第82話 母親である前に、一人の女性
九月十一日、土曜日。
午後一時四十分。
大野健太は、駅前の時計を何度も確認していた。
待ち合わせは午後二時。
二度目の食事とはいえ、女性と二人きりで会う経験がほとんどない健太にとって、緊張する時間だった。
今日会うのは、佐藤まみ。
三十七歳。離婚歴があり、六歳の息子を育てている。
前回のカフェでの会話が楽しかったこともあり、健太は今回の約束を楽しみにしていた。
「お待たせしました」
声がした。
振り返ると、まみが立っていた。
「こんにちは。早かったですね」
「いや、俺も今来たところです」
実際には二十分前から待っていたが、健太はそう答えた。
まみは紺色のワンピースに、薄いベージュのカーディガンを羽織っていた。
「今日はありがとうございます」
「こちらこそ。来てくれて嬉しいです」
二人は駅近くの洋食店へ向かった。
*
店内は落ち着いた雰囲気だった。
窓際の席に座り、メニューを開く。
「健太さんは何にします?」
「ハンバーグにしようかな」
「私もそれにしようかな」
注文を済ませると、自然と会話が始まった。
「仕事は忙しいですか?」
「今は少し落ち着いてます。まみさんは?」
「私は忙しいですね。仕事もあるし、家に帰ったら家事もあるので」
「大変ですね」
健太は、すぐに励まそうとした。
「でも、頑張ってるんですね」
まみは少し笑った。
「ありがとうございます。でも、頑張ってるって言われると、ちょっと困ることもあるんです」
「どうしてですか?」
「母親だから頑張るのが当たり前、みたいに思われることがあるでしょう?」
健太は黙って聞いた。
「もちろん、子どものことは大切です。でも、私だって疲れる日もあるし、一人でゆっくりしたい日もあります」
「そうですよね」
「母親だからって、いつも強くいられるわけじゃないんです」
その言葉には、少しだけ寂しさが混じっていた。
健太は、彼女の話を遮らないように気をつけた。
「俺は、子どもがいるから大変だとか、そういう目で見たいわけじゃないです」
「うん」
「まみさん自身のことを知りたいと思っています」
まみは、ゆっくりと顔を上げた。
「そう言ってもらえるのは嬉しいです」
*
食事が終わり、二人は近くのカフェへ移動した。
まみはコーヒーを注文し、健太はアイスティーを頼んだ。
「健太さんは、どうして今まで結婚しなかったんですか?」
突然の質問だった。
健太は少し困ったように笑った。
「正直に言うと、女性と付き合った経験がないんです」
「そうなんですね」
「だから、恋愛については分からないことばかりです」
「それを恥ずかしいと思いますか?」
健太は少し考えた。
「思います。周りは結婚して子どももいるし、自分だけ遅れてるような気がします」
「でも、誰かと付き合ったことがないからって、人として何かが足りないわけじゃないですよ」
その言葉は、以前、井上かずえから聞いた言葉にも似ていた。
ただ、まみの言葉には別の意味があった。
「私も、結婚したからといって恋愛がうまくいったわけではないですから」
まみはカップに手を添えた。
「結婚していた頃は、家族として一緒にいることが大切だと思っていました。でも、いつの間にか、自分の気持ちを後回しにしていたんです」
「離婚は、大変でしたか?」
健太は尋ねてから、少し後悔した。
まみはすぐには答えなかった。
「大変でした。でも、今は落ち着いています。詳しいことは、もう少し仲良くなってから話したいです」
「分かりました」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいですよ」
健太はそう答えた。
聞きたいことはある。
しかし、彼女が話したくないことまで聞く必要はない。
それは、ようやく理解し始めたことだった。
*
午後四時。
駅前で別れる時間になった。
「今日はありがとうございました」
まみが言った。
「こちらこそ。楽しかったです」
「また時間が合えば、会いましょう」
健太の胸が高鳴った。
「ぜひ」
しかし、まみは続けた。
「ただ、私は子どもとの生活が一番大切です。急に会えなくなることもあるし、連絡が遅くなることもあります。それを理解してもらえると嬉しいです」
健太は少し考えてから答えた。
「分かりました。俺も自分の生活がありますし、お互い無理のない範囲で会えたらいいと思います」
まみは安心したように笑った。
「そうですね」
二人は別れた。
健太は駅の改札へ向かいながら、今日の会話を振り返った。
母親としてのまみ。
仕事をするまみ。
一人の女性としてのまみ。
そのすべてが彼女なのだろう。
自分は、その一部分だけを見て判断してはいけない。
*
帰宅後。
健太は、姉の真紀と電話で話していた。
「それで、どうやったん?」
「楽しかったで。また会う話もした」
「よかったやん」
「ただ、子どものことが一番大切やって言われた」
「当たり前やろ」
真紀は即答した。
「お前、そこに対抗しようと思ってないやろうな?」
「そんなわけないやん」
「ならええけど。子どもと恋人を比べるような関係になったら、うまくいかへんで」
健太は黙った。
「それに、相手が子どもを大切にしていることと、お前を大切にしないことは別の話やからな」
「うん」
「自分が寂しいときもあるやろうけど、相手の事情を尊重できるかどうかやな」
電話を切った後、健太はベッドに横になった。
スマートフォンには、まみからメッセージが届いていた。
『今日は楽しかったです。また連絡しますね』
健太は返信した。
『こちらこそ、ありがとうございました。また話せるのを楽しみにしています』
送信して、スマートフォンを置いた。
嬉しかった。
だが、まだ恋人ではない。
彼女の息子に会う予定もない。
次に会える日も決まっていない。
それでも、健太は初めて、相手の生活を壊さずに関係を育てたいと思った。
その気持ちが本物なのか。
それとも、誰かに必要とされたいという自分の欲求なのか。
答えはまだ出ていなかった。
そして、まみの側にも、健太にはまだ話していない事情があった。
彼女は、次に会うとき、自分の過去について少しだけ話そうと決めていた。
その話を聞いたとき、健太はどんな顔をするのだろう。




