第84話 二人の女性の間で
九月十九日、日曜日。
大野健太は、スマートフォンを手にしたまま考え込んでいた。
画面には、マッチングアプリで新しく知り合った佐藤ひとみからのメッセージが表示されている。
『はじめまして。プロフィールを見て、野球が好きなところに興味を持ちました。私もスポーツ観戦が好きです』
三十五歳。
旅行や食べ歩きが趣味で、将来を考えられる相手を探しているという。
一方、健太には佐藤まみがいる。
まだ二回しか会っていない。
恋人でもない。
それでも、まみとはもう一度会いたいと思っていた。
(ひとみさんとも話してみてもいいんかな)
健太は、以前の自分なら迷わず返信していただろうと思った。
しかし、今は違う。
まみとの関係を大切にしたい気持ちがある。
だからといって、交際していない相手に対して、ほかの女性との出会いをすべて断つ必要があるのか。
答えは出なかった。
*
午後六時。
健太は、姉の真紀に電話をした。
「ちょっと相談があるんやけど」
「また恋愛?」
「そうや」
真紀は笑った。
「今度は何?」
「マッチングアプリで別の女性からメッセージが来たんや。今、会ってる女性もいるんやけど、どうしたらいいと思う?」
「付き合ってるん?」
「いや、まだ二回会っただけ」
「じゃあ、自由やろ」
「でも、なんか悪い気がして」
真紀は少し間を置いて答えた。
「お前がまみさんと交際する約束をしてるなら別やけど、そうじゃないなら、ほかの人と話すこと自体は悪くないと思うで」
「そうなんかな」
「ただし、二人に同時に特別なことを言ったり、付き合ってるような態度を取ったりするのは違うやろ」
「それは分かってる」
「それに、お前自身が何を求めてるのか考えたら?」
「結婚したいし、恋人もほしい」
「それだけ?」
健太は黙った。
「誰かに必要とされたいとか、寂しくないようにしたいとか、そういう気持ちもあるんちゃう?」
その言葉に、健太はすぐには返事ができなかった。
*
九月二十日、月曜日。
仕事の休憩時間。
健太は、ひとみに返信した。
『はじめまして。メッセージありがとうございます。野球は今も草野球を続けています。スポーツ観戦も好きなんですか?』
数分後、返事が届いた。
『はい。野球もサッカーも見ます。自分で運動するのは苦手ですけど』
そこから会話が始まった。
ひとみは大阪市内で事務職をしており、休日には友人と食事に行ったり、日帰り旅行を楽しんだりしているという。
『健太さんは休日、何をしていますか?』
『草野球が多いですね。あとは家でゆっくりしたり、たまに出かけたりします』
『健康的でいいですね。私は最近、運動不足が気になっています』
健太は、少し嬉しくなった。
会話が続く。
質問をしてくれる。
返信も早い。
話題も自然に広がる。
まみとのやり取りとは、また違った楽しさがあった。
健太は、自分が女性と普通に会話できていることに、少し自信を持ち始めていた。
*
九月二十二日、水曜日。
まみからメッセージが届いた。
『こんばんは。今週末、少し時間が取れそうなのですが、よかったらお茶しませんか?』
健太はすぐに返信した。
『ぜひお願いします』
その後、日曜日の午後に会う約束が決まった。
健太は嬉しかった。
しかし、ひとみとのやり取りも続いている。
どちらかを選ばなければならないような気持ちになり、落ち着かなかった。
その夜、健太は野球仲間の藤井に相談した。
「二人の女性と連絡取ってるんやけど、これってどうなんやろ?」
藤井は少し笑った。
「付き合ってないなら、連絡を取ること自体は問題ないんちゃう?」
「でも、どっちかに失礼な気がして」
「失礼かどうかは、相手に何を伝えてるかによるやろ」
「どういうこと?」
「まみさんには、付き合うって約束してないんやろ?」
「してない」
「ひとみさんにも、ほかに誰とも会ってないなんて言ってないんやろ?」
「言ってない」
「なら、今の段階で自分を責める必要はないと思う。ただ、どちらかと真剣に付き合うことになったら、曖昧にしたまま二人を引っ張るなよ」
健太はうなずいた。
「それに、お前は女性と知り合うと、すぐに将来まで考える癖がある」
「そうかな」
「そうや。まだ二回しか会ってない人と、メッセージをしている人やろ。まずは相手を知ることや」
藤井の言葉は、健太の胸に残った。
*
九月二十六日、日曜日。
午後二時。
健太は、まみと駅前のカフェで待ち合わせた。
「こんにちは」
「こんにちは。今日はありがとうございます」
二人は店内に入り、窓際の席に座った。
「最近、どうですか?」
まみが尋ねた。
「仕事は普通ですね。野球も続けてます」
「そういえば、前に試合があるって言ってましたね」
「はい。来週も試合があります」
「頑張ってください」
何気ない会話が続く。
その後、まみが少し真剣な表情になった。
「健太さん、一つ聞いてもいいですか?」
「はい」
「今、ほかにやり取りしている女性はいますか?」
健太は驚いた。
一瞬、嘘をつこうかと思った。
しかし、すぐに考え直した。
「います。マッチングアプリで、最近メッセージを始めた人がいます」
まみは静かにうなずいた。
「そうなんですね」
「まだ会ってはいません。まみさんとは、これからも会って話したいと思っています」
「ありがとうございます。でも、私もまだ健太さんのことを知っている途中ですから」
まみは微笑んだ。
「私も、今すぐ誰か一人に決められる状況ではありません」
「そうなんですね」
「ただ、もしお互いに真剣に考えるようになったら、そのときはきちんと話したいです」
健太はうなずいた。
「俺もそう思います」
*
帰り道。
健太は、まみと駅まで歩いた。
別れ際、彼女が言った。
「今日は正直に話してくれてありがとうございました」
「隠すことではないと思ったので」
「そうですね」
まみは少し笑った。
「また会いましょう」
「はい」
健太は、彼女の後ろ姿を見送った。
以前なら、別れ際の言葉だけで期待を膨らませていたかもしれない。
今は、少し違う。
彼女の気持ちを勝手に決めつけず、自分の気持ちも誤魔化さない。
それが、今できることだった。
帰宅後、ひとみからメッセージが届いた。
『もしよかったら、今度お茶でもしませんか?』
健太は画面を見つめた。
新しい出会い。
そして、もう一度会いたいと思っている女性。
二つの可能性が、目の前にあった。
健太は返信画面を開いた。
しかし、送信ボタンを押す前に、ふと思った。
(俺は、誰かに選ばれたいだけなんじゃないか)
その疑問は、すぐには消えなかった。




