第91話 笑顔の向こう側
二〇二一年十一月二十二日、月曜日。
大野健太は、仕事帰りに立ち寄ったショッピングモールで、一人の女性と出会った。
きっかけは、何気ない買い物だった。
自宅で使っている電気ケトルが壊れたため、新しいものを探しに来ていたのだ。
家電売り場を歩いていると、明るい声が聞こえた。
「何かお探しですか?」
振り返ると、紺色の制服を着た女性が立っていた。
二十代後半くらいだろうか。
肩まで伸びた髪を後ろでまとめ、胸元には名札が付いている。
名札には、吉岡沙織と書かれていた。
「電気ケトルを探しているんです」
「でしたら、こちらがおすすめですよ。容量や使い方によって、いくつか種類があります」
沙織は商品棚まで案内してくれた。
「ご家族で使われますか?」
「はい。実家で家族と暮らしているので」
「それなら、少し容量が大きい方が便利かもしれませんね」
健太は説明を聞きながら、商品を比較した。
沙織は専門的な言葉を使いすぎず、分かりやすく説明してくれる。
「この商品は、お手入れもしやすいですよ」
「なるほど。詳しいですね」
「ありがとうございます。毎日使うものなので、気に入っていただけると嬉しいです」
沙織は笑顔で答えた。
その笑顔を見て、健太は少し胸が高鳴った。
久しぶりに、女性から丁寧に接客してもらった。
それだけのことなのに、心が浮き立ってしまう。
「吉岡さんは、この売り場に長いんですか?」
「そうですね。もう三年くらいになります」
「そうなんですね。接客が上手ですね」
「いえいえ、まだまだですよ」
沙織は照れたように笑った。
健太は、商品を一つ選んだ。
会計を済ませると、沙織は丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました。また何かございましたら、お声がけください」
「はい。また来ます」
店を出た後も、健太の頭には彼女の笑顔が残っていた。
*
帰宅後。
健太は購入した電気ケトルを箱から取り出した。
母の美代子が声をかける。
「あら、新しいの買ってきたん?」
「うん。店員さんが詳しく教えてくれたから」
「よかったやん」
「吉岡さんっていう人やった」
「名前まで覚えてるん?」
「名札に書いてあったからな」
美代子は少し笑った。
「また買い物に行く理由ができたな」
「そんなんちゃうわ」
健太は笑ってごまかした。
しかし、心の中では次に店へ行く理由を探していた。
*
十一月二十三日、火曜日。
健太はドリーム・エース・ナインの練習に参加していた。
休憩時間、石田が弁当を食べながら尋ねた。
「最近、何かあったんか?」
「何で?」
「何となく顔が違う」
健太は少し迷った後、昨日の出来事を話した。
「家電量販店の店員さんが、感じのいい人やったんや」
「それで?」
「笑顔がすごくよくてな。名前も覚えてる」
藤井がすぐに口を挟んだ。
「お前、また始まったな」
「まだ何も始まってないわ」
「ならええけど、接客業の人は仕事で笑顔を見せるんやで」
健太は少しむっとした。
「分かってるって」
「本当に分かってるなら、そこから先を勝手に想像するなよ」
田村が笑いながら言った。
「まあ、買い物するのは自由や。ただし、相手が仕事中やということは忘れるな」
健太は黙ってうなずいた。
*
十一月二十七日、土曜日。
健太は再びショッピングモールを訪れた。
今回は電気ケトルのフィルターについて確認したいことがあった。
家にある説明書を持参し、家電売り場へ向かう。
すると、以前と同じ場所に沙織がいた。
「こんにちは」
「あっ、先日はありがとうございました」
沙織は健太の顔を覚えていた。
「この前買ったケトルなんですけど、フィルターのことで聞きたいことがあって」
「はい。確認しますね」
沙織は説明書を見ながら、丁寧に答えてくれた。
「こちらの部分は取り外して洗えますよ」
「そうなんですね。助かりました」
「よかったです」
会話は数分で終わった。
健太は帰ろうとした。
しかし、もう少し話したい気持ちがあった。
「吉岡さんは、今日は何時まで仕事なんですか?」
質問した瞬間、沙織の表情がわずかに変わった。
「すみません。勤務のことはお答えできないんです」
「あ、そうですよね。すみません」
「いえ、大丈夫ですよ」
沙織は再び笑顔で頭を下げた。
健太はその場を離れた。
*
帰りの車の中。
健太は、さきほどの会話を思い返していた。
勤務時間を聞いたのは、少し踏み込みすぎだったのかもしれない。
彼女は仕事中だった。
自分は客で、彼女は店員。
その関係を忘れてはいけない。
スマートフォンを取り出し、藤井にメッセージを送った。
『店員さんの勤務時間を聞いたら、答えられないと言われた』
すぐに返事が来た。
『そりゃそうやろ。仕事中の相手に個人的なことを聞かれたら困る場合もある』
『やっぱりそうか』
『買い物は買い物として楽しめばええやん』
健太はスマートフォンを助手席に置いた。
彼女の笑顔は、確かに嬉しかった。
しかし、その笑顔が自分だけに向けられたものではないことも分かっている。
それでも、また会いたいと思ってしまう。
健太はエンジンをかけた。
次に彼女と会ったとき、自分はどんな態度を取るのだろう。
そして、彼女は客である自分に、どんな笑顔を見せるのだろう。
その答えは、まだ分からなかった。




