第87話 待つことしかできない男
十月十一日、月曜日。
大野健太は、通勤電車の中でスマートフォンを眺めていた。
佐藤まみからの最後のメッセージ。
『少し連絡を控えさせてください』
それに対して、自分は返信した。
『また話せるときが来たら連絡してください』
それで終わっている。
健太は、何度もトーク画面を開いていた。
新しいメッセージはない。
当然だ。
彼女は連絡を控えたいと言ったのだから。
それでも、画面を確認してしまう。
(いつまで待てばいいんだろう)
そう考えた瞬間、健太は自分の身勝手さに気づいた。
まみは、息子との生活を優先したいと言った。
自分の都合で、彼女に答えを求めることはできない。
しかし、待つことが正しいのかどうかも分からなかった。
*
その日の昼休み。
健太は木村亮と食堂で昼食を取っていた。
「最近、元気ないな」
「ちょっとな」
「例の女性?」
健太はうなずいた。
「子どものことで問題があって、しばらく連絡を控えたいって言われた」
「そうか」
「俺は待つしかないんかな」
木村は箸を置いた。
「待つって、どれくらい?」
「分からん」
「それなら、待つことを自分の生活の中心にせん方がええで」
健太は顔を上げた。
「どういうこと?」
「相手が戻ってくるかどうか分からん状態で、ずっとスマホを見てても仕方ないやろ」
「でも、気になるんや」
「そら気になるやろ。でも、お前にも仕事があるし、野球もあるし、生活があるやん」
木村は続けた。
「相手の事情を尊重することと、自分の時間を止めることは違うで」
健太は黙ってうなずいた。
*
十月十三日、水曜日。
仕事帰り。
健太は久しぶりにスポーツ用品店へ立ち寄った。
野球用の手袋が傷んできたため、新しいものを探していた。
店内には、グローブやバット、スパイクが並んでいる。
以前なら、必要以上に高価な商品に目を奪われていた。
しかし、最近は違った。
使いやすさと価格を比べ、自分に必要なものを選ぶ。
「これでいいか」
健太は手袋を購入した。
帰り道、ふと考えた。
自分は恋愛がうまくいかないと、すぐにそのことばかり考えてしまう。
仕事も野球も、ほかに楽しめることはあるはずなのに。
いつの間にか、女性からの連絡が自分の一日の気分を決めるようになっていた。
それは、健全な状態ではない。
*
十月十六日、土曜日。
ドリーム・エース・ナインの練習日。
健太はいつもより早くグラウンドに到着した。
田村が道具を準備していた。
「お、早いやん」
「今日はちょっと体を動かしたくてな」
キャッチボールを始めると、藤井がやってきた。
「最近、恋愛の方はどうなん?」
「しばらく連絡を控えたいって言われた」
「そっか」
「俺は何もできへんかった」
藤井はボールを受け取りながら答えた。
「何もできないことが、悪いこととは限らんで」
「そうかな」
「相手が自分で決めたいことなら、手を出さない方がいいこともある」
健太はボールを投げ返した。
「俺、何かしてあげたかったんやけどな」
「それは分かる。でも、助けたい気持ちと、相手が助けを求めてるかどうかは別や」
健太はうなずいた。
少しずつだが、理解できるようになってきた。
*
十月十八日、月曜日。
午後九時。
健太のスマートフォンに、ひとみからメッセージが届いた。
『こんばんは。先日のお話ですが、来週の土曜日はいかがですか?』
健太は画面を見つめた。
佐藤ひとみ。
三十五歳。
一度会って、会話が弾んだ女性だ。
まみとの連絡が途絶えている今、ひとみと会うことに後ろめたさを感じていた。
しかし、まみとは交際していない。
連絡を控えたいという彼女の希望もある。
健太は少し考えてから返信した。
『こんばんは。土曜日なら大丈夫です。ぜひお願いします』
ひとみから、すぐに返信があった。
『よかったです。楽しみにしています』
健太はスマートフォンを置いた。
新しい出会いを楽しんでもいい。
ただ、誰かを忘れるために別の誰かを利用するのは違う。
そう自分に言い聞かせた。
*
十月二十三日、土曜日。
午後一時半。
健太は、ひとみと待ち合わせたレストランに到着した。
「こんにちは」
「こんにちは。今日はありがとうございます」
二人は挨拶を交わし、店内へ入った。
ひとみは明るい表情で、最近行った旅行の話を始めた。
「この前、和歌山に行ってきたんです」
「いいですね。どこに行ったんですか?」
「海沿いをドライブして、地元のお店で魚を食べました」
「俺も車で出かけるのは好きです」
会話は自然に続いた。
食事をしながら、仕事の話や休日の過ごし方について話した。
ひとみは一人で過ごす時間も大切にしているという。
「結婚しても、ずっと一緒にいなきゃいけないとは思わないんです」
「そうなんですか」
「お互いの趣味や友人関係も大切にしたいですね」
健太はうなずいた。
「俺もそういう関係がいいと思います」
ひとみは笑った。
「大野さん、話しやすいですね」
その言葉に、健太の胸が少し弾んだ。
しかし、彼はすぐに恋愛感情だと決めつけないようにした。
話しやすい。
それは、話しやすいという意味だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
*
午後四時。
食事を終え、二人は店を出た。
「今日は楽しかったです」
ひとみが言った。
「俺もです」
「また会いましょう」
「ぜひ」
ひとみは笑顔で手を振り、駅へ向かった。
健太は、その姿を見送った。
帰宅途中、スマートフォンを確認すると、まみからの新しいメッセージはなかった。
ひとみとの時間は楽しかった。
それでも、まみのことを完全に忘れたわけではない。
健太は、誰か一人を好きになれば、すべてが解決すると思っていた。
だが、現実はそう簡単ではなかった。
恋愛には、相手の事情がある。
自分の気持ちだけでは進められない時間もある。
そして、自分自身の生活を大切にすることも必要だった。
その夜、健太は久しぶりにスマートフォンを机の上に置いたまま、テレビを見て過ごした。
誰からも連絡が来なくても、夜は過ぎていく。
その当たり前のことを、健太は少しずつ取り戻そうとしていた。




