22. 本当の呪い
黒井が帰った後、しばらく誰も口を開けなかった。
花凛はフローリングに座ったままテーブルに突っ伏し、顔を上げない。伊織莉はその隣でフローリングに座ったままソファにもたれ、天井を見上げていた。俺は、ずっと気持ちが収まらず、テーブルの上で横になっていた。
収まらない気持ちのまま考えた。どうして凛聖は花凛に冷たい態度をとり続けたのか。誰よりも大切な妹を、この家から遠ざけたのか。その理由が、今なら分かる気がする。
窓の外が暗くなり始めたとき、花凛が口を開いた。
「……お姉ちゃん……バカだよね」
つぶやくように、言葉を続ける。
「自分が犠牲になって、わたしが喜ぶとでも思ってたのかな」
彼女はテーブルから顔を起こすと、写真の中の凛聖に向かって話を続けた。
「そりゃ、高校に行かない理由、先生に言えないよね。妹を大学に行かせるためにお金を稼ぎたいから、中卒で働きますなんて言えないよね。ここから通える大学にわたしが行けば、バイトと奨学金でなんとでもなるのに」
「……凛聖さんさ、花凛に苦労させたくなかったんだろうな。奨学金っていっても借金だし。バイトが忙しくてやりたい勉強やれないなんてことになったら嫌だったんだろうな」
「やりたい勉強なんて、わたし、ないよ」
「やりたい勉強が見つかったときに困るって思ったんじゃねえの」
「そんなの、お姉ちゃんの勝手だよ。……わたしも働いて、それで、お姉ちゃんと一緒に暮らせれば、それでよかったのに」
思わず俺は、声をあげた。
「花凛さん、中卒で働くの? 高卒で働くの? できる仕事だって限られる。生涯賃金だって変わる。選べる未来が少なくなる。凛聖さんはそれが嫌で、花凛さんには、やりたいことをやってほしくて、だから」
「それがお姉ちゃんの勝手なんだよ! わたしはそんなの望んでない!」
「望んでないのなんて、凛聖さんだって分かってたはずなんだ。だから、一言も花凛さんに話さなかった。言えば、今みたいに反対されるのが分かってたから。花凛さん、みんなのご飯作ってたって言ってただろ? 初めは凛聖さんに教えてもらってたって。あれだってそうだよ。半年くらい花凛さんのご飯見てたけど、栄養バランスよさそうだなって、いつも思ってた。凛聖さんは花凛さんが一人でも生活できるような準備をずっとしてたんだよ」
「それで、いきなり自殺するの? おじさんと一緒に?」
「凛聖さんは、自分が花凛さんの負担になるって考えてたんだと思う。凛聖さんは、花凛さんが一人前の大人になるまでが自分の役目だと思ってた。花凛さんが未来を選べるようにするまでが自分の仕事だと考えてた。それなら、花凛さんがそうなった後にどうなると思う? きっと、生きる理由を失ったんだよ。この家にいる理由も、もうない。おじさんと一緒にいる理由もない。この家を出て一人で暮らしていくこともできるだろうけれど、何のために生きるのかが分からない」
いや、それだけじゃない。
凛聖が自分で幕を下ろした理由。
――妹の未来は何があっても守る。
黒井から聞いた凛聖の言葉。それは、きっと。俺は言葉を続ける。
「凛聖さんは、自分に何かあったら、逆に花凛さんの負担になるかもしれないって考えた。それどころか、自分がいなくなったら、おじさんが花凛さんに連絡を取るかもしれない。きっと、凛聖さんが一番嫌だったのは、それだったと思うんだ。だから、おじさんを道連れにして死ぬことを選んだんだ」
黒井に聞いた凛聖の話を思い返すと、そうとしか考えられない。
「花凛さん、お姉さんから手紙をもらって、この部屋に来たときのこと覚えてる?」
「覚えてるよ。言われたとおり換気した」
「部屋の中、かなり片付いてたんじゃないかな」
「……うん。片付けしてて、物が少ないなって思ったのを覚えてる」
「黒井さんも凛聖さんが引っ越すって言ってたって話してたけど、おじさんにも引っ越すって話をして準備を進めてたんだと思う。花凛さんに遺品整理の手間を取らせないために引っ越しって偽ってたってことなんだけど。でも、凛聖さんには引っ越す気なんてなかった。おじさんをどうやって説得して会社を辞めさせたのかは分からない。黒井さんの話どおり独立するって方向に持っていったのかもしれない。どちらにしろ、おじさんは凛聖さんが心中するつもりだなんて、最期まで考えてもみなかった思う。冷蔵庫に秋刀魚があったのも、おじさんを騙すためだと思う。七輪を使うときも換気してるって言いながらやったんじゃないかな。それで、花凛さんが保険金を受け取れるように事故死に見せかけた。メッセージを送ると自殺の証拠が残るかもしれないって考えて、わざわざ手紙を書いて送った。その手紙も捨てるように指示して」
「そんなの、全部クマさんの推測でしょ」
「そう。推測だよ。でも、もう一つ気になることがあるんだ。宮川先生が成人式で花凛さんを見た人がいるって話をしてたよね」
「うん」
「あれって、お姉さんだったんじゃないかって思う」
「お姉ちゃんが? どうして?」
「花凛さん、実家に帰省するなって言われてたけど、成人式に出るなとは言われてなかったと思うんだ。違う?」
「言われてはないけど、でも、実家に帰らずに成人式だけ出るなんて……」
「できなくはないけど、不自然だし行動しづらい。だからインフルエンザって嘘をついて出なかった。そうだよね?」
決まりの悪そうな表情を浮かべて、花凛はうなずく。
「けど、凛聖さんは出てほしかったと思うんだ。でも、帰省するなって言ってるのに成人式だけ出ろなんて言えない。だから、花凛さんがもしかしたら成人式に出てるかもしれないと思って、晴れ着を着てるのを、大人になった姿を一目でも見れるかもしれないと思って、会場に行ったんだと思う。それを何人かの先生に目撃された。花凛さんには会えなかったけど、十八歳になって、ニ十歳になって、成人式の日も終えて、まだ学生だけど、法律的にも社会的にも花凛さんは大人になった。保護者の同意なんていらない年齢になった。花凛さんの手元には、凛聖さんがそれまで貯めてきたお金がある。花凛さんは、もう、自分で自分の未来を選ぶことができる。だから、そのタイミングでお姉さんは、幕を下ろしたんだ」
花凛は真っ直ぐに俺をにらんだ。納得いっていないのが分かる。
「だからって、わたしに冷たくする理由なんてないよね。わたしをここから追い出す理由なんてないよね」
「違う。あったんだよ、ここから花凛さんを追い出す理由が」
「どんな理由があるの?」
「凛聖さんがおじさんに襲われたのは、凛聖さんが中学三年生のときのはずだ」
無言で、花凛が俺を見つめる。
「凛聖さんは恐れたんだよ」
自分で言っていて吐き気がするる。
「花凛さんが同じ目にあうことを」
真っ直ぐな気持ちを、踏みにじった人間がいる。妹を思う姉の気持ちを、妹の将来を思う姉の真っ直ぐな気持ちを、踏みにじった人間がいる。自分の立場を利用して。大人が。身内が。頼られるはずの人間が。
「花凛さんが中学生になったときに、高校生になったときに、同じ目にあわせたくないって凛聖さんは思ったんだよ。花凛さんが自分で話してた。おじさんの隣にはいつもお姉さんがいたって。花凛さんがおじさんと話そうとすると、お姉さんが間に入ってきたって。だから、花凛さんはおじさんと二人きりになった記憶ってないはずなんだ。ここにいる間、ずっと、凛聖さんがおじさんを花凛さんに近付けないようにしてたんだよ。守ってたんだよ。おじさんの目が自分に向くように、ずっと凛聖さんはおじさんとベタベタしてたんだよ。それで、花凛さんが高校生になったら、この家から出そうって考えた。花凛さんを守るために。だから、この家に未練がなくなるように冷たくし続けたんだよ」
「なに、それ。お姉ちゃんはわたしのせいで、いやいやおじさんの隣にいたってこと?」
「花凛さんが自分で言ってたんだ。お姉さんが目を閉じて、唇を噛んで、必死に耐えてたって。花凛さんのせいじゃない。花凛さんのためだ」
「どっちでも同じだよ! そんなの、結局、わたしがお姉ちゃんの呪いだったんじゃない!」
「違う。そうじゃないんだ」
凛聖の想いが、痛いほど分かる。
誰かが幸せを選ぶ代償として、他の誰かが呪いを引き受けなければならなかったのだとしたら。
本当の呪いとは何だったのか。
その呪いを引き受けたのが、誰なのか。
「……花凛さんが凛聖さんの呪いだったんじゃない。凛聖さんは、花凛さんの分まで呪いを引き受けたんだ。花凛さんが自分で未来を選ぶことができるように、すべての呪いを自分で引き受けたんだ。あの夜に、凛聖さんと花凛さんの目があったあの夜に、凛聖さんは、きっと、その覚悟を決めたんだ。何があっても花凛さんだけは守るっていう、その覚悟を決めたんだ」
花凛は伊織莉と同じようにソファにもたれ、頭を彼女の肩に預けた。
車のクラクションの音が遠くで響いてる。セキュリティアラームが作動しているのか、他の車が自分の車の前に止まっていて動けないからクラクションを連打しているのか。
俺は黒井から聞いた、凛聖が車の運転に自信がないと言っていた話を思い出した。本当にそんな理由で運転免許を取らなかったのだろうか。もしも凛聖が花凛を家から出すことを考えていたのなら、花凛が大人になってすぐに人生の幕を引こうと考えていたのなら、免許を取ることに意味を見いだせなかったのかもしれない。
「……お姉ちゃん、バカだよ……」
花凛がつぶやく。
「……お姉ちゃんの犠牲で選べる未来なんて……そんなの……」
嗚咽が漏れた。まただ。この子はまた、泣くのを我慢しようとしてしまう。
「花凛」
伊織莉が声をかける。
「泣いていいぞ」
「……バカだよ……お姉……ちゃん……」
言葉に涙が混じる。クラクションの音は聞こえなくなっていた。いつかのように、花凛の泣き声だけが室内に響いた。今度は一人じゃない。きっと大丈夫だと信じたい。
いつの間にか、無意識に俺は動いていた。気付けば俺は、テーブルから下りてソファに登り、花凛の頭を撫でていた。
その様子を、写真の中の凛聖が微笑んだまま見ていた。




