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『性欲と肉体のナイトゲーム』  作者: こうた
第一章 2020年春――恋愛活動、プレイボール!

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第5話 白衣の天使は、俺だけに微笑んだわけじゃない

 三月下旬。


 大阪の街から、少しずつ活気が失われ始めていた。


 テレビをつければ、新型コロナウイルスのニュース。


 会社では手洗いや消毒の徹底が呼びかけられ、食堂のテーブルには人と人との距離を空けるよう注意書きが貼られた。


 ドリーム・エース・ナインの練習も、しばらく中止になった。


 休日に仲間と集まって騒ぐことができない。


 パチンコに行くのも気が引ける。


 飲み屋に行くのも難しい。


 家に帰れば、母親から結婚の話をされる。


 健太にとって、これほど退屈な春はなかった。


「健太、ちょっと買い物してきてくれへん?」


 日曜日の午前中。


 母の美代子が、台所から声をかけた。


「何を買うん?」


「お父さんの薬。いつもの薬局でもらうんやけど、今日は私、買い物に行かなあかんから」


「薬局に行くだけやろ?」


「ついでに食パンと牛乳も買ってきて。あと、あんたのお菓子も」


「俺のお菓子はいらん!」


「ほな、プリンは?」


「……買うてきて」


 美代子は、にやりと笑った。


「ほんま、いつまでたっても子どもやなあ」


「うるさいわ!」


 健太は財布とマスクを持ち、家を出た。


 目的地は、歩いて十五分ほどの診療所に併設された薬局だった。


 父の正一は高血圧の薬を定期的に処方してもらっている。今回は母が受け取りに行く予定だったが、健太が代わりに行くことになったのだ。


 薬局の待合スペースには、数人の患者が座っていた。


 受付で事情を説明し、必要な手続きを済ませる。


 健太は椅子に腰を下ろした。


 スマートフォンを取り出し、何となく動画サイトを開く。


 表示されたのは、恋愛に関する動画だった。


『三十代男性が恋人を作るために、最初にやるべき五つのこと』


「……また、これか」


 健太は動画を再生した。


 清潔感を意識する。


 相手の話を聞く。


 出会いの機会を増やす。


 自分の価値観を押しつけない。


 そして、断られたら相手の意思を尊重する。


 どれも、最近よく聞く話だった。


「分かっとるっちゅうねん」


 小声でつぶやいた。


 だが、本当に分かっているのかと聞かれれば、自信はなかった。


 動画を見ていると、受付から声がかかった。


「大野さん、お薬の準備ができました」


 顔を上げた健太は、思わず姿勢を正した。


 受付の向こうにいたのは、白衣を着た女性だった。


 年齢は二十代半ばくらいだろうか。


 肩まで伸びた髪を後ろでまとめ、落ち着いた声で説明している。


 名札には、**「小川理沙」**と書かれていた。


「こちらがお薬です。お父さまのお薬なので、念のため、用法をご確認ください」


「あ、はい」


「今回は前回と同じ内容ですが、何か変わったことがあれば、処方元の先生に相談してくださいね」


「分かりました」


「お大事になさってください」


 理沙は、にこりと笑った。


 その瞬間だった。


 健太の頭の中で、何かが弾けた。


 ――笑った。


 ――今、俺に笑いかけてくれた。


 ――ひょっとして、俺に気があるんちゃうか?


 いや、待て。


 ここは薬局だ。


 相手は仕事中だ。


 自分は父親の薬を受け取りに来ただけだ。


 そんなことは分かっている。


 分かっているのだが。


 健太の頭の中では、すでに別の物語が始まっていた。


 何度か通って顔を覚えてもらう。


 少しずつ会話を増やす。


 仲良くなったら、食事に誘う。


 うまくいけば交際。


 そして、いつか結婚。


 彼女が自分の実家に来て、母と一緒に料理をする。


 父が孫を抱いて笑う。


 自分は仕事から帰り、玄関で妻に迎えられる。


「おかえりなさい、あなた」


「ただいま」


 健太は、そこで一人うなずいた。


 ――ええやん。


 理想の家庭や。


「お客さま?」


「はいっ!」


 突然、別の職員から声をかけられ、健太は飛び上がった。


「こちら、お薬の袋です。お忘れ物のないようにお願いします」


「あ、ありがとうございます!」


 健太は薬を受け取り、逃げるように薬局を出た。


     *


 帰り道。


 健太の足取りは、なぜか軽かった。


 薬局でのやり取りは、ほんの数分。


 交わした言葉も、薬の説明と簡単な返事だけ。


 それなのに、彼の頭の中では、理沙との出会いが特別な出来事に変わっていた。


 健太は歩きながら、スマートフォンを取り出した。


 ドリーム・エース・ナインのグループチャットを開く。


『みんな、聞いてくれ』


 すぐに藤井から返信が来た。


『何や。コンビニの店員に告白したんか?』


『違うわ!』


『ほな、何やねん』


 健太は少し迷った。


 まだ何も起きていない。


 名前を知っただけだ。


 それでも、誰かに話したかった。


『今日、薬局でめっちゃ感じのええ女性に会った』


 数秒後、返信が並んだ。


『それで?』と田村。


『美人か?』と松田。


『薬は何や?』と石田。


『最後のやつ、関係ないやろ!』と健太。


 藤井から、さらにメッセージが届いた。


『向こうは何て言うたん?』


『薬の説明と、お大事にって』


『それだけ?』


『それだけや』


『……健太』


『なんや』


『それ、普通の接客や』


 健太はスマートフォンを握りしめた。


『分かっとるわ!』


『分かってる人間は、こんなに早く報告せえへん』


 田村のメッセージに、笑いのスタンプがいくつも並んだ。


 健太は画面を閉じた。


 腹が立つ。


 仲間たちは、どうして自分の気持ちを分かってくれないのか。


 ほんの少し、いいなと思っただけだ。


 恋をしたかもしれない。


 そう思うくらい、別にいいではないか。


 誰にも迷惑はかけていない。


 そう考えながらも、健太の胸の奥には、先ほどから消えない疑問があった。


 彼女は、自分だから笑ってくれたのだろうか。


 それとも、誰にでも同じように笑うのだろうか。


 確かめる方法は、今の健太には分からなかった。


     *


 翌週の月曜日。


 健太は会社で、昼休みに木村亮と向かい合っていた。


 食堂の窓際。


 木村は弁当を食べながら、スマートフォンで子どもの写真を見せていた。


「昨日、うちの子が自転車に乗れるようになってん」


「へえ、よかったやん」


「せやねん。最初は怖がってたけど、何回も練習してな。最後は自分で乗れたんよ」


 木村は、嬉しそうに笑った。


 健太はその顔を見ながら、少しだけうらやましくなった。


 木村には妻がいる。


 子どもがいる。


 家族で過ごす時間がある。


 もちろん、結婚すれば毎日が幸せになるわけではないだろう。


 木村も、仕事や育児で疲れていることがある。


 それでも、彼には自分の知らない経験がある。


「なあ、木村」


「ん?」


「結婚って、どんな感じなん?」


「急やな」


「いや、ちょっと聞いてみたくなって」


 木村は箸を置いた。


「そうやなあ。楽しいこともあるし、しんどいこともあるで」


「しんどいんか?」


「そら、しんどいときもあるやろ。お金のこともあるし、家事もあるし、子どもの世話もある。自分の時間なんか、独身の頃より減ったわ」


「それでも、結婚してよかったと思う?」


 木村は少し考えた。


「うん。少なくとも、俺はな」


 その答えは、健太が想像していたものより、ずっと普通だった。


 結婚すれば人生が完成する。


 そんな大げさな話ではない。


 ただ、好きな人と一緒に暮らし、子どもが成長するのを見て、面倒なことも二人で何とかしていく。


 木村にとっての結婚は、そういう日常なのだろう。


「なんや、もっとすごいもんやと思ってたわ」


 健太が言うと、木村は笑った。


「すごいこともあるで。でも、毎日がドラマみたいなわけちゃうからな」


「……せやな」


「それより、健太。最近、何かあったんか?」


「何もないわ」


「ほんまか?」


「ほんまや」


 健太は、薬局で出会った女性の話をしようか迷った。


 しかし、まだ名前を知っただけだ。


 話したところで、また藤井たちに笑われるだろう。


「いや、ちょっと考え事や」


 そう答えると、木村は深く追及しなかった。


「まあ、焦らんことやな」


「何をや?」


「いろいろや」


 木村は弁当の残りを食べ始めた。


 健太は、その言葉を聞いて、妙に腹が立った。


 焦るな。


 急ぐな。


 相手の気持ちを考えろ。


 周囲の人間は、みんな同じようなことを言う。


 では、いつまで待てばいいのだろう。


 もう三十五歳だ。


 このまま何もしなければ、四十歳になっても、五十歳になっても、何も変わらないかもしれない。


 行動しなければ始まらない。


 そう考えること自体は、間違っていない。


 ただ、健太はまだ気づいていなかった。


 行動することと、相手の気持ちを無視して自分の望む結果へ進もうとすることは、まったく別の話なのだ。


     *


 その日の夜。


 健太は自室のベッドに寝転がり、スマートフォンで検索を始めた。


『薬局 女性 仲良くなる方法』


 検索結果には、さまざまな記事が表示された。


 店員との会話のきっかけ。


 自然な声のかけ方。


 連絡先を交換するタイミング。


 健太は次々と記事を開いた。


 ある記事には、こう書かれていた。


 ――相手が仕事中の場合、接客上の笑顔や親切を個人的な好意と誤解しないこと。


「……分かっとるっちゅうねん」


 健太は、画面をスクロールした。


 別の記事には、こうあった。


 ――相手が断りにくい状況で、何度も話しかけたり、個人的な質問を続けたりしないこと。


「そんなこと、せえへんわ」


 さらに別の記事には、こう書かれていた。


 ――相手が自分に関心を持っていない可能性も、最初から受け入れておくこと。


 健太は、そこで指を止めた。


 関心を持っていない可能性。


 その言葉が、なぜか胸に引っかかった。


 自分は、まだ何も始めていない。


 何も始めていないのに、すでに相手が自分を好きになってくれる可能性ばかり考えている。


 逆に、相手が自分に興味を持っていない可能性については、考えたくなかった。


 なぜだろう。


 健太は天井を見つめた。


 もしかすると、自分は恋人が欲しいというより、誰かに選ばれたいのかもしれない。


 自分を特別だと思ってくれる人が欲しい。


 自分を認めてくれる人が欲しい。


 自分が今まで過ごしてきた三十五年間は、無駄ではなかったと証明してくれる人が欲しい。


 もしそうなら、相手が誰なのかは、それほど重要ではないのだろうか。


 そんな考えが浮かび、健太は慌てて首を振った。


「いやいや、考えすぎや」


 自分はただ、彼女がいいなと思っただけだ。


 それでいいではないか。


 健太はスマートフォンを枕元に置いた。


 明日になれば、また仕事がある。


 仕事をして、家に帰って、食事をして、眠る。


 今までと同じ日常が続く。


 だが、彼はまだ知らなかった。


 自分が恋愛に求めているものを理解しない限り、どんな女性と出会っても、同じ失敗を繰り返すことになる。


 相手の言葉を聞く前に、自分の望む意味を与えてしまう。


 相手の事情を知る前に、自分の物語に登場させてしまう。


 そして、自分の想像と現実が違ったとき、傷ついた自分のことばかり考えてしまう。


 それが、健太の恋愛における最初の壁だった。


     *


 数日後。


 健太は、父親の薬を受け取りに行くため、再び薬局を訪れた。


 受付には、理沙がいた。


「あ、大野さん。こんにちは」


「こ、こんにちは!」


 理沙が笑顔で挨拶した。


 健太の心臓が、少しだけ速くなった。


 覚えてくれている。


 自分の顔を覚えてくれているのだ。


 それだけで、健太の胸は温かくなった。


「今日は、お父さまのお薬ですね」


「はい。そうです」


「前回と同じ内容になっています。こちらで確認をお願いします」


「分かりました」


 健太は書類を受け取り、必要事項を確認した。


 そのとき、理沙の隣にいた別の女性職員が、患者に向かって声をかけた。


「こんにちは。今日はどうされましたか?」


 その女性職員も、笑顔だった。


 丁寧に話を聞き、相手の目を見て、落ち着いた声で説明している。


 理沙も同じように、次の患者に対応していた。


「お薬のことで分からないことがあれば、いつでもご相談くださいね」


 健太は、その様子を見つめた。


 誰にでも、同じように笑う。


 誰にでも、丁寧に接する。


 それが、彼女の仕事なのだ。


 自分が特別だからではない。


 少なくとも、今のところは。


「大野さん、こちらをどうぞ」


 理沙が薬を差し出した。


「ありがとうございます」


「お大事になさってください」


「……はい」


 健太は薬を受け取り、軽く頭を下げた。


 いつもなら、そこから何か話しかけようと考えたかもしれない。


 自分の趣味を話す。


 天気の話をする。


 何とか会話を続ける。


 けれど、その日は違った。


 後ろには、次の患者が待っている。


 理沙は仕事をしている。


 自分は薬を受け取りに来ただけだ。


 健太は、それ以上何も言わずに薬局を出た。


 外へ出ると、春の風が吹いていた。


 少し肌寒い。


 健太はポケットに手を入れ、ゆっくり歩き始めた。


 理沙のことを、もう諦めたわけではない。


 気になる気持ちは残っている。


 もし、いつか仕事とは関係のない場所で出会うことがあれば、話をしてみたいとも思う。


 ただ、彼女が自分を特別扱いしてくれているわけではないことは、少しだけ分かった。


 それは、ほんの小さな気づきだった。


 だが、健太にとっては、今までになかった一歩だった。


 彼はスマートフォンを取り出し、グループチャットにメッセージを送った。


『薬局の女性、やっぱり普通に仕事してるだけやったわ』


 すぐに藤井から返信が来た。


『おお、成長したやん』


 田村も続けた。


『まだ何も始まってへんけどな』


『分かっとるわ!』


 健太は思わず笑った。


 そのあと、少し考えてから、もう一度メッセージを送った。


『でも、感じのええ人やった。それは変わらん』


 今度は、誰もからかわなかった。


 数秒後、藤井から短い返信が届いた。


『それでええねん』


 健太は、その言葉をしばらく眺めていた。


 相手を好きになることは、悪いことではない。


 期待することも、悪いことではない。


 ただ、自分が好きになったからといって、相手に同じ気持ちを求めることはできない。


 そんな当たり前のことを、健太は少しずつ学び始めていた。


 まだ、恋人はいない。


 女性と付き合った経験もない。


 手をつないだことも、キスをしたこともない。


 童貞という事実は、何も変わっていない。


 それでも、今までとまったく同じではなかった。


 健太は空を見上げた。


「……まあ、ぼちぼちやな」


 誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。


 恋愛という試合は、相手の打席を勝手に決めることではない。


 相手がどんな球を投げるのか。


 どこを目指しているのか。


 そもそも、自分と同じ試合に参加する気があるのか。


 それを知ろうとするところから、始めなければならない。


 そして、その試合には、必ずしも勝利が用意されているわけではない。


 健太はまだ、そのことを十分には理解していなかった。


 けれど、少なくとも今日は、彼女の笑顔を自分だけのものだと思い込まずに帰ることができた。


 それだけでも、今の健太にとっては、小さな進歩だった。


恋愛活動、第三打席。


空振りではなかった。


ただし、まだ一度もバットを振る必要のない場面で、勝手にホームランを想像していただけなのかもしれない。

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