第85話 選ばれたい男の本音
九月二十七日、月曜日。
大野健太は、出勤前の食卓でスマートフォンを眺めていた。
画面には、佐藤ひとみから届いたメッセージが表示されている。
『もしよかったら、今度お茶でもしませんか?』
三十五歳のひとみ。
明るく、話題も豊富で、メッセージのやり取りも続いている。
一方で、佐藤まみとは三度会った。
まみは三十七歳。
六歳の息子を育てながら仕事をしている。
二人とも、健太にとっては気になる存在だった。
「どうしたん? 朝からスマホ見て」
母の美代子が声をかけた。
「いや、何でもない」
「また女の人?」
健太は苦笑した。
「まあな」
「焦らんときや。相手にも生活があるんやから」
「分かってるって」
美代子は食器を片付けながら言った。
「でも、相手に好かれることばっかり考えたらあかんよ。自分がその人と一緒にいて、どう感じるかも大事やで」
健太は、その言葉を頭の中で繰り返した。
*
昼休み。
健太は、ひとみに返信した。
『ありがとうございます。ぜひ一度お会いしてみたいです。来週なら都合がつきそうです』
すぐに返信が届いた。
『よかったです。では、来週の日曜日はいかがですか?』
健太は予定を確認した。
草野球の試合は土曜日。
日曜日は空いている。
『大丈夫です。午後なら都合がつきます』
こうして、ひとみとの初対面が決まった。
健太は少し浮き立つ気持ちを抑えながら、スマートフォンをしまった。
*
九月二十九日、水曜日。
仕事終わり。
健太は木村亮と帰り道を歩いていた。
「最近、どうなん?」
「今度、別の女性とも会うことになった」
「例の子どもがいる人とは?」
「まみさんとも連絡は取ってる」
木村は少し考えた。
「ちゃんと自分の気持ちを整理できてるか?」
「まだ分からん」
「二人ともいい人なんか?」
「そうやな。タイプは違うけど」
「なら、比べる前に、それぞれの人と普通に話してみたらええやん」
健太はうなずいた。
「ただな」
木村が続けた。
「相手を選ぶことばっかり考えて、自分が選ばれるかどうかを気にしすぎるなよ」
「どういうこと?」
「お前、女性から返信が来たら喜んで、返信が遅れたら落ち込むやろ。相手の反応が自分の価値みたいになってる」
健太は言い返せなかった。
「恋愛は採点試験ちゃうで。相性が合うかどうかや」
「分かってるけど、なかなか難しいな」
「そら、慣れてないからやろ。でも、相手も人間や。お前のことを好きになる義務はないし、お前も誰かを好きにならなあかんわけでもない」
その言葉は、健太にとって少し厳しかった。
しかし、間違ってはいなかった。
*
十月二日、土曜日。
ドリーム・エース・ナインの試合が行われた。
健太は三塁手として出場した。
第二打席、外角の球を引っ張り、三塁線を破る二塁打を放った。
「ナイスバッティング!」
ベンチから石田が声を上げた。
健太は二塁ベース上で笑った。
試合は接戦の末、チームが勝利した。
終了後、田村が健太に声をかけた。
「最近、少し顔つきが変わったな」
「そうか?」
「前は女性の話になると、すぐ浮かれてたけどな」
藤井も笑った。
「今は少し考えるようになったんちゃう?」
「俺も成長してるってことやな」
健太は胸を張った。
すると中村が口を挟んだ。
「いやいや、まだ彼女できてへんやん」
「うるさいわ!」
周囲から笑いが起こった。
健太も笑った。
ただ、以前のように強がって笑うのではなく、今の自分を少しだけ認められるようになっていた。
*
十月三日、日曜日。
午後一時半。
健太は、ひとみとの待ち合わせ場所に到着した。
駅前のカフェ。
約束の時間まで、まだ十分ある。
健太は何度も髪型を確認し、シャツの襟を整えた。
「大野さんですか?」
声をかけられ、振り返る。
そこに立っていたのは、肩までの髪をゆるく巻いた女性だった。
「佐藤ひとみさんですか?」
「はい。初めまして」
「初めまして。大野健太です」
二人は挨拶を交わし、店内へ入った。
ひとみは旅行の話を始めた。
「私、最近一人で京都に行ったんです」
「一人でですか?」
「はい。自分のペースで歩けるので、結構好きなんですよ」
「俺は一人旅はあまりしたことがないですね」
「そうなんですね。今度、どこか行ってみたらいいですよ」
会話は弾んだ。
ひとみは質問をしてくれるし、健太の話にもよく笑ってくれた。
健太は、久しぶりに自分が女性との会話を楽しんでいると感じた。
「大野さんは、結婚したいと思っていますか?」
「はい。できれば、将来は家庭を持ちたいです」
「私もそうです。ただ、結婚すること自体が目的ではないんです」
ひとみはコーヒーを一口飲んだ。
「一緒にいて自然体でいられる人がいいですね。無理して合わせなくてもいい関係が理想です」
「いいですね」
健太はうなずいた。
「大野さんは、どんな人がタイプですか?」
健太は少し考えた。
以前なら、容姿や年齢、性格などを並べていただろう。
しかし、今日は違った。
「一緒にいて、無理をしなくていい人ですかね」
ひとみは笑った。
「それ、いいですね」
*
午後四時。
二人は店を出た。
「今日はありがとうございました」
ひとみが言った。
「こちらこそ、楽しかったです」
「また機会があれば、食事でも行きましょう」
「ぜひ」
連絡先を交換し、二人は別れた。
健太は駅に向かいながら、胸の高鳴りを感じていた。
ひとみとの会話は楽しかった。
もっと話してみたいと思った。
しかし、同時にまみの顔も浮かんでいた。
彼女とは、次にいつ会えるか決まっていない。
ひとみとは、また会えるかもしれない。
健太は、どちらかを急いで選ぶ必要はないと思った。
ただし、曖昧な関係を長引かせて、二人の気持ちを都合よく利用することはしたくない。
それだけは忘れないようにしようと思った。
*
その夜。
まみからメッセージが届いた。
『こんばんは。来週、少し相談したいことがあるのですが、会えますか?』
健太は返信した。
『大丈夫ですよ。何かありましたか?』
『直接お話ししたいです』
健太はスマートフォンを見つめた。
相談。
その言葉が気になった。
何か困ったことがあったのだろうか。
それとも、自分との関係について話したいのだろうか。
期待と不安が入り混じる。
健太は、以前の自分ならすぐに悪い想像をしていたことに気づいた。
そして、返信を待つことにした。
まみから届いた最後のメッセージは、短かった。
『実は、元夫のことで少し問題が起きました』
健太の表情が変わった。
彼女の過去は、まだ終わっていなかった。
そして、その問題は、健太が想像していたよりも現実的で重いものだった。




