第86話 元夫からの連絡
十月四日、月曜日。
大野健太は、朝から佐藤まみのことが気になっていた。
昨夜、彼女から届いたメッセージ。
『実は、元夫のことで少し問題が起きました』
それ以上の説明はなかった。
何が起きたのか。
彼女は困っているのか。
自分に何かできることがあるのか。
考えても答えは出なかった。
健太は、仕事の休憩時間にメッセージを送った。
『昨日の件、大丈夫ですか? 話せる範囲で聞きますので、無理しないでください』
しばらくして返信が届いた。
『ありがとうございます。今は大丈夫です。今度会ったときに話しますね』
健太は、それ以上聞かなかった。
*
十月六日、水曜日。
午後七時。
まみから連絡があった。
『今週の土曜日、午後二時から会えますか?』
健太はすぐに返信した。
『大丈夫です』
約束の時間と場所が決まった。
健太は、まみの力になりたいと思っていた。
しかし、どうすればいいのか分からない。
自分は彼女の恋人ではない。
家族でもない。
息子の父親でもない。
それなのに、何かをしてあげたいと思っている。
その気持ちは、本当に彼女のためなのだろうか。
それとも、自分が必要とされたいだけなのだろうか。
*
十月九日、土曜日。
午後二時。
駅前のカフェで、まみは健太を待っていた。
「こんにちは」
「こんにちは。来てくれてありがとうございます」
二人は席に座り、飲み物を注文した。
しばらく雑談をした後、まみが話し始めた。
「実は、元夫から連絡があったんです」
「そうなんですね」
「息子に会いたいと言ってきました」
健太は、静かにうなずいた。
「離婚してからも、父親ですから。子どもに会いたいと思うこと自体は、分からなくもないんです」
「はい」
「でも、急に連絡してきて、今週末に会わせてほしいと言われて」
まみは少し困ったように笑った。
「こちらの都合もあるし、息子の気持ちもあるでしょう。簡単に決められることではないと思うんです」
健太は、どう答えるべきか迷った。
元夫に会わせるべきなのか。
会わせない方がいいのか。
自分には判断できない。
「まみさんは、どうしたいんですか?」
健太は尋ねた。
「私は、まず息子の気持ちを確認したいです。本人がどう思っているか分からないまま、会わせることはしたくありません」
「それがいいと思います」
「ただ、元夫からは、父親なんだから会う権利があると言われてしまって」
まみの声が少し小さくなった。
「私が間違っているのかなって、考えてしまって」
健太はすぐに答えた。
「まみさんが一人で決めて、全部背負う必要はないと思います」
「そうですね」
「子どもの気持ちもありますし、必要なら専門家に相談してから決めてもいいんじゃないでしょうか」
まみはうなずいた。
「私もそうしようと思っています」
*
少し沈黙が流れた。
健太は、まみの表情を見た。
いつもの笑顔とは違い、疲れが見える。
「健太さん」
「はい」
「こういう話を聞かされるのって、嫌じゃないですか?」
「嫌じゃないですよ」
「恋愛の話をしているのに、元夫や子どもの話ばかりで」
健太は少し考えた。
「確かに、楽しい話ばかりではないですね。でも、それもまみさんの生活の一部なんだと思います」
「ありがとうございます」
「ただ、俺にできることには限界があると思います。法律的なことも、子どものことも、俺には分からないことが多いので」
まみは少し驚いたように健太を見た。
「そうですね。私も、健太さんに解決してほしいわけではないんです」
「はい」
「ただ、話を聞いてもらいたかったんです」
健太は、ようやく少し安心した。
何かを解決しなければならないわけではない。
ただ、話を聞くことが必要なときもある。
*
午後四時。
二人はカフェを出た。
駅まで歩きながら、まみが言った。
「今日はありがとうございました。少し気持ちが楽になりました」
「それならよかったです」
「でも、これからどうなるかは分かりません」
「そうですね」
「しばらく、子どものことを優先したいと思っています」
健太の胸が少し痛んだ。
また会う時間が減るかもしれない。
連絡も少なくなるかもしれない。
それでも、彼女の状況を無視して自分の希望を押しつけることはできない。
「分かりました。落ち着いたら、また連絡してください」
まみは頭を下げた。
「ありがとうございます」
二人は別れた。
*
その夜。
健太は、ひとみからのメッセージを確認した。
『先日はありがとうございました。また食事に行きませんか?』
健太は画面を見つめた。
ひとみとは、まだ一度会っただけだ。
まみとは三度会い、少しずつ彼女の事情を知り始めている。
どちらが自分に合うのか。
まだ分からない。
しかし、健太は今、まみとの関係について考える時間が必要だと感じていた。
ひとみに返信した。
『ありがとうございます。ぜひまたお会いしたいです。ただ、少し予定を確認してからでもよろしいでしょうか』
送信した。
その後、まみのことを考えた。
彼女には息子がいる。
元夫との問題もある。
自分の生活を守らなければならない。
健太が恋人になったとしても、すべての問題が解決するわけではない。
むしろ、新しい関係を築くことで、彼女の生活に新たな負担を与える可能性もある。
健太は初めて、恋愛とは相手の人生に入っていくことなのだと実感した。
*
十月十日、日曜日。
午後八時過ぎ。
まみからメッセージが届いた。
『昨日はありがとうございました。実は、しばらく恋愛のことを考える余裕がなくなりそうです。健太さんと会うのは楽しかったです。でも、今は息子のことを優先したいと思っています』
健太は何度も読み返した。
続けて、もう一通届いた。
『勝手なお願いで申し訳ありません。少し連絡を控えさせてください』
健太の指が止まった。
彼女との関係が終わったわけではない。
しかし、今までのように連絡を取り合うことはできなくなる。
健太は、すぐに返信できなかった。
期待していた。
次に会える日を楽しみにしていた。
自分の気持ちが少しずつ大きくなっていたことにも気づいていた。
それでも、彼女を責める理由はない。
健太はゆっくり文章を打った。
『分かりました。息子さんとの時間を大切にしてください。こちらのことは気にしなくて大丈夫です。また話せるときが来たら連絡してください』
送信した。
スマートフォンを机に置く。
部屋の中は静かだった。
健太は、誰かに選ばれたいと思っていた。
しかし、相手にも選ばなければならないものがある。
そして時には、自分が選ばれないことを受け入れなければならない。
彼は、その現実を少しずつ知り始めていた。




