第8話 画面の向こうの女性は、俺に興味がない
四月下旬。
俺、大野健太は、人生で初めてオンラインの交流会に参加することになった。
きっかけは、会社の同僚である木村亮の一言だった。
『うちの嫁の友達と、オンラインで話してみません?』
その言葉を聞いてから、俺は落ち着かなかった。
相手は独身の女性らしい。
つまり、俺にも恋愛のチャンスがあるかもしれない。
いや、待て。
まだ会ったこともない。
そもそも、相手が俺と恋愛したいと思っているわけでもない。
俺は何度も自分に言い聞かせた。
しかし、頭の中では勝手に話が進んでいた。
オンラインで知り合う。
仲良くなる。
連絡先を交換する。
二人で食事に行く。
交際する。
そして、いつか結婚する。
「……いやいや、早すぎるやろ!」
自分で自分に突っ込みを入れた。
まだ第一球も投げられていない。
それなのに、俺の頭の中では、すでに日本シリーズが始まっていた。
*
交流会当日の土曜日。
午後七時。
俺は自分の部屋で、スマートフォンの画面を見つめていた。
参加者は、全部で六人。
俺と木村。
木村の妻。
そして、女性が三人。
木村から聞いた話では、参加する女性たちは、二十代後半から三十代半ばらしい。
そのうち一人は独身で、仕事は事務職。
もう一人は医療関係。
最後の一人は、会社員だという。
名前も、詳しい年齢も、まだ聞いていなかった。
俺はクローゼットを開け、服を選んだ。
普段着のTシャツ。
いや、初対面なのだから、もう少しきちんとした服がいいだろう。
結局、紺色のポロシャツに着替えた。
鏡の前で髪を整える。
腹を少し引っ込めてみる。
意味がないと分かっていても、自然とそうしてしまう。
「よし……」
俺は椅子に座り、スマートフォンを机の上に置いた。
画面に自分の顔が映る。
頬が丸い。
額が少し広い。
目つきは、緊張しているせいか、いつもより険しく見えた。
「笑顔や。笑顔」
口角を上げてみる。
不自然だった。
今度は少し力を抜く。
それでも、ぎこちない。
「何してんねん、俺……」
そのとき、画面が切り替わった。
『木村さんがあなたを招待しました』
いよいよ始まる。
俺は、震える指で参加ボタンを押した。
*
「こんばんはー!」
最初に聞こえてきたのは、木村の明るい声だった。
「大野さん、聞こえます?」
「あ、ああ。聞こえるで」
「よかった。じゃあ、みんな入ってきてるんで、紹介しますね」
画面に、次々と顔が映し出された。
木村。
その隣には、笑顔の女性がいる。
「こちらが妻の由紀です」
「こんばんは。木村がお世話になってます」
「いやいや、こちらこそ」
俺は、少し背筋を伸ばした。
続いて、女性が二人、画面に現れた。
「こちら、佐藤さん。会社の事務をしてます」
「佐藤真由です。よろしくお願いします」
三十歳くらいだろうか。
肩までの髪に、落ち着いた雰囲気の女性だった。
「こちらは、井上さん。医療関係のお仕事です」
「井上美奈です。よろしくお願いします」
最後の女性は、柔らかい笑顔を浮かべていた。
俺は二人の顔を交互に見た。
どちらも、普通に感じのいい女性だった。
ただ、それだけだ。
まだ何も始まっていない。
「それで、こちらが大野さん。僕の職場の先輩です」
「大野健太です。よろしくお願いします」
俺は、少し大きな声で挨拶した。
「大野さんって、野球されるんですよね?」
木村の妻が尋ねた。
「せやねん。草野球やけどな。高校でも野球やっててん」
「へえ、すごいですね!」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸が弾んだ。
すごいですね。
女性から褒められた。
それだけで、少し気持ちが大きくなる。
しかし、すぐに考え直した。
木村の妻は、単純に話題を振ってくれただけかもしれない。
俺はまだ、何も評価されていない。
「いや、全然すごないで。高校でも補欠やったし、今も草野球でエラーばっかりや」
「あはは。正直ですね」
真由が笑った。
その笑顔を見て、俺の心臓がまた跳ねた。
あかん。
笑った。
今、俺の話で笑ってくれた。
もしかして、話しやすいと思ってくれたのかもしれない。
いや、待て。
面白い話だったから笑っただけかもしれない。
俺は心の中で、何度もブレーキを踏んだ。
それでも、期待する気持ちは完全には消えなかった。
*
交流会は、思っていたよりも普通だった。
仕事の話。
休日の過ごし方。
最近見たテレビ番組。
新型コロナウイルスの影響で、生活がどう変わったか。
そんな話題が続いた。
「大野さんは、休日は何をしてるんですか?」
美奈が尋ねた。
「野球やな。あとは、友達と飯食べに行ったり」
「野球って、試合もあるんですか?」
「あるで。まあ、最近はコロナの影響で活動休止やけどな」
「そうなんですね。運動できないと、ストレスたまりそうですね」
「せやねん。俺、体動かすの好きやから」
そこで、俺は少し考えた。
相手の話を聞く。
自分ばかり話さない。
それが、藤井から言われたことだった。
「美奈さんは、休日は何してるん?」
「私は、家で映画を見たり、料理したりですね。最近は外に出にくいので、家で過ごすことが多いです」
「へえ。どんな映画見るん?」
「ミステリーとか、ヒューマンドラマが好きです」
「そうなんや。俺、映画はあんまり詳しくないねん」
「そうなんですね」
美奈は、にこやかに答えた。
会話はそこで一区切りついた。
俺は焦った。
何か話題を出さなければ。
沈黙が続いたら、つまらない男だと思われる。
そう考えた俺は、慌てて口を開いた。
「料理もするんやったら、結婚したらええ奥さんになりそうやな!」
言った瞬間、空気が止まった。
いや、止まったように感じた。
美奈の笑顔が、ほんの少しだけ薄くなった。
「あはは。どうでしょうね」
彼女は笑って答えた。
しかし、それ以上は何も言わなかった。
木村が、すぐに別の話題を振った。
「そういえば、由紀が最近パン作りを始めたんですよ」
「へえ、パン作りか。ええなあ!」
俺は慌てて話に乗った。
会話は元に戻った。
だが、俺の頭には、さっきの言葉が残っていた。
結婚したら、ええ奥さんになりそう。
俺は、何を言っているのだろう。
相手は、俺と初めて話している女性だ。
結婚どころか、恋愛の話をする関係ですらない。
それなのに、俺は勝手に相手の将来を想像し、そこに自分の願望を重ねてしまった。
しかも、料理が好きだという話を聞いただけで、家庭的な女性だと決めつけている。
俺は、自分が嫌になった。
*
交流会は、一時間ほどで終わった。
「今日はありがとうございました」
真由が挨拶する。
「また機会があれば、話しましょう」
美奈も笑顔で言った。
「こちらこそ、ありがとうな」
俺は手を振った。
画面が暗くなる。
部屋には、俺一人だけが残った。
俺は椅子の背もたれに体を預け、大きく息を吐いた。
「……あかんかったかな」
誰に聞かせるわけでもなく、つぶやいた。
女性と話せた。
会話も成立した。
笑ってもらえた場面もあった。
それなのに、俺は満足できなかった。
連絡先を交換したかった。
もっと自分に興味を持ってほしかった。
できれば、次も俺と話したいと思ってほしかった。
つまり、俺は交流会を楽しむことより、自分が女性にどう評価されたかを気にしていたのだ。
相手が何を話していたか。
何を楽しいと感じていたか。
俺は、どれだけ覚えているだろう。
ミステリー映画が好き。
料理をする。
家で過ごすことが多い。
覚えているのは、その程度だった。
しかも、俺は美奈が料理をするという話を聞いて、勝手に結婚相手としての評価を始めていた。
「……ほんま、あかんな」
スマートフォンが震えた。
木村からメッセージが届いていた。
『大野さん、お疲れさまでした。どうでした?』
俺は、しばらく画面を見つめたあと、返信した。
『緊張したけど、普通に話せたで』
『よかったじゃないですか!』
『せやけど、途中で余計なこと言うてもうた』
『何かありました?』
俺は正直に書いた。
『料理するって聞いて、結婚したらええ奥さんになりそうやなって言うてもうた』
少し間があった。
そして、木村から返事が来た。
『それは、ちょっと早かったかもしれませんね』
『やっぱりか』
『でも、失敗したから終わりってわけでもないですよ。次に同じことをしなければいいんです』
俺は、その文章を何度も読み返した。
次に同じことをしなければいい。
簡単そうで、難しい。
俺は今まで、失敗すると落ち込んで終わりだった。
なぜ失敗したのかを考えず、運が悪かったとか、相手と合わなかったとか、そんな理由で片づけていた。
野球でも同じだった。
エラーをすれば、グラウンドの状態が悪いと言い訳する。
打てなければ、相手の投手が良かったと言う。
自分が何を間違えたのか、深く考えようとしなかった。
恋愛も同じなのだろう。
相手が自分を好きになってくれなかったから失敗した。
そう考える前に、自分が相手にどう接していたのかを振り返る必要がある。
俺は、スマートフォンのメモ帳を開いた。
そして、三つ目の項目を書き加えた。
『相手のことを、少ない情報だけで決めつけない』
その下に、もう一つ書いた。
『自分が好かれることだけを目的にしない』
書き終えたあと、俺はスマートフォンを机に置いた。
*
翌週の月曜日。
会社の休憩室で、木村と昼食を食べていた。
「そういえば、大野さん」
「ん?」
「今度、また交流会をやるかもしれません」
俺は、箸を止めた。
「ほんまか?」
「はい。今度は、もう少し人数を増やそうかって話になってます」
「へえ……」
胸の奥が、少しだけ弾んだ。
だが、前回と同じことを繰り返したくはなかった。
「次も参加してええんか?」
「もちろんです。誰かと仲良くなれたら、それはそれでいいですし、普通に話すだけでもいいじゃないですか」
「……そうやな」
俺はうなずいた。
女性と話すことを、特別な試験のように考えなくてもいいのかもしれない。
相手に気に入られるために、格好をつける必要もない。
もちろん、清潔感や礼儀は大切だ。
だが、それ以上に大切なのは、相手を一人の人間として見ることなのだろう。
そう考えていると、木村が笑った。
「大野さん、何か変わりましたね」
「そうか?」
「前だったら、今ごろ『あの女性は脈ありか?』って聞いてきそうですから」
「お前、俺を何やと思ってんねん!」
二人で笑った。
少しだけ、気持ちが軽くなった。
*
その日の夜。
ドリーム・エース・ナインのグループチャットで、俺は交流会の報告をした。
『オンライン交流会、参加してきたで』
『おお! ついに来たか!』
田村が反応する。
『どうやった? 誰か気に入ったんか?』
中村が続いた。
『連絡先は交換したんか?』
岡本まで聞いてくる。
『いや、交換してへん』
『何やねん!』
中村の突っ込みが飛んできた。
『でも、女性と普通に話せたんやろ?』
藤井が尋ねた。
『せやな。緊張したけど、話はできた』
『それで十分やろ。いきなり彼女を作る必要はないんやから』
その言葉に、俺はうなずいた。
『ただ、一つ失敗してん』
『何や?』
俺は、結婚したらいい奥さんになりそうだと言ってしまったことを説明した。
すると、田村が返信した。
『お前、相手のこと何も知らんのに、もう結婚生活を想像しとるやんけ!』
『うるさいわ!』
『でも、分かる気はするで』
石田が割り込んできた。
『俺ら、女の人と話す機会が少ないから、一回話せただけで特別なことに感じてまうんやろな』
その言葉に、誰もすぐには返事をしなかった。
俺も、何も言えなかった。
女性と話すこと。
誰かに笑ってもらうこと。
自分の話を聞いてもらうこと。
俺にとっては、どれも特別なことだった。
だからこそ、その小さな出来事に大きな意味を求めてしまう。
自分が寂しいから。
自分が恋愛をしたいから。
自分が誰かに必要とされたいから。
その気持ちが強すぎて、相手の気持ちを置き去りにしてしまう。
俺は、グループチャットにメッセージを送った。
『俺、相手に好かれたいって気持ちばっかりやったんかもしれん』
少しして、藤井から返事が来た。
『そら、誰だって好かれたいと思うやろ。でも、自分が好かれたい気持ちと、相手を大切にする気持ちは、同じとは限らんで』
俺は、その言葉を胸の中で繰り返した。
自分が好かれたい。
相手を大切にしたい。
似ているようで、違う。
相手が自分の望む返事をしてくれなかったとき、俺はどうするのだろう。
自分の期待どおりに連絡を返してくれなかったら。
自分の誘いを断られたら。
自分よりほかの男を選んだら。
そのときにも、相手を大切にできるだろうか。
正直、自信はなかった。
だが、今まで考えもしなかったことを、考え始めていた。
*
深夜。
俺はベッドに横になり、部屋の天井を見つめていた。
交流会に参加したからといって、恋人ができたわけではない。
女性と連絡先を交換したわけでもない。
俺の人生は、昨日とほとんど変わっていない。
それでも、少しだけ違うことがあった。
俺は、女性と話したあと、相手の気持ちを勝手に決めつけてはいけないと考えた。
自分の発言を振り返った。
失敗した理由を考えた。
そして、次にどうすればいいのかを考えた。
それは、恋愛のテクニックなどではなかった。
人と付き合うための、ごく当たり前のことだった。
「三十五歳にもなって、こんなことから勉強せなあかんとはな……」
俺は苦笑した。
それでも、遅すぎるとは思いたくなかった。
高校時代、俺は野球部の補欠だった。
レギュラーになれなかった悔しさを、今でも覚えている。
あのころの俺は、練習しているつもりだった。
だが、試合に出られない理由を、監督の見る目や、先輩との相性のせいにしたこともあった。
今になって思えば、自分に足りないものを直視するのが怖かったのかもしれない。
恋愛でも、同じことを繰り返すのだろうか。
俺は目を閉じた。
答えは、まだ分からない。
ただ、一つだけ決めた。
次に女性と話すときは、相手に気に入られるためだけに話すのではなく、相手のことを知るために話そう。
その結果、恋愛につながらなくてもいい。
少なくとも、相手の気持ちを無視して、自分の妄想だけで試合を終わらせるのはやめよう。
そう思った。
だが、恋愛という試合は、練習どおりに進むほど簡単ではない。
そして、俺はまだ知らなかった。
どれだけ自分を変えようとしても、寂しさが強くなったとき、人は簡単に昔の自分へ戻ってしまうことを。
その兆しは、すぐそこまで来ていた。
ゴールデンウィークが近づくにつれ、会社の仕事は減り、外出の機会も少なくなっていった。
友人たちのSNSには、家族と過ごす写真が並んでいた。
子どもの笑顔。
夫婦で作った料理。
家族で過ごす休日。
俺は、それらを眺めながら、何とも言えない気持ちになった。
そして、ある夜。
高校時代の野球部仲間から、一枚の写真が送られてきた。
そこには、かつて俺が憧れていた女性が写っていた。
彼女は、幸せそうに笑っていた。
隣には、見知らぬ男がいた。
写真の下には、短い言葉が添えられていた。
『結婚しました!』
俺は、画面を見つめたまま動けなくなった。
まだ、何も始まっていない。
何も失っていないはずだった。
それなのに、胸の奥が痛かった。
俺は初めて、自分が恋愛をしていないことだけではなく、誰かの人生が自分の知らないところで進んでいくことにも、寂しさを感じたのだった。




