第83話 過去を話すということ
九月十二日、日曜日。
大野健太は、朝から落ち着かなかった。
昨日、佐藤まみと二度目の食事をした。
会話は楽しかった。
彼女の笑顔も印象に残っている。
帰宅後には、まみから「今日は楽しかったです。また連絡しますね」というメッセージも届いた。
それなのに、健太の頭の中には別のことが浮かんでいた。
(また連絡しますって、いつだろう)
(本当にまた会う気があるのかな)
(子どもがいるから、俺との時間は作れないんじゃないか)
考え始めると、止まらなくなる。
「またやってるな」
独り言をつぶやき、スマートフォンを机に置いた。
*
午後。
健太は、ドリーム・エース・ナインの練習に参加していた。
「おい健太、最近スマホばっかり見てるな」
捕手の田村が声をかけた。
「そんなことないやろ」
「いや、打席に入る前も見てたぞ」
「それは通知が来たからや」
藤井が笑った。
「彼女?」
「まだ彼女じゃない」
「じゃあ、気になる人か」
健太は少し照れながらうなずいた。
「子どもがいる女性なんや」
「そうなんか」
田村はキャッチャーミットを外した。
「それなら、連絡の頻度だけで気持ちを判断したらあかんぞ。生活の優先順位が違うんやから」
「分かってる」
「分かってるって言う奴ほど、分かってないことがあるからな」
藤井が口を挟んだ。
「相手が返信できない時間を、自分への評価に変換するなよ」
健太は苦笑した。
「お前ら、恋愛の先生みたいになってきたな」
「お前が生徒として問題だらけなんや」
田村の言葉に、周囲から笑いが起こった。
健太も笑った。
しかし、心のどこかでは図星だと感じていた。
*
九月十五日、水曜日。
午後八時過ぎ。
健太のスマートフォンに、まみからメッセージが届いた。
『こんばんは。少し相談というか、話しておきたいことがあります』
健太はすぐに返信した。
『どうしました?』
『今度会えたときに話してもいいですか?』
『もちろんです。急がなくて大丈夫ですよ』
しばらくして、まみから返信があった。
『ありがとうございます。実は、私が離婚した理由についてです』
健太の指が止まった。
ついに、彼女が過去を話そうとしている。
『分かりました。話せる範囲で聞かせてください』
そう送った。
*
九月十八日、土曜日。
午後二時。
二人は前回と同じカフェで待ち合わせた。
まみは少し緊張した表情をしていた。
「今日は時間を作ってくれてありがとうございます」
「こちらこそ」
注文を済ませると、まみはゆっくり話し始めた。
「私、結婚していた頃、夫と価値観が合わなくなっていったんです」
健太は黙って聞いた。
「最初は普通に仲良くしていました。でも、子どもが生まれてから、生活が変わりました」
「子育てで忙しくなったんですね」
「そうです。私は仕事と育児と家事を両立しようとしていました。でも、夫は自分の生活をあまり変えようとしなかった」
まみはカップを見つめた。
「何度も話し合いました。でも、話し合いをしても、結局私が我慢することになってしまう。だんだん、何を言っても無駄だと思うようになりました」
健太は何か言おうとしたが、言葉が出なかった。
「それで、離婚しました」
「そうだったんですね」
「夫が全部悪かったと言いたいわけではありません。私にも反省するところはあったと思います。ただ、あのまま一緒にいるのは難しかった」
まみは一度、息を吐いた。
「今は、息子と二人で生活しています。大変なこともありますけど、穏やかに過ごせています」
「話してくれてありがとうございます」
健太はそう答えた。
本当は、もっと聞きたいことがあった。
元夫とは連絡を取っているのか。
養育費はどうなっているのか。
子どもは父親のことをどう思っているのか。
しかし、それらを今聞く必要はないと思った。
「健太さんは、どう思いました?」
まみが尋ねた。
「どうって?」
「離婚した女性と付き合うことについてです」
健太は少し考えた。
「正直、経験がないので分からないことはあります。でも、離婚したことだけで相手を判断したくないです」
「子どもがいることも?」
「それも含めて、まみさんの人生だと思います」
まみは小さくうなずいた。
「ありがとうございます。でも、簡単なことではないですよ」
「分かっています」
そう答えたものの、健太は本当に分かっているのか自信がなかった。
子どもが急に熱を出すこともある。
学校行事もある。
休日の予定が変わることもある。
それを頭で理解することと、実際に受け入れることは違う。
*
帰り道。
駅まで歩く途中、まみが言った。
「もう一つ、お願いがあります」
「何ですか?」
「私は、すぐに再婚したいわけではありません」
健太は足を止めなかったが、胸の中が少しざわついた。
「息子のこともあるし、私自身も慎重になっています。誰かと付き合うとしても、時間をかけたいんです」
「分かりました」
「それでも、健太さんは大丈夫ですか?」
健太はすぐに答えられなかった。
自分は結婚したいと思っている。
できれば早く恋人がほしい。
誰かと一緒に過ごしたい。
自分を必要としてくれる人がほしい。
その気持ちがあるのは事実だった。
しかし、彼女に急いでほしいとは言えない。
「俺も、すぐに答えを出してほしいとは思っていません。もう少し、お互いを知っていけたらと思います」
まみは微笑んだ。
「そう言ってもらえると嬉しいです」
駅に到着すると、二人は別れた。
*
その夜。
健太は自宅で一人、夕食を食べていた。
まみの話を思い返していた。
彼女は、過去に結婚していた。
自分には経験のない生活を送り、子どもを育て、離婚を経験した。
同じ三十代でも、歩んできた道はまったく違う。
健太は、自分の人生が遅れているように感じていた。
だが、まみの人生を聞いて、少しだけ考えが変わった。
結婚しているから幸せとは限らない。
恋人がいるから満たされるとも限らない。
それでも、健太は誰かと一緒に生きていきたいと思っていた。
その願いを捨てる必要はない。
ただ、相手にも相手の願いがある。
健太はスマートフォンを手に取った。
まみからメッセージが届いていた。
『今日は話を聞いてくれてありがとうございました。少し緊張していましたが、話せてよかったです』
健太は返信した。
『話してくれて嬉しかったです。こちらこそありがとうございました』
送信後、健太は画面を閉じた。
そのとき、別の通知が表示された。
マッチングアプリからの新しいメッセージだった。
相手の名前は、佐藤ひとみ。
三十五歳。
プロフィールには、こう書かれていた。
『休日は友人と出かけたり、一人で旅行したりしています。将来を考えられる相手と出会いたいです』
健太は、しばらくその文章を眺めていた。
まみとの関係を大切にしたい。
しかし、まだ交際しているわけではない。
自分は、ほかの女性と出会うことをやめるべきなのだろうか。
その答えを考えながら、健太はスマートフォンを伏せた。
恋愛に正解はない。
けれど、誰かを傷つけないために考えなければならないことは、確かにある。




