第6話 白衣の天使と、勘違い男の第二打席
四月。
大野健太は、仕事帰りの電車の中でスマートフォンを眺めていた。
新型コロナウイルスの感染拡大により、街の様子は少しずつ変わっていた。
マスクを着ける人が増え、店の営業時間が短縮され、休日に仲間と集まることも難しくなった。
ドリーム・エース・ナインの練習も、再開の見通しが立っていない。
健太にとっては、退屈な毎日だった。
仕事をして、家に帰り、飯を食べる。
テレビを見て、スマートフォンを触り、眠る。
それを繰り返すうちに、気づけば三十五歳になっていた。
「……俺、このままでええんかな」
窓に映った自分の顔を見て、健太はつぶやいた。
少し疲れた顔。
伸びかけた髪。
マスクの上からでも分かる、丸い頬。
高校時代、野球部で汗を流していた頃の自分とは違う。
もちろん、昔に戻りたいわけではない。
ただ、今の自分に何か一つでも、自信を持てるものが欲しかった。
仕事では、特別な出世をしたわけではない。
野球では、レギュラーになれなかった過去を引きずっている。
そして、恋愛では、何一つ経験がない。
健太はスマートフォンを操作した。
ドリーム・エース・ナインのグループチャットを開く。
『みんな、最近何してる?』
しばらくして、田村から返信が来た。
『仕事と家の往復や』
石田が続ける。
『食うて寝てる』
中村からは、パチンコ店の営業状況を気にしているようなメッセージが届いた。
藤井は、健太の質問に別の角度から答えた。
『お前は恋愛活動してるんか?』
『してるわ!』
『何を?』
『……考えてる』
『それは活動ちゃう。脳内会議や』
健太はスマートフォンを握りしめた。
「ほんま、あいつら……」
腹は立つ。
しかし、反論できないのが悔しかった。
実際、ここ数日、健太は何もしていない。
新しい出会いもない。
女性と話す機会もない。
ただ、恋愛について考えているだけだった。
そんなとき、藤井から個別メッセージが届いた。
『健太。出会いがないなら、まず自分の生活を見直してみたらどうや』
『どういう意味や?』
『身だしなみとか、体重とか、休日の過ごし方とか。恋愛の前に、自分で変えられるところはあるやろ』
健太は画面を見つめた。
言い方は腹立たしい。
まるで、自分に問題があると言われているようだ。
しかし、思い当たるところがないわけでもなかった。
休日は、家で寝ていることが多い。
食べる量は多い。
運動は草野球が中心だったが、その草野球も休止中だ。
髪型は、いつも同じ。
服は、着られればいい。
自分が女性だったとして、今の自分を恋人に選びたいと思うだろうか。
そこまで考えたところで、健太は首を振った。
「いや、外見だけがすべてちゃうやろ」
そのとおりだ。
外見だけがすべてではない。
だが、外見を理由に何も変えないことと、外見だけで人を判断しないことは、別の話だった。
健太はスマートフォンを置いた。
とりあえず、明日は少し早く起きてみよう。
そう決めた。
ただし、翌朝、目覚ましを止めて二度寝することになるのだが。
*
その週の土曜日。
健太は母親に頼まれ、近所の病院へ書類を届けに行くことになった。
「なんで俺が行かなあかんねん」
「お父さん、今日は家で休んどきたいんやって」
母の美代子が答えた。
「お母さんが行ったらええやん」
「私は買い物があるの」
「俺も用事あるわ」
「何の用事?」
「……特にないけど」
「ほな、頼むわ」
健太はため息をついた。
結局、断れなかった。
病院までは自転車で十五分ほど。
到着すると、入口には感染対策についての案内が掲示されていた。
受付で書類を渡し、簡単な確認を済ませる。
そのまま帰るつもりだった。
しかし、廊下の向こうから聞こえてきた声に、健太は足を止めた。
「大丈夫ですよ。ゆっくり息をしてくださいね」
見ると、看護師らしい女性が、高齢の患者に声をかけていた。
患者は不安そうな顔をしていたが、女性の説明を聞くうちに、少しずつ落ち着いていった。
女性は、患者が話し終わるまで急かさなかった。
相手の目を見て、言葉を選びながら、ゆっくりと説明している。
その姿を見て、健太は思った。
――優しい人やな。
その感想に、特別な意味はなかった。
少なくとも、その瞬間までは。
「大野さん?」
突然、名前を呼ばれた。
振り返ると、先ほどの女性がこちらを見ていた。
「あれ? 大野さんですよね?」
「えっ?」
健太は目を丸くした。
どうして、自分の名前を知っているのだろう。
女性は、健太の戸惑いに気づいたように笑った。
「先ほど受付で、お名前を確認しましたので。ご家族の書類を届けに来られたんですよね?」
「あ、ああ! そうです!」
健太は慌ててうなずいた。
「すみません、びっくりさせましたね」
「いや、全然!」
女性は軽く頭を下げた。
「私、看護師のなおみといいます。よろしくお願いします」
「大野健太です。よろしくお願いします!」
言ってから、健太は自分の声が大きすぎたことに気づいた。
廊下にいた数人が、こちらを振り返っている。
「あ、すみません……」
「ふふ。大丈夫ですよ」
なおみは笑った。
健太の胸が、どくんと鳴った。
笑顔。
優しい声。
落ち着いた話し方。
彼女は、健太がこれまで出会ってきた女性とは、どこか違って見えた。
もちろん、これまで出会った女性が悪かったわけではない。
ただ、健太は女性と話す機会そのものが少なかった。
そのため、少し会話をしただけでも、相手の印象が強く残ってしまう。
「お父さまのことで、何か分からないことがあれば、受付で相談してくださいね」
「はい。ありがとうございます」
「それでは、失礼します」
なおみは、別の患者に呼ばれて歩いていった。
健太は、その後ろ姿を見送った。
そして、頭の中で考えた。
――看護師さんか。
――優しい人やな。
――俺の名前も知ってくれてる。
――ひょっとして……。
そこまで考えたところで、健太は立ち止まった。
「いやいやいや!」
自分の頬を軽く叩いた。
「まだ何も始まってへん!」
薬局での経験が、少しは役に立ったらしい。
健太は自分に言い聞かせた。
名前を知っているのは、受付で確認したから。
笑顔なのは、患者や家族に接する仕事だから。
優しいのは、看護師として相手を安心させようとしているから。
それだけだ。
そこに恋愛感情があるとは限らない。
健太は大きく息を吐いた。
「よし。今回は冷静や」
その直後、彼の頭の中では、なおみと食事をする想像が始まっていた。
人間の習慣というものは、そう簡単には変わらない。
*
病院を出た健太は、帰り道にある公園のベンチに座った。
春の風が吹いている。
公園では、親子が距離を取りながら遊んでいた。
健太はスマートフォンを取り出し、藤井にメッセージを送った。
『今日、病院で看護師さんと話した』
返信は、すぐに来た。
『ほう』
『優しい人やった』
『ほう』
『名前は、なおみさん』
『ほう』
『お前、ほうしか言わんやんけ!』
藤井から、笑いのスタンプが送られてきた。
『で、何があったん?』
『書類を届けに行ったら、声をかけてくれた』
『向こうから?』
『せや』
『何て?』
『大野さんですよね、って』
返信が止まった。
健太は、少し期待した。
もしかしたら、藤井も今回は違う反応をするかもしれない。
数秒後、メッセージが届いた。
『受付で名前を確認したんやろ』
『……せや』
『健太』
『なんや』
『お前、相手の行動を全部、自分に都合よく解釈する癖があるんちゃうか』
健太は、画面を見つめた。
言い返そうとした。
しかし、言葉が出てこなかった。
確かに、そうかもしれない。
理沙のときもそうだった。
笑顔を向けられただけで、自分に好意があるのではないかと考えた。
なおみのときも、名前を呼ばれただけで、特別な意味を探そうとしていた。
それは、彼女たちが何かをしたからというより、自分が何かを期待していたからではないのか。
健太は、ゆっくりと文字を打った。
『……そうかもしれん』
藤井からの返信は、いつもより少し遅かった。
『気づけたなら、そこからや』
『何から?』
『相手を知ることや。自分の想像を知ってもらうことばっかり考えんと、相手がどんな人か知ろうとすること』
健太は、スマートフォンを見つめた。
相手がどんな人か。
それは、簡単なようで難しい。
健太は女性と話すとき、いつも自分がどう思われているかを気にしていた。
変な男だと思われていないか。
つまらないと思われていないか。
恋愛対象として見てもらえるか。
そんなことばかり考えていた。
相手が何を考えているのか。
何に困っているのか。
どんな人生を歩んできたのか。
そうしたことは、ほとんど考えていなかった。
健太は、藤井に返信した。
『次に会うことがあっても、変に期待せんようにするわ』
『期待するのは勝手や。ただ、相手の気持ちを勝手に決めつけるな』
健太は、その言葉を何度も読み返した。
期待すること自体が悪いわけではない。
誰かを好きになることも、誰かと仲良くなりたいと思うことも、自然な感情だ。
ただし、相手にも自分の意思がある。
自分の願いと、相手の気持ちは別々のものだ。
健太は、少しだけ分かったような気がした。
*
その夜。
健太は、久しぶりに自分の部屋を片づけることにした。
机の上には、読みかけの恋愛指南本。
床には、脱いだままのジャージ。
棚には、野球の雑誌と古い試合の写真。
自分でも、少しひどいと思った。
「こんなんやから、あかんねんな」
健太は、床の服を拾った。
しかし、すぐに手が止まった。
部屋を片づければ、恋人ができるわけではない。
体重を落とせば、女性に好かれるわけでもない。
服装を変えれば、人生が劇的に変わるわけでもない。
それでも、自分の生活を整えることには意味がある。
少なくとも、自分で変えられることを放置したまま、誰かに認めてもらおうとするよりはいい。
健太は、机の上のノートを開いた。
先日、自分で書いた言葉が残っている。
『自分が話したいことより、相手が話したいことを聞く』
その下に、もう一行書き足した。
『相手の優しさを、自分への好意だと決めつけない』
さらに考えて、三行目を書いた。
『自分がどう思われるかだけでなく、相手がどんな人なのかを知ろうとする』
書き終えると、健太はノートを閉じた。
これで明日から完璧になれるわけではない。
次に女性と話したとき、また勘違いをするかもしれない。
余計なことを言うかもしれない。
失敗して、恥をかくかもしれない。
それでも、何も考えずに同じ失敗を繰り返すよりは、少しだけ前に進める気がした。
健太は、ベッドに横になった。
頭に浮かぶのは、なおみの笑顔だった。
優しい人だと思う。
もっと話してみたいとも思う。
けれど、今はそれ以上のことを決めつけない。
彼女が自分をどう思っているかは、分からない。
そもそも、彼女は仕事中だった。
自分が知らないところで、彼女には彼女の生活がある。
その生活の中に、自分が登場するかどうかも分からない。
「……まあ、焦らんことやな」
健太は、木村の言葉を思い出した。
今までは、焦るなと言われるたびに腹が立った。
しかし、焦ることと、行動することは違う。
自分を変えるためにできることはある。
ただし、その努力の結果として、誰かが自分を好きになってくれるとは限らない。
それでも、自分の人生を少しずつ良くしていくことはできる。
健太は目を閉じた。
明日は、少し早く起きよう。
朝食を食べる前に、十分だけ歩いてみよう。
そんな小さな目標を立てた。
もちろん、明日も寝坊する可能性はある。
しかし、少なくとも今日は、自分の欠点を一つだけ認めることができた。
*
翌朝。
午前七時。
健太の部屋に、目覚まし時計の音が響いた。
ピピピピ、ピピピピ。
「……うるさい」
健太は布団の中から手を伸ばした。
目覚ましを止める。
そして、目を閉じた。
五分後。
「健太! いつまで寝とるん!」
母の美代子の声が、家中に響いた。
「起きてるわ!」
「起きてへんやろ!」
「今、起きるとこや!」
健太は布団から起き上がった。
時計を見る。
午前七時二十分。
「……二十分も寝てもうた」
それでも、今日は起きた。
顔を洗い、着替え、家の外へ出る。
朝の空気は、思ったより気持ちよかった。
健太は家の周りを歩き始めた。
十分。
たった十分の散歩だった。
帰宅すると、母が不思議そうな顔で迎えた。
「どうしたん、朝から」
「いや、ちょっと歩いてきただけや」
「何か悪いもんでも食べたん?」
「俺を何やと思っとんねん!」
美代子は笑った。
「ええことやん。続けや」
「……続いたらな」
健太も笑った。
その日、彼は劇的に変わったわけではない。
体重も減っていない。
恋人もできていない。
女性から連絡が来たわけでもない。
それでも、自分で決めたことを一つだけ実行した。
それは、誰かに褒めてもらうためではなかった。
誰かに好かれるためだけでもなかった。
自分の人生を、自分で少しずつ動かしてみるためだった。
健太は、朝食のトーストをかじった。
バターを塗りすぎたせいか、少し脂っこい。
「……明日は、もうちょっと薄く塗ろ」
そんなことを考えながら、彼は食卓についた。
恋愛の試合は、まだ始まったばかりだ。
健太は、相手の気持ちを勝手に決めつけないことを学び始めた。
だが、次に彼が出会う女性は、健太が想像しているような分かりやすい相手ではなかった。
そして、彼はまだ知らない。
相手の気持ちを尊重することと、自分の気持ちを伝えること。
その二つを両立するのが、どれほど難しいのかを。
恋愛活動、第二章ではなく、第一章の第二打席。
健太はようやく、相手の顔を見ることを覚え始めた。
しかし、相手の心まで見えるようになるには、まだまだ時間がかかりそうだった。




