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『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第6章 接客スマイルは俺だけのもの?

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第92話 名前を覚えていた理由

二〇二一年十一月二十九日、月曜日。


大野健太は、仕事の休憩時間にスマートフォンを眺めていた。


頭の中には、先週末に会った家電量販店の女性、吉岡沙織の姿が残っていた。


二度目に店を訪れたとき、彼女は健太の顔を覚えていた。


「先日はありがとうございました」


その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


ただの接客だ。


そう理解しているつもりだった。


しかし、名前を覚えてもらえたことが嬉しかった。


自分の存在を認識してもらえた。


それだけで、何か特別なことが起きたような気分になっていた。


「大野さん、何見てるんですか?」


同僚の木村亮が声をかけてきた。


「何でもない」


「また女性ですか?」


「何で分かるんや」


木村は笑った。


「大野さん、女性の話になるとスマホを見る回数が増えるんですよ」


健太は苦笑いした。


「そんなに分かりやすいか?」


「分かりやすいです」


木村は弁当を食べながら続けた。


「でも、相手が店員さんなら、仕事中だということは考えないといけませんよ」


「藤井にも同じこと言われたわ」


「藤井さん、まともなこと言いますね」


「お前もか」


二人は笑った。


     *


十二月四日、土曜日。


健太は再びショッピングモールを訪れた。


今回は、母親に頼まれた掃除機の紙パックを買うためだった。


家電売り場に着くと、沙織の姿が見えた。


別の客に商品を説明している。


健太は少し離れた場所で、説明が終わるのを待った。


やがて客が立ち去ると、沙織が健太に気づいた。


「あっ、こんにちは」


「こんにちは。今日は掃除機の紙パックを探していて」


「メーカーはどちらですか?」


健太が掃除機の型番を伝えると、沙織は商品棚を確認した。


「こちらですね。型番が合っていますので、こちらをお使いいただけます」


「ありがとうございます」


「いつもありがとうございます」


沙織は笑顔で答えた。


健太は、その言葉に少し嬉しくなった。


しかし、今回は余計な質問をしなかった。


商品を受け取り、会計を済ませる。


「ありがとうございました」


「こちらこそ」


健太は店を出た。


     *


その日の夜。


健太は姉の真紀と電話で話していた。


「最近、家電量販店の店員さんが気になるんや」


「また新しい人?」


「うん。吉岡さんっていう人」


「何歳くらい?」


「二十代後半くらいやと思う」


真紀は少し間を置いた。


「それで、その人とはどういう関係なん?」


「店員と客や」


「じゃあ、今はそれ以上でも以下でもないな」


健太は苦笑いした。


「分かってるって」


「本当に?」


「何やねん」


真紀は笑った。


「お兄ちゃんは、相手が自分の名前を覚えてくれたり、笑顔で話してくれたりすると、すぐに特別な意味を考えるやろ」


健太は黙った。


「でも、相手は仕事として接しているんやで。お客さんに気持ちよく買い物してもらうために」


「そうやな」


「それに、仕事中の女性に何度も会いに行ったり、個人的なことを聞いたりしたら、相手が困るかもしれへん」


「分かってる」


真紀は声を少し柔らかくした。


「好きになること自体は悪くないよ。でも、自分の気持ちを相手に背負わせたらあかん」


健太は、その言葉を静かに聞いていた。


     *


十二月七日、火曜日。


仕事帰り。


健太は会社の同僚たちと食事に行った。


話題は年末の予定だった。


木村が言った。


「今年も家族で旅行に行こうと思ってるんですよ」


「どこ行くん?」


「温泉です。子どもが楽しめるところを探してます」


別の同僚も話に加わった。


「うちは実家に帰るかな」


健太は笑顔で話を聞いていた。


自分には、特別な予定がない。


休日は野球か、自宅で過ごすことが多い。


最近は女性との出会いを求めていたが、なかなか思うようにはいかない。


「大野さんは?」


木村に聞かれた。


「俺は特にないな。野球の予定くらいや」


「彼女さんと出かけたりしないんですか?」


「おらんわ」


周囲が笑った。


健太も笑った。


しかし、その笑いの中に少しだけ寂しさがあった。


     *


十二月十一日、土曜日。


健太は自宅で、久しぶりにマッチングアプリを開いた。


ひとみとのやり取りは、もう更新されていない。


まみとは、時々メッセージを交わしている。


ただ、彼女の生活を考えると、頻繁に誘うことはできなかった。


新しい女性を探すことも考えた。


プロフィールの画面を見つめる。


自分の写真。


年齢。


職業。


趣味は野球。


そして、恋愛経験については、正直に書くべきか迷っていた。


これまでの健太なら、少しでも自分を良く見せようとしていた。


しかし、嘘をついて交際が始まれば、いつか知られることになる。


健太はプロフィールを編集した。


『恋愛経験は多くありませんが、相手のことを知りながら、ゆっくり関係を築いていけたらと思っています』


入力した文章を読み返した。


少し恥ずかしかった。


それでも、削除はしなかった。


そのとき、スマートフォンに通知が届いた。


まみからだった。


『お元気ですか? また時間が合えばお話ししたいですね』


健太の表情が明るくなった。


『元気です。こちらこそ、また会えたら嬉しいです』


返信を送る。


すぐに返事はなかった。


健太はスマートフォンを置いた。


返事を待つ時間も、自分の生活の一部だ。


誰かの返信だけで一日を決めるのはやめよう。


そう思いながら、健太はテレビをつけた。


     *


その夜。


家電量販店で働く沙織は、仕事を終えて同僚と帰り支度をしていた。


「今日も忙しかったね」


同僚が言った。


「そうですね。年末はもっと忙しくなりそうです」


沙織は笑った。


彼女にとって、健太は何度か商品を購入した客の一人だった。


顔を覚えているのは、接客した客だから。


丁寧に説明するのは、仕事だから。


笑顔で挨拶するのも、仕事だから。


そこに、特別な感情があるわけではなかった。


健太は、そのことをまだ完全には理解できていない。


そして、次に彼女と会ったとき、健太は自分の気持ちを抑えられるのだろうか。


彼女の笑顔の意味を、もう一度考えてしまうのだろうか。


年末が近づいていた。

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