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『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第5章 41歳の女性が教えてくれない答え

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82/110

第82話 母親である前に、一人の女性

九月十一日、土曜日。


午後一時四十分。


大野健太は、駅前の時計を何度も確認していた。


待ち合わせは午後二時。


二度目の食事とはいえ、女性と二人きりで会う経験がほとんどない健太にとって、緊張する時間だった。


今日会うのは、佐藤まみ。


三十七歳。離婚歴があり、六歳の息子を育てている。


前回のカフェでの会話が楽しかったこともあり、健太は今回の約束を楽しみにしていた。


「お待たせしました」


声がした。


振り返ると、まみが立っていた。


「こんにちは。早かったですね」


「いや、俺も今来たところです」


実際には二十分前から待っていたが、健太はそう答えた。


まみは紺色のワンピースに、薄いベージュのカーディガンを羽織っていた。


「今日はありがとうございます」


「こちらこそ。来てくれて嬉しいです」


二人は駅近くの洋食店へ向かった。


     *


店内は落ち着いた雰囲気だった。


窓際の席に座り、メニューを開く。


「健太さんは何にします?」


「ハンバーグにしようかな」


「私もそれにしようかな」


注文を済ませると、自然と会話が始まった。


「仕事は忙しいですか?」


「今は少し落ち着いてます。まみさんは?」


「私は忙しいですね。仕事もあるし、家に帰ったら家事もあるので」


「大変ですね」


健太は、すぐに励まそうとした。


「でも、頑張ってるんですね」


まみは少し笑った。


「ありがとうございます。でも、頑張ってるって言われると、ちょっと困ることもあるんです」


「どうしてですか?」


「母親だから頑張るのが当たり前、みたいに思われることがあるでしょう?」


健太は黙って聞いた。


「もちろん、子どものことは大切です。でも、私だって疲れる日もあるし、一人でゆっくりしたい日もあります」


「そうですよね」


「母親だからって、いつも強くいられるわけじゃないんです」


その言葉には、少しだけ寂しさが混じっていた。


健太は、彼女の話を遮らないように気をつけた。


「俺は、子どもがいるから大変だとか、そういう目で見たいわけじゃないです」


「うん」


「まみさん自身のことを知りたいと思っています」


まみは、ゆっくりと顔を上げた。


「そう言ってもらえるのは嬉しいです」


     *


食事が終わり、二人は近くのカフェへ移動した。


まみはコーヒーを注文し、健太はアイスティーを頼んだ。


「健太さんは、どうして今まで結婚しなかったんですか?」


突然の質問だった。


健太は少し困ったように笑った。


「正直に言うと、女性と付き合った経験がないんです」


「そうなんですね」


「だから、恋愛については分からないことばかりです」


「それを恥ずかしいと思いますか?」


健太は少し考えた。


「思います。周りは結婚して子どももいるし、自分だけ遅れてるような気がします」


「でも、誰かと付き合ったことがないからって、人として何かが足りないわけじゃないですよ」


その言葉は、以前、井上かずえから聞いた言葉にも似ていた。


ただ、まみの言葉には別の意味があった。


「私も、結婚したからといって恋愛がうまくいったわけではないですから」


まみはカップに手を添えた。


「結婚していた頃は、家族として一緒にいることが大切だと思っていました。でも、いつの間にか、自分の気持ちを後回しにしていたんです」


「離婚は、大変でしたか?」


健太は尋ねてから、少し後悔した。


まみはすぐには答えなかった。


「大変でした。でも、今は落ち着いています。詳しいことは、もう少し仲良くなってから話したいです」


「分かりました」


「ごめんなさい」


「謝らなくていいですよ」


健太はそう答えた。


聞きたいことはある。


しかし、彼女が話したくないことまで聞く必要はない。


それは、ようやく理解し始めたことだった。


     *


午後四時。


駅前で別れる時間になった。


「今日はありがとうございました」


まみが言った。


「こちらこそ。楽しかったです」


「また時間が合えば、会いましょう」


健太の胸が高鳴った。


「ぜひ」


しかし、まみは続けた。


「ただ、私は子どもとの生活が一番大切です。急に会えなくなることもあるし、連絡が遅くなることもあります。それを理解してもらえると嬉しいです」


健太は少し考えてから答えた。


「分かりました。俺も自分の生活がありますし、お互い無理のない範囲で会えたらいいと思います」


まみは安心したように笑った。


「そうですね」


二人は別れた。


健太は駅の改札へ向かいながら、今日の会話を振り返った。


母親としてのまみ。


仕事をするまみ。


一人の女性としてのまみ。


そのすべてが彼女なのだろう。


自分は、その一部分だけを見て判断してはいけない。


     *


帰宅後。


健太は、姉の真紀と電話で話していた。


「それで、どうやったん?」


「楽しかったで。また会う話もした」


「よかったやん」


「ただ、子どものことが一番大切やって言われた」


「当たり前やろ」


真紀は即答した。


「お前、そこに対抗しようと思ってないやろうな?」


「そんなわけないやん」


「ならええけど。子どもと恋人を比べるような関係になったら、うまくいかへんで」


健太は黙った。


「それに、相手が子どもを大切にしていることと、お前を大切にしないことは別の話やからな」


「うん」


「自分が寂しいときもあるやろうけど、相手の事情を尊重できるかどうかやな」


電話を切った後、健太はベッドに横になった。


スマートフォンには、まみからメッセージが届いていた。


『今日は楽しかったです。また連絡しますね』


健太は返信した。


『こちらこそ、ありがとうございました。また話せるのを楽しみにしています』


送信して、スマートフォンを置いた。


嬉しかった。


だが、まだ恋人ではない。


彼女の息子に会う予定もない。


次に会える日も決まっていない。


それでも、健太は初めて、相手の生活を壊さずに関係を育てたいと思った。


その気持ちが本物なのか。


それとも、誰かに必要とされたいという自分の欲求なのか。


答えはまだ出ていなかった。


そして、まみの側にも、健太にはまだ話していない事情があった。


彼女は、次に会うとき、自分の過去について少しだけ話そうと決めていた。


その話を聞いたとき、健太はどんな顔をするのだろう。

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