうか。
……いや、違う。帰宅した結希は二人に声をかけていた。渡さなかったんじゃない。渡せなかったんだ。どうするんだろう。明日にでもタイミングを見計らって渡すのだろうか。
俺が花凛のもとに帰るまで、あと一週間ある。とにかく観察するしかなさそうだった。




