第96話 断られた後の距離
二〇二二年一月十日、月曜日。
健太は、朝から少し落ち着かなかった。
昨日、藤井たちに話したことで、なるみへの気持ちは整理できたつもりだった。
しかし、スマートフォンを開くたびに、彼女の名前が頭に浮かぶ。
連絡先は知らない。
個人的なメッセージを送る手段もない。
次に会えるのは、木村が企画する食事会か、共通の知人が集まる機会だろう。
「また会いたいな……」
口に出してから、健太は苦笑した。
二人で会うことは考えていない。
そう言われたばかりなのに、もう次の機会を期待している。
それ自体が悪いわけではない。
ただ、その期待を相手に押しつけてはいけない。
健太は仕事着に着替え、家を出た。
*
昼休み。
工場の休憩室で、同僚の木村と顔を合わせた。
「大野さん、正月はゆっくりできました?」
「まあまあやな。木村は?」
「子どもと公園に行ったり、実家に顔を出したりですね」
木村はスマートフォンに映った子どもの写真を見せた。
小さな男の子が、両手を広げて笑っている。
「かわいいな」
「ありがとうございます。最近、何でも自分でやりたがるんですよ」
「大変そうやな」
「大変ですけど、面白いですよ」
木村は笑った。
健太は写真を見ながら、結婚生活というものを想像した。
恋人ができれば、その先に結婚があるかもしれない。
しかし、結婚は恋愛の延長にあるだけではない。
仕事、家事、子育て、金銭感覚、生活習慣。
毎日の積み重ねが必要になる。
自分には、まだ知らないことが多かった。
「大野さんも、今年はいい出会いがあるといいですね」
「そうやな」
健太は笑って答えた。
*
一月十二日、水曜日。
仕事帰り、健太はスーパーに立ち寄った。
夕食の弁当と飲み物を買うためだった。
レジに並んでいると、前にいた女性が財布の中を探していた。
「あれ、ポイントカードが……」
女性は少し困った様子だった。
健太は後ろで待ちながら、店員が対応するのを見ていた。
以前の健太なら、すぐに声をかけていたかもしれない。
しかし、今は店員が対応している。
自分が割って入る必要はない。
女性はカードを見つけ、会計を済ませた。
健太の番になった。
「お待たせしました」
店員の女性が笑顔で対応する。
「お願いします」
健太も普通に会計を済ませた。
店を出てから、ふと思った。
誰かに親切にすることは悪くない。
けれど、親切にしたからといって、相手から何かを返してもらえるわけではない。
それは恋愛でも同じなのだろう。
*
一月十五日、土曜日。
ドリーム・エース・ナインの練習日。
グラウンドには、久しぶりに十二人が集まっていた。
田村がキャッチャーミットを構える。
「健太、今日はバッティング中心でいくぞ」
「了解」
練習が始まると、健太は打席に立った。
一球目。
空振り。
二球目。
ファウル。
三球目。
内野ゴロ。
「おいおい、全然当たらんやないか」
森川が笑った。
「うるさいわ。まだ肩が温まってないんや」
「言い訳やな」
周囲から笑い声が起きた。
休憩中、藤井が健太の隣に座った。
「そういえば、なるみさんとはどうなった?」
「別に何も。二人で会うのは断られたし」
「そっか」
「でも、みんなで会うなら話せるって言ってた」
「なら、そのとき普通に話したらええやん」
「そうやな」
藤井はスポーツドリンクを飲んだ。
「ただな、相手が断ったことを忘れたふりして、何度も誘うのはあかんで」
「分かってるって」
「分かってるならええ」
健太はグラウンドを見つめた。
自分の気持ちを伝えることはできる。
しかし、相手が望まないなら、そこで止まることも必要だ。
*
一月十八日、火曜日。
健太のスマートフォンに、佐藤まみからメッセージが届いた。
『お久しぶりです。最近どうしていますか?』
健太は少し驚いた。
まみとは、息子や元夫の問題があってから、以前ほど連絡を取っていなかった。
『元気にしています。まみさんはどうですか?』
しばらくして返信が届く。
『仕事のことで少し動きがありました。まだ決まっていませんが、勤務時間を見直せるかもしれません』
『それはよかったですね』
『ありがとうございます。まだ考えることは多いですけど』
健太は、すぐに会おうとは言わなかった。
以前なら、連絡が来たことを好意の証拠だと考え、次の約束を急いでいたかもしれない。
しかし、まみには生活がある。
息子との時間もある。
彼女自身が決めるべきこともある。
『無理せず、納得できる形になるといいですね』
そう送ると、まみから短い返事が届いた。
『ありがとうございます』
それ以上、会話は続かなかった。
*
一月二十日、木曜日。
健太は帰宅後、ノートを開いた。
そこには、これまでの恋愛で失敗したことが書かれていた。
相手の笑顔を好意だと思い込んだ。
親切にしたから、好かれると思った。
連絡が来ないと、何度もスマートフォンを確認した。
断られても、理由を探してしまった。
相手の気持ちより、自分が選ばれることを優先していた。
健太はペンを置いた。
「結局、俺は自分のことばっかり考えてたんかな」
誰に聞かせるでもない言葉だった。
恋愛経験が少ないことは、仕方がない。
しかし、それを理由に相手の気持ちを考えなくていいわけではない。
健太はノートを閉じた。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
木村からだった。
『来月、また何人かで食事に行こうと思っています。大野さんもどうですか?』
健太は返信した。
『参加します』
今度は、誰か一人に期待を集中させるのではなく、その場にいる人たちとの時間を楽しもう。
そう考えた。
だが、健太はまだ知らなかった。
次の食事会で出会う女性が、これまでとは違う形で、彼の思い込みを揺さぶることになるとは。




