第5話 白衣の天使は、俺だけに微笑んだわけじゃない
三月下旬。
大阪の街から、少しずつ活気が失われ始めていた。
テレビをつければ、新型コロナウイルスのニュース。
会社では手洗いや消毒の徹底が呼びかけられ、食堂のテーブルには人と人との距離を空けるよう注意書きが貼られた。
ドリーム・エース・ナインの練習も、しばらく中止になった。
休日に仲間と集まって騒ぐことができない。
パチンコに行くのも気が引ける。
飲み屋に行くのも難しい。
家に帰れば、母親から結婚の話をされる。
健太にとって、これほど退屈な春はなかった。
「健太、ちょっと買い物してきてくれへん?」
日曜日の午前中。
母の美代子が、台所から声をかけた。
「何を買うん?」
「お父さんの薬。いつもの薬局でもらうんやけど、今日は私、買い物に行かなあかんから」
「薬局に行くだけやろ?」
「ついでに食パンと牛乳も買ってきて。あと、あんたのお菓子も」
「俺のお菓子はいらん!」
「ほな、プリンは?」
「……買うてきて」
美代子は、にやりと笑った。
「ほんま、いつまでたっても子どもやなあ」
「うるさいわ!」
健太は財布とマスクを持ち、家を出た。
目的地は、歩いて十五分ほどの診療所に併設された薬局だった。
父の正一は高血圧の薬を定期的に処方してもらっている。今回は母が受け取りに行く予定だったが、健太が代わりに行くことになったのだ。
薬局の待合スペースには、数人の患者が座っていた。
受付で事情を説明し、必要な手続きを済ませる。
健太は椅子に腰を下ろした。
スマートフォンを取り出し、何となく動画サイトを開く。
表示されたのは、恋愛に関する動画だった。
『三十代男性が恋人を作るために、最初にやるべき五つのこと』
「……また、これか」
健太は動画を再生した。
清潔感を意識する。
相手の話を聞く。
出会いの機会を増やす。
自分の価値観を押しつけない。
そして、断られたら相手の意思を尊重する。
どれも、最近よく聞く話だった。
「分かっとるっちゅうねん」
小声でつぶやいた。
だが、本当に分かっているのかと聞かれれば、自信はなかった。
動画を見ていると、受付から声がかかった。
「大野さん、お薬の準備ができました」
顔を上げた健太は、思わず姿勢を正した。
受付の向こうにいたのは、白衣を着た女性だった。
年齢は二十代半ばくらいだろうか。
肩まで伸びた髪を後ろでまとめ、落ち着いた声で説明している。
名札には、**「小川理沙」**と書かれていた。
「こちらがお薬です。お父さまのお薬なので、念のため、用法をご確認ください」
「あ、はい」
「今回は前回と同じ内容ですが、何か変わったことがあれば、処方元の先生に相談してくださいね」
「分かりました」
「お大事になさってください」
理沙は、にこりと笑った。
その瞬間だった。
健太の頭の中で、何かが弾けた。
――笑った。
――今、俺に笑いかけてくれた。
――ひょっとして、俺に気があるんちゃうか?
いや、待て。
ここは薬局だ。
相手は仕事中だ。
自分は父親の薬を受け取りに来ただけだ。
そんなことは分かっている。
分かっているのだが。
健太の頭の中では、すでに別の物語が始まっていた。
何度か通って顔を覚えてもらう。
少しずつ会話を増やす。
仲良くなったら、食事に誘う。
うまくいけば交際。
そして、いつか結婚。
彼女が自分の実家に来て、母と一緒に料理をする。
父が孫を抱いて笑う。
自分は仕事から帰り、玄関で妻に迎えられる。
「おかえりなさい、あなた」
「ただいま」
健太は、そこで一人うなずいた。
――ええやん。
理想の家庭や。
「お客さま?」
「はいっ!」
突然、別の職員から声をかけられ、健太は飛び上がった。
「こちら、お薬の袋です。お忘れ物のないようにお願いします」
「あ、ありがとうございます!」
健太は薬を受け取り、逃げるように薬局を出た。
*
帰り道。
健太の足取りは、なぜか軽かった。
薬局でのやり取りは、ほんの数分。
交わした言葉も、薬の説明と簡単な返事だけ。
それなのに、彼の頭の中では、理沙との出会いが特別な出来事に変わっていた。
健太は歩きながら、スマートフォンを取り出した。
ドリーム・エース・ナインのグループチャットを開く。
『みんな、聞いてくれ』
すぐに藤井から返信が来た。
『何や。コンビニの店員に告白したんか?』
『違うわ!』
『ほな、何やねん』
健太は少し迷った。
まだ何も起きていない。
名前を知っただけだ。
それでも、誰かに話したかった。
『今日、薬局でめっちゃ感じのええ女性に会った』
数秒後、返信が並んだ。
『それで?』と田村。
『美人か?』と松田。
『薬は何や?』と石田。
『最後のやつ、関係ないやろ!』と健太。
藤井から、さらにメッセージが届いた。
『向こうは何て言うたん?』
『薬の説明と、お大事にって』
『それだけ?』
『それだけや』
『……健太』
『なんや』
『それ、普通の接客や』
健太はスマートフォンを握りしめた。
『分かっとるわ!』
『分かってる人間は、こんなに早く報告せえへん』
田村のメッセージに、笑いのスタンプがいくつも並んだ。
健太は画面を閉じた。
腹が立つ。
仲間たちは、どうして自分の気持ちを分かってくれないのか。
ほんの少し、いいなと思っただけだ。
恋をしたかもしれない。
そう思うくらい、別にいいではないか。
誰にも迷惑はかけていない。
そう考えながらも、健太の胸の奥には、先ほどから消えない疑問があった。
彼女は、自分だから笑ってくれたのだろうか。
それとも、誰にでも同じように笑うのだろうか。
確かめる方法は、今の健太には分からなかった。
*
翌週の月曜日。
健太は会社で、昼休みに木村亮と向かい合っていた。
食堂の窓際。
木村は弁当を食べながら、スマートフォンで子どもの写真を見せていた。
「昨日、うちの子が自転車に乗れるようになってん」
「へえ、よかったやん」
「せやねん。最初は怖がってたけど、何回も練習してな。最後は自分で乗れたんよ」
木村は、嬉しそうに笑った。
健太はその顔を見ながら、少しだけうらやましくなった。
木村には妻がいる。
子どもがいる。
家族で過ごす時間がある。
もちろん、結婚すれば毎日が幸せになるわけではないだろう。
木村も、仕事や育児で疲れていることがある。
それでも、彼には自分の知らない経験がある。
「なあ、木村」
「ん?」
「結婚って、どんな感じなん?」
「急やな」
「いや、ちょっと聞いてみたくなって」
木村は箸を置いた。
「そうやなあ。楽しいこともあるし、しんどいこともあるで」
「しんどいんか?」
「そら、しんどいときもあるやろ。お金のこともあるし、家事もあるし、子どもの世話もある。自分の時間なんか、独身の頃より減ったわ」
「それでも、結婚してよかったと思う?」
木村は少し考えた。
「うん。少なくとも、俺はな」
その答えは、健太が想像していたものより、ずっと普通だった。
結婚すれば人生が完成する。
そんな大げさな話ではない。
ただ、好きな人と一緒に暮らし、子どもが成長するのを見て、面倒なことも二人で何とかしていく。
木村にとっての結婚は、そういう日常なのだろう。
「なんや、もっとすごいもんやと思ってたわ」
健太が言うと、木村は笑った。
「すごいこともあるで。でも、毎日がドラマみたいなわけちゃうからな」
「……せやな」
「それより、健太。最近、何かあったんか?」
「何もないわ」
「ほんまか?」
「ほんまや」
健太は、薬局で出会った女性の話をしようか迷った。
しかし、まだ名前を知っただけだ。
話したところで、また藤井たちに笑われるだろう。
「いや、ちょっと考え事や」
そう答えると、木村は深く追及しなかった。
「まあ、焦らんことやな」
「何をや?」
「いろいろや」
木村は弁当の残りを食べ始めた。
健太は、その言葉を聞いて、妙に腹が立った。
焦るな。
急ぐな。
相手の気持ちを考えろ。
周囲の人間は、みんな同じようなことを言う。
では、いつまで待てばいいのだろう。
もう三十五歳だ。
このまま何もしなければ、四十歳になっても、五十歳になっても、何も変わらないかもしれない。
行動しなければ始まらない。
そう考えること自体は、間違っていない。
ただ、健太はまだ気づいていなかった。
行動することと、相手の気持ちを無視して自分の望む結果へ進もうとすることは、まったく別の話なのだ。
*
その日の夜。
健太は自室のベッドに寝転がり、スマートフォンで検索を始めた。
『薬局 女性 仲良くなる方法』
検索結果には、さまざまな記事が表示された。
店員との会話のきっかけ。
自然な声のかけ方。
連絡先を交換するタイミング。
健太は次々と記事を開いた。
ある記事には、こう書かれていた。
――相手が仕事中の場合、接客上の笑顔や親切を個人的な好意と誤解しないこと。
「……分かっとるっちゅうねん」
健太は、画面をスクロールした。
別の記事には、こうあった。
――相手が断りにくい状況で、何度も話しかけたり、個人的な質問を続けたりしないこと。
「そんなこと、せえへんわ」
さらに別の記事には、こう書かれていた。
――相手が自分に関心を持っていない可能性も、最初から受け入れておくこと。
健太は、そこで指を止めた。
関心を持っていない可能性。
その言葉が、なぜか胸に引っかかった。
自分は、まだ何も始めていない。
何も始めていないのに、すでに相手が自分を好きになってくれる可能性ばかり考えている。
逆に、相手が自分に興味を持っていない可能性については、考えたくなかった。
なぜだろう。
健太は天井を見つめた。
もしかすると、自分は恋人が欲しいというより、誰かに選ばれたいのかもしれない。
自分を特別だと思ってくれる人が欲しい。
自分を認めてくれる人が欲しい。
自分が今まで過ごしてきた三十五年間は、無駄ではなかったと証明してくれる人が欲しい。
もしそうなら、相手が誰なのかは、それほど重要ではないのだろうか。
そんな考えが浮かび、健太は慌てて首を振った。
「いやいや、考えすぎや」
自分はただ、彼女がいいなと思っただけだ。
それでいいではないか。
健太はスマートフォンを枕元に置いた。
明日になれば、また仕事がある。
仕事をして、家に帰って、食事をして、眠る。
今までと同じ日常が続く。
だが、彼はまだ知らなかった。
自分が恋愛に求めているものを理解しない限り、どんな女性と出会っても、同じ失敗を繰り返すことになる。
相手の言葉を聞く前に、自分の望む意味を与えてしまう。
相手の事情を知る前に、自分の物語に登場させてしまう。
そして、自分の想像と現実が違ったとき、傷ついた自分のことばかり考えてしまう。
それが、健太の恋愛における最初の壁だった。
*
数日後。
健太は、父親の薬を受け取りに行くため、再び薬局を訪れた。
受付には、理沙がいた。
「あ、大野さん。こんにちは」
「こ、こんにちは!」
理沙が笑顔で挨拶した。
健太の心臓が、少しだけ速くなった。
覚えてくれている。
自分の顔を覚えてくれているのだ。
それだけで、健太の胸は温かくなった。
「今日は、お父さまのお薬ですね」
「はい。そうです」
「前回と同じ内容になっています。こちらで確認をお願いします」
「分かりました」
健太は書類を受け取り、必要事項を確認した。
そのとき、理沙の隣にいた別の女性職員が、患者に向かって声をかけた。
「こんにちは。今日はどうされましたか?」
その女性職員も、笑顔だった。
丁寧に話を聞き、相手の目を見て、落ち着いた声で説明している。
理沙も同じように、次の患者に対応していた。
「お薬のことで分からないことがあれば、いつでもご相談くださいね」
健太は、その様子を見つめた。
誰にでも、同じように笑う。
誰にでも、丁寧に接する。
それが、彼女の仕事なのだ。
自分が特別だからではない。
少なくとも、今のところは。
「大野さん、こちらをどうぞ」
理沙が薬を差し出した。
「ありがとうございます」
「お大事になさってください」
「……はい」
健太は薬を受け取り、軽く頭を下げた。
いつもなら、そこから何か話しかけようと考えたかもしれない。
自分の趣味を話す。
天気の話をする。
何とか会話を続ける。
けれど、その日は違った。
後ろには、次の患者が待っている。
理沙は仕事をしている。
自分は薬を受け取りに来ただけだ。
健太は、それ以上何も言わずに薬局を出た。
外へ出ると、春の風が吹いていた。
少し肌寒い。
健太はポケットに手を入れ、ゆっくり歩き始めた。
理沙のことを、もう諦めたわけではない。
気になる気持ちは残っている。
もし、いつか仕事とは関係のない場所で出会うことがあれば、話をしてみたいとも思う。
ただ、彼女が自分を特別扱いしてくれているわけではないことは、少しだけ分かった。
それは、ほんの小さな気づきだった。
だが、健太にとっては、今までになかった一歩だった。
彼はスマートフォンを取り出し、グループチャットにメッセージを送った。
『薬局の女性、やっぱり普通に仕事してるだけやったわ』
すぐに藤井から返信が来た。
『おお、成長したやん』
田村も続けた。
『まだ何も始まってへんけどな』
『分かっとるわ!』
健太は思わず笑った。
そのあと、少し考えてから、もう一度メッセージを送った。
『でも、感じのええ人やった。それは変わらん』
今度は、誰もからかわなかった。
数秒後、藤井から短い返信が届いた。
『それでええねん』
健太は、その言葉をしばらく眺めていた。
相手を好きになることは、悪いことではない。
期待することも、悪いことではない。
ただ、自分が好きになったからといって、相手に同じ気持ちを求めることはできない。
そんな当たり前のことを、健太は少しずつ学び始めていた。
まだ、恋人はいない。
女性と付き合った経験もない。
手をつないだことも、キスをしたこともない。
童貞という事実は、何も変わっていない。
それでも、今までとまったく同じではなかった。
健太は空を見上げた。
「……まあ、ぼちぼちやな」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。
恋愛という試合は、相手の打席を勝手に決めることではない。
相手がどんな球を投げるのか。
どこを目指しているのか。
そもそも、自分と同じ試合に参加する気があるのか。
それを知ろうとするところから、始めなければならない。
そして、その試合には、必ずしも勝利が用意されているわけではない。
健太はまだ、そのことを十分には理解していなかった。
けれど、少なくとも今日は、彼女の笑顔を自分だけのものだと思い込まずに帰ることができた。
それだけでも、今の健太にとっては、小さな進歩だった。
恋愛活動、第三打席。
空振りではなかった。
ただし、まだ一度もバットを振る必要のない場面で、勝手にホームランを想像していただけなのかもしれない。




