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『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第一章 2020年春――恋愛活動、プレイボール!

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第7話 優しさの向こう側にあるもの

 四月中旬。


 新型コロナウイルスの影響で、世の中の景色が少しずつ変わり始めていた。


 駅前の商店街では、営業時間を短縮する店が増えた。会社では休憩室の席を一つずつ空けるように指示され、食堂では向かい合って座ることを禁止された。


 そして、俺の楽しみだった草野球も、当面の活動休止が決まった。


「なんやねん。野球もできへん、飲みにも行かれへん。休日に何をせえっちゅうねん」


 日曜日の朝、俺は自分の部屋でスマートフォンを眺めながらぼやいていた。


 画面には、ドリーム・エース・ナインのグループチャットが表示されている。


『今日から腹筋百回や!』


 キャプテンの田村が、朝から威勢のいいメッセージを送っていた。


『百回? 俺は昨日、三十回やったで』


 石田が返す。


『昨日やったんか。今日は?』


『今日は休養日や』


『早すぎるやろ!』


 藤井の突っ込みに、俺は思わず笑った。


 相変わらずの連中だった。


 練習ができなくなった途端、全員が何かしらの言い訳を探し始めている。


 俺も人のことは言えない。


 朝の散歩を始めて一週間。


 最初は十分歩くだけでも、何か新しい自分になったような気がしていた。


 しかし、今朝は布団から出るのが面倒だった。


 スマートフォンを置き、天井を見上げる。


「三十五歳にもなって、俺は何をしてるんやろな」


 恋人はいない。


 女性と付き合った経験もない。


 もちろん、キスもしたことがない。


 会社に行き、働き、家に帰る。


 給料が入れば、野球用品を買ったり、仲間と飯を食べたりする。


 それなりに生活はできている。


 だが、ふとした瞬間に思うのだ。


 このまま四十歳になったら、俺は何をしているのだろう。


 五十歳になったら?


 六十歳になったら?


 父親と母親がいなくなったら?


 その先のことを考えると、胸の奥が妙に冷たくなった。


「……あかん。朝から暗いこと考えてもしゃあない」


 俺は布団から起き上がり、ジャージに着替えた。


 とりあえず、散歩に行く。


 それくらいなら、今の俺にもできる。


     *


 近所の公園を一周し、住宅街を歩いていると、母親から電話がかかってきた。


「健太、今どこ?」


「散歩中や」


「お父さんの薬、そろそろなくなるらしいねん。次の診察のこともあるし、病院に電話して確認してくれへん?」


「俺が?」


「お父さん、電話で説明するの苦手やろ。あんた、今日は休みやねんから頼むわ」


「分かったわ」


 電話を切り、俺はため息をついた。


 父親は昔から、自分の体調について詳しく話したがらない。


 病院に行っても「大丈夫や」の一言で済ませる。


 そのくせ、薬の飲み方や診察の日程については、母親に任せきりだった。


 俺は家に戻ると、父親の診察券と薬の袋を確認した。


 そして病院に電話をかけた。


 診察や薬の受け取りについて確認すると、受付の職員は丁寧に説明してくれた。


 必要なことをメモし、電話を切る。


 ふと、先日の病院での出来事を思い出した。


 書類を届けたとき、俺に声をかけてくれた看護師。


 なおみさん。


 お年寄りに優しく声をかけ、俺にも穏やかな笑顔を向けてくれた女性だ。


 名前を思い出しただけで、胸が少し弾んだ。


 しかし、すぐに自分へ言い聞かせる。


 あの人は仕事をしていただけだ。


 俺のことを好きになったわけではない。


 そもそも、俺のことをどれくらい覚えているかも分からない。


「……よし」


 俺は小さくうなずいた。


 それでも、彼女のことが気になる自分までは否定できなかった。


 誰かを好きになることと、その人に好かれていると思い込むことは違う。


 その違いを、俺は今まで考えたこともなかった。


     *


 昼過ぎ。


 父親が居間で新聞を読んでいた。


「お父さん、病院に確認したで。次の診察は予定どおりや。薬のことも聞いといた」


「おう。助かった」


 父親は新聞から目を離さずに答えた。


「それだけ?」


「何がや」


「いや、別に」


 俺がむっとすると、父親はようやく顔を上げた。


「なんや。礼が足りんのか」


「そういうわけちゃうけどな」


「ほな、ええやろ」


 父親は再び新聞に目を落とした。


 昔から、こういう人だった。


 感謝していないわけではない。


 ただ、言葉にするのが苦手なのだ。


 俺は台所へ向かう途中、ふと思った。


 俺は女性に対して、優しくされたらすぐに特別な意味を考えてしまう。


 けれど、自分自身はどうだろう。


 母親に何かを頼まれても、面倒くさそうに返事をする。


 父親に感謝されなければ、腹を立てる。


 自分が相手に何をしてあげたかばかり考え、相手がどんな気持ちでいるのかは、あまり考えていない。


 恋愛以前の問題なのかもしれない。


「健太、昼ご飯は?」


 母親の声が飛んできた。


「食べるわ!」


「ほな、うどんでええ?」


「ええで!」


 いつもと変わらない日曜日。


 俺は、母親が作ってくれたうどんを食べた。


 そして、食べ終わった丼を流しに運んだ。


「ごちそうさん」


「あら、珍しい。自分で持ってきたん?」


「いや、いつも持ってきてるやろ」


「そうやった?」


 母親は笑った。


 俺は何も言わず、丼を洗い始めた。


 たったそれだけのことだった。


 それでも、自分が誰かに何かをしてあげるとき、相手から見返りを求めていないか。


 そんなことを、少しだけ考えた。


     *


 夜。


 俺はドリーム・エース・ナインのグループチャットにメッセージを送った。


『今日、親父の病院のことで電話した』


 すぐに田村から返事が来た。


『なんや、急に報告やな』


『いや、別に大した話ちゃうねんけどな』


『恋愛の話ちゃうんかい!』


 中村が茶化す。


『病院の看護師と進展があったんかと思ったわ』


 岡本まで乗ってきた。


『お前ら、すぐそういう話にするなや』


 俺は苦笑した。


 少し考えてから、続きを打ち込む。


『この前、看護師さんに優しくされたやろ。あれ、俺のことが好きとかやなくて、仕事やったんやなって、改めて思ってん』


 送信すると、しばらく反応がなかった。


 やがて藤井からメッセージが届いた。


『それに気づいたんは、ええことやと思うで』


『でも、好きになったらあかんわけちゃうやろ?』


 俺はその言葉を見て、少し考えた。


『そら、そうやな』


『せや。好きになるのは自由や。ただ、相手も同じ気持ちやと思い込むのは別の話や』


 藤井は続けた。


『相手のことを知ろうとするんと、自分の妄想に相手を当てはめるんは違うからな』


 画面を見つめながら、俺は先日の自分を思い出した。


 なおみさんが優しく声をかけてくれた。


 それだけで、俺は彼女のことを勝手に想像していた。


 どんな男が好きなのか。


 どんな場所でデートしたいのか。


 結婚したら、どんな家庭を作るのか。


 彼女自身について、何も知らないのに。


『分かった。気をつけるわ』


 俺がそう送ると、田村がすかさず返した。


『よし! 恋愛強化計画、第一段階クリア!』


『何がクリアやねん。まだ何も始まってへんわ』


『自分で分かってるだけ、去年までのお前よりマシや』


 石田の言葉に、俺は苦笑した。


 去年までの俺。


 いや、ほんの一か月前までの俺だって、たいして変わらなかった。


 女性が笑えば、自分に気があるのかもしれないと思う。


 話しかけられれば、脈があるのかもしれないと思う。


 親切にされれば、他の男とは違う存在になれた気がする。


 そして、相手が自分の期待どおりに動かなければ、勝手に落ち込む。


 相手の気持ちを確認する前に、自分の中で勝手に試合を始めていたのだ。


 しかも、相手が試合に参加しているかどうかすら、確認していなかった。


「……そら、勝てるわけないわな」


 俺は一人でつぶやいた。


     *


 翌朝。


 出勤前に体重計に乗ると、先週よりわずかに体重が減っていた。


「おっ、ええやん!」


 たった数百グラム。


 それでも、少しうれしかった。


 俺は鏡の前に立ち、自分の腹を見た。


 まだまだ出ている。


 顔も丸い。


 髪型だって、特別格好いいわけではない。


 だが、今までの俺は、そうした外見の問題ばかりを気にしていた。


 痩せたらモテる。


 服を変えたらモテる。


 高い野球用品を買うように、何かを手に入れれば自分が変わると思っていた。


 もちろん、身だしなみを整えることは大切だ。


 体を健康に保つことも大切だ。


 ただ、それだけで他人の気持ちまで変えられるわけではない。


 俺は洗面台で顔を洗った。


 タオルで顔を拭き、鏡を見つめる。


「まずは、自分のことからやな」


 誰かに好かれるためだけではなく、自分の生活を少しずつ変えていく。


 そんな考えが、ようやく頭に浮かび始めていた。


 もちろん、これで急に女性と話せるようになるわけではない。


 明日になれば、また余計なことを考えるかもしれない。


 相手の笑顔を、自分への好意だと勘違いするかもしれない。


 それでも、気づいたときに立ち止まることはできる。


 俺は玄関で靴を履いた。


 会社へ向かうため、ドアを開ける。


 春の空気は、まだ少し冷たかった。


 恋人はいない。


 女性と付き合った経験もない。


 三十五歳の俺は、相変わらず恋愛の初心者だった。


 だが、ようやく分かり始めたことがある。


 恋愛は、自分の願望を相手に受け入れてもらう競技ではない。


 相手にも、相手の人生がある。


 その当たり前のことを、俺は三十五歳になって、ようやく学び始めたのだった。


 そして、その週の金曜日。


 会社の休憩室で、木村が俺に意外なことを言った。


「大野さん。今度、うちの嫁の友達と、オンラインで話してみません?」


「……は?」


 俺は、飲みかけの缶コーヒーを持ったまま固まった。


「いや、別に合コンとか、そういう大げさな話じゃないですよ。コロナで外にも出にくいし、何人かで雑談するだけです」


「女の人もおるんか?」


「いますよ。独身の人も」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の心臓が跳ねた。


 独身の女性。


 つまり、恋愛の可能性がある相手。


 頭の中で、いくつもの妄想が走り出しかける。


 しかし、俺は一度だけ深呼吸した。


「……どんな人なん?」


 まずは、そう尋ねた。


 木村は笑った。


「それは、話してみないと分からないですよ」


 そのとおりだった。


 話してみないと分からない。


 相手がどんな人なのか。


 自分と合うのか。


 相手が自分をどう思うのか。


 何一つ、まだ分からない。


「……分かった。予定が合えば、参加するわ」


 俺はそう答えた。


 胸の奥では、期待が膨らんでいた。


 それでも、今回は少しだけ違った。


 最初から恋人になることを考えるのではなく、まずは一人の人間として話してみる。


 それができるかどうか。


 俺にとっての本当の初打席は、そこから始まるのかもしれなかった。


 ――ただし。


 このときの俺は、まだ知らなかった。


 相手の話を聞くことと、相手の話を聞いたつもりになることは、まったく違うということを。


 そして、オンライン画面の向こうにいる女性の一人が、俺の思い込みを、思いもよらない形で打ち砕くことになるのだった。

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