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29. 最初の夜

 結希(ゆき)の家は、静かだった。


 あの後、結希に連れられて家にお邪魔することになったが、家には誰もいなかった。そこそこの大きさの一軒家に夜九時を過ぎても一人だけ。


 花凛(かりん)の話ではお母さんが亡くなっているはずで、お父さんがご存命のはずだ。他の家族構成は聞いていない。お父さんは以前駅前で会った女性と再婚しているのか、いないのか。再婚していないのなら、二人暮らしかもしれない。お父さんの帰りが遅いだけなのだろうか。


 結希は夕食をすませていたようで、家に帰ると勉強を始めた。勉強に区切りがつくと、一人でお風呂に入り、一人でパジャマに着替え、ベッドに入る。誰とも一言も会話をしていないようだ。誰もいないから当たり前だ。普段からこういう生活をしているのだろうか。


 結希の部屋で机の上に置かれた俺は、勝手に動き回るわけにもいかず、彼女の寝顔を見ていた。よく分からないけれど、安心する。このまま世界が平和だったらいいのにと思う。


 いつの間にかまどろんでいたが、話し声で意識が覚醒した。時計を見ると、明け方の5時を回っていた。男の声と女の声。耳をすませても、何を言っているのか分からない。一つだけはっきりしていることは、家の中で二人が話していることだった。


 男の声の主は父親だろうか。それなら、女の声の主は誰だろう。以前見かけた女性だろうか。再婚しているのだろうか。結希は熟睡しているようで目を覚まさない。確認しに行こうかと思ったが、万が一を考えてさすがにやめておいた。大きな声では言えないが、正直、二度寝したい。


 次に意識が覚醒したのは、目覚ましの音だった。朝七時。目覚まし時計で結希は起きた。部屋から出ていく。朝食をとるのだろう。ドアの隙間から身を乗り出し、耳をすませるが、何の音も聞こえない。ご両親は起きてこないのだろうか。昨日の声の主は起きてこないのだろうか。


 しばらくして、結希が部屋に戻ってきた。パジャマから服に着替え、ランドセルを背負い、部屋から出ていく。室内が沈黙に包まれた。


 こういうものなのだろうか。昨日、この家に帰ってきてから、彼女は誰とも会話していない。正直、違和感しかない。小学生が、家で誰とも会話をせずに一晩を過ごして学校に行くなんて。今日だけなのだろうか。


 俺はドアの隙間から廊下に出ると、家の中を探検することにした。二階にある三部屋のうち、一番東側が結希の部屋だ。隣の部屋はドアが閉まっており、よじ登れそうなところがない。仕方なく、一番西の部屋へと進む。その部屋はドアが完全には閉まっておらず、隙間が空いている。隙間に身体を滑り込ませ、中へと入る。


 室内の大きなベッドが目に入る。ダブルベッドだろう。そして、ベッドの上で眠る二人の男女。ご両親だろうか。おそらく、昨日の声の主だろう。やはり、父親は再婚しているようだ。


 ベッドによじ登るとはっきり分かる。酒臭い。相当飲んでる。娘を一人でほっぽり出して、何だこいつら。どんなツラしてやがるんだ。そう思って二人の顔を見た瞬間、吐き気に襲われた。理由がまったく分からない。けれど、その二人の顔を見たとき、言いようのない嫌悪感に襲われた。


 以前、駅前で見かけたときもそうだった。二人に失礼なように感じるけれど、止められない。自分がぬいぐるみでよかったと思う。人間の身体だったら、間違いなく吐いていた。


 理由がまったく分からないまま、俺は部屋から出て一階へと向かった。熟睡しているようだったので、あの二人が目を覚ますことはないだろう。


 一階に下りてリビング、ダイニング、キッチンと、いろいろと見て回ったが、普通の家だった。結希は、朝食に何を食べたのだろう。あの二人が寝ているのに。自分で用意して自分で食べたのだろうか。朝食はあらかじめ親が用意していたのだろうか。


 家の構造が分かったので、結希の部屋へと戻った。家の中をあさるのであれば、あの二人がいない時間帯の方がいい。問題は、それまでどうやって時間を潰すかだった。彼女の部屋にはテレビもパソコンもない。


 仕方がないのでベッドの上でごろごろしていると、だんだんとまどろんできた。そういえば、お母さんの遺影を見ていない気がするなあとぼんやりと考えていた。

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