第90話 選ばれなかった夜
十一月十四日、日曜日。
午後九時過ぎ。
健太は、ひとみから届いたメッセージを何度も読み返していた。
『私、最近お付き合いを始めた人がいるんです』
短い文章だった。
それ以上の説明はない。
健太はスマートフォンを握ったまま、しばらく動けなかった。
ひとみとは、何度か食事に行った。
話も合ったし、一緒にいて楽しかった。
仕事が忙しいと言われてから、しばらく連絡が途絶えていたが、また連絡が来たときには、少し期待していた。
もしかすると、もう一度会えるのではないか。
そんな気持ちがあった。
しかし、彼女には別の相手ができていた。
健太は返信を考えた。
『そうなんですね。おめでとうございます』
それだけでは、少し冷たい気がした。
『実は、また会えたらいいなと思っていました』
そう書きかけて、消した。
今さら伝えても、彼女を困らせるだけかもしれない。
最後に、こう送った。
『そうなんですね。おめでとうございます。ひとみさんが幸せになれるといいですね』
送信した後、健太はスマートフォンをテーブルに置いた。
胸の奥に、何とも言えない重さが残っていた。
*
翌朝。
健太は、いつもより少し早く目を覚ました。
朝食を食べながら、母の美代子が声をかけた。
「昨日、夜遅くまで起きてたん?」
「ちょっとな」
「何かあったん?」
「別に」
母親には、何でも見透かされるような気がした。
健太は食器を片付け、出勤の準備を始めた。
会社に着くと、同僚の木村亮が声をかけてきた。
「大野さん、今日ちょっと元気ないですね」
「そうか?」
「寝不足ですか?」
「まあ、そんなところや」
木村は、それ以上聞かなかった。
その距離感が、今の健太にはありがたかった。
*
昼休み。
健太は藤井に電話をした。
「ひとみさん、彼氏ができたらしい」
「そうか」
「俺、何か間違えたんかな」
「いや、そこは分からんやろ」
「もう少し積極的に誘ってたら、違ったんかな」
藤井は少し考えてから答えた。
「可能性の話を始めたら、いくらでも考えられる。でも、本人が別の人を選んだ。それが今の結果や」
「そうやな」
「ただ、それはお前の価値が低いって意味じゃないで」
健太は黙っていた。
「相手が誰を好きになるかは、こっちで決められへん。お前ができるのは、自分の気持ちを伝えることと、相手の答えを受け止めることや」
「分かってるつもりなんやけどな」
「分かるのと、納得するのは別やからな」
健太は小さく笑った。
「お前、たまにはええこと言うな」
「たまにはな」
*
その夜。
健太は、まみにメッセージを送ろうとしていた。
『今日はありがとうございました。また会いたいです』
文章を作って、送信ボタンの前で指が止まった。
ひとみとのことがあったから、誰かに早く選ばれたいと思っているだけではないか。
まみとの関係を、寂しさを埋めるために利用してはいないか。
健太は考えた。
まみは、仕事や息子との生活について悩んでいる。
恋愛を急ぐつもりはないと言っていた。
その気持ちを尊重すると言いながら、自分だけが答えを求めていたのではないか。
健太は文章を少し変えた。
『今日はありがとうございました。話を聞かせてもらえてよかったです。また都合が合うときに会えたら嬉しいです』
送信した。
しばらくして、まみから返事が届いた。
『こちらこそありがとうございました。またお話ししましょう』
短い返事だった。
それでも、健太は画面を閉じた。
返事の長さに意味を探すのは、もうやめようと思った。
*
十一月二十日、土曜日。
ドリーム・エース・ナインの練習試合。
健太は三塁を守っていた。
一回表。
相手打者の打球が三遊間へ飛んできた。
健太は一歩目が遅れた。
ボールはグラブの先を抜け、レフト前へ転がった。
「大野、惜しい!」
田村の声が聞こえた。
健太は立ち上がり、土を払った。
試合は続いた。
三回裏、健太は打席に立った。
初球、外角のストレート。
見送った。
二球目、低めの変化球。
空振り。
三球目も振り遅れ、三振だった。
ベンチに戻ると、石田が声をかけてきた。
「まあ、次や次」
「今日は全然あかんな」
「そんな日もあるわ」
石田は笑っていた。
試合が終わった後、田村が全員を集めた。
「来月の忘年会、家族連れでも参加できるようにしようと思う」
「ええやん!」
何人かが賛成した。
結婚している者も、恋人がいる者も、少しずつ増えてきた。
健太は、その輪の中にいた。
誰かに選ばれなかったからといって、ここに居場所がないわけではない。
そう思おうとした。
*
帰り道。
健太は、ひとみとのやり取りをもう一度開いた。
彼女からは、それ以上メッセージは届いていない。
健太は画面を閉じた。
恋愛がうまくいかなかったとき、これまでは自分を責めるか、相手の気持ちを疑うか、そのどちらかだった。
今回は、少し違う。
残念だった。
悔しかった。
もっと仲良くなりたかった。
その気持ちは、確かにある。
それでも、ひとみが別の人を選んだことを否定する理由にはならない。
健太は夜空を見上げた。
三十六歳。
恋愛経験は、ほとんどない。
周囲の人間は、少しずつ人生を進めているように見える。
自分だけが、同じ場所に立ち止まっている気がした。
それでも、明日になれば仕事がある。
野球の練習もある。
そして、まみとの関係も、まだ答えが出ていない。
健太は歩き出した。
選ばれなかった夜を、誰かのせいにすることなく。
ただ、自分の気持ちを抱えたまま。




