第89話 彼女が選ぼうとしている人生
十一月六日、土曜日。
大野健太は、佐藤まみから届いたメッセージを何度も読み返していた。
『今度会ったときに聞いてほしいことがあります。私自身のこれからについて、少し考えていることがあるんです』
これからについて。
健太は、その言葉の意味を考えていた。
もしかすると、恋愛について何か話があるのかもしれない。
あるいは、息子との生活や仕事についての話かもしれない。
期待したい気持ちと、期待しすぎてはいけないという気持ちが入り混じっていた。
*
十一月九日、火曜日。
仕事帰り。
健太は、ドリーム・エース・ナインの田村と藤井に相談していた。
「今度、まみさんと会うことになった」
「お、よかったやん」
田村が笑った。
「それで、何か話があるらしいんや」
「何の話?」
「これからのことって」
藤井が首をかしげた。
「お前との関係についてとは限らんやろ」
「分かってる」
「分かってるなら、先に答えを決めるなよ」
田村も続けた。
「相手が話したいことを聞けばいい。それだけや」
健太はうなずいた。
「今回は余計なことを言わんようにするわ」
「それが一番難しそうやな」
藤井が笑った。
*
十一月十三日、土曜日。
午後二時。
健太は駅前のカフェでまみを待っていた。
約束の時間になると、まみがやってきた。
「お待たせしました」
「こんにちは。久しぶりですね」
「そうですね」
二人は笑顔で挨拶を交わした。
注文を済ませ、近況について話し始めた。
まみの息子は、少しずつ落ち着いた生活に戻っているという。
元夫との話し合いも、第三者に相談しながら進めているそうだ。
「まだ全部解決したわけではないですけど、前よりは安心しています」
「よかったですね」
健太は心からそう思った。
「健太さんはどうですか?」
「仕事も野球も、いつも通りです」
「野球、続けているんですね」
「はい。来週も試合があります」
まみは笑った。
「健太さんらしいですね」
*
しばらくして、まみはカップを置いた。
「今日は、少し話したいことがあるんです」
「はい」
「私、これから仕事を変えようかと思っています」
健太は驚いた。
「転職ですか?」
「はい。今の仕事も嫌いではないんですけど、息子との時間をもっと大切にしたくて」
「そうなんですね」
「勤務時間を短くするか、在宅でできる仕事を探すか、いろいろ考えています」
まみは少し笑った。
「ただ、収入が減る可能性もあるので、簡単には決められないんです」
健太はうなずいた。
「生活に関わることですもんね」
「そうなんです。今までは、仕事も育児も全部頑張ろうとしていました。でも、これからは無理をしすぎない生活にしたいんです」
「いいと思います」
「ただ、周りからは、子どものためにもっと働いた方がいいと言われることもあります」
健太は少し考えた。
「周りの意見もあると思いますけど、実際に生活するのはまみさんと息子さんですからね」
「そうですね」
「まみさんが納得できる選択をするのが一番だと思います」
まみは、少し安心したような表情を見せた。
「健太さんは、私が仕事を辞めたり、収入が減ったりしたら、どう思いますか?」
健太は一瞬、言葉に詰まった。
自分は年収六百万円程度。
家族を養うことになれば、生活費や教育費も必要になる。
まみには子どもがいる。
もし交際して、将来を考えるなら、お金の問題も無関係ではない。
しかし、今その話をする段階なのだろうか。
「正直に言うと、将来の生活を考えるなら、お金のことも大切だと思います。でも、今の段階で、まみさんの働き方に口を出すつもりはないです」
まみは健太を見つめた。
「そう言ってくれるんですね」
「俺も、まだ知らないことが多いですから」
「ありがとうございます」
*
午後四時。
二人はカフェを出た。
駅まで歩く途中、まみが言った。
「健太さんと話していると、無理に答えを出さなくていい気がします」
「そうですか?」
「はい。私、今まで人の期待に応えようとしてばかりだったんです」
まみは少し立ち止まった。
「母親として、働く人として、誰かの妻として。いつも何かを求められている気がしていました」
健太は黙って聞いた。
「だから、これからは自分の人生も大切にしたいんです」
「そうですね」
「恋愛も、焦って始めるつもりはありません」
健太はうなずいた。
「分かっています」
まみは笑った。
「でも、健太さんと会う時間は楽しいです」
その言葉に、健太の胸が高鳴った。
「俺も楽しいです」
「また会いましょう」
「はい」
二人は駅で別れた。
*
帰宅後。
健太は、姉の真紀に電話をした。
「今日、まみさんと会ってきた」
「どうやった?」
「仕事を変えようか考えてるらしい」
「そうなんや」
「子どもとの時間を大切にしたいって」
真紀はうなずくような声を出した。
「それで?」
「俺と話す時間は楽しいって言ってくれた」
「よかったやん」
健太は少し笑った。
「でも、恋愛は焦ってないって」
「それが今の彼女の気持ちなんやろ」
「俺は待った方がいいんかな」
真紀は少し強い口調で言った。
「だから、待つかどうかを彼女に決めてもらおうとするなって」
「え?」
「お前はお前の生活を続けたらええ。彼女と会いたいなら会いたいと伝えればいい。でも、彼女の人生を自分の都合で変えようとしたらあかん」
健太は黙って聞いていた。
「恋愛って、相手を自分の人生に合わせることやないやろ」
「そうやな」
電話を切った後、健太は窓の外を眺めた。
まみと一緒にいる時間は楽しい。
もっと知りたいと思う。
しかし、彼女には彼女の人生がある。
そして、自分にも自分の人生がある。
その二つが重なるかどうかは、まだ分からない。
*
十一月十四日、日曜日。
午後九時。
健太のスマートフォンに、ひとみからメッセージが届いた。
『お久しぶりです。最近どうしていますか?』
健太は画面を見つめた。
ひとみとの関係も、完全に終わったわけではない。
まみとの関係も、まだ始まったばかりだ。
健太は返信した。
『元気にしています。ひとみさんはどうですか?』
すぐに返事が届いた。
『元気です。実は、少しお話ししたいことがあります』
健太は眉をひそめた。
また、話したいこと。
その言葉に、少し嫌な予感がした。
次のメッセージは、予想していなかった内容だった。
『私、最近お付き合いを始めた人がいるんです』
健太は画面を見つめたまま、動けなかった。




